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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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10章 デスゲーム・リターンズ(Ⅲ・奥田恭三)



奥田恭三


 もう、三十……六、七……三十七年も経ったのか。


 場の会話に耳を傾けながら、頭の中で過ぎ去った年数を数えなおしていました。


 葛城様に仕え始めたのは、私が三十二歳のときです。葛城様は当時、四十代にさしかかったばかりでバイタリティに満ち、日々仕事に辣腕を振るってらっしゃいました。仕事に厳しい方でしたが、その厳しさには筋が通っていて、自他に区別なく課されました。


 私が失敗しても、怒鳴るような方ではありませんでした。代わりに、静かな失望を示されました。その失望が、怒鳴られるよりずっと重かった。葛城様の失望を買うまいとして、過ごしてきた三十七年でした。

 葛城様に仕えることは、私にとって、職業であることを越えて、生きることそのものになっていたのです。


 甥御様である達也様についても、長い時間をかけて観察してきました。


 葛城様が達也様と取引を始めたのは、十年以上前になります。

 甥御様というアドバンテージが取引の糸口になったのは確かでしたが、達也様は礼儀正しく、ビジネスにおいても誠実で、血縁を措いても信頼できる方という印象を持ちました。葛城様も達也様を信頼しておられるように見えました。やがて、達也様をグループに迎えましたし、二年ほど前には抜擢して一社をお任せするする重用ぶりでした。葛城様は達也様の能力を高く評価されていたと思います。


 ただ、ある時期から、私の中に小さな違和感がございました。

 達也様が葛城様と話されるとき、その目が葛城様を見ていない瞬間があります。言葉は葛城様に向けられていますが、視線は、その注意はどこか別の場所に向いている。ほんの一瞬のことで、私以外には気づかれなかったかもしれません。ただ、三十七年間、葛城様の傍らにいた私には、見えていました。


「立派な甥御さんですね」


 達也様について、葛城様にそう申し上げたことがあります。

 葛城様は少し間を置いてから、そうだな、とだけおっしゃいました。引っかかりました。同意しておられるようで、それだけではない何かを含んでいる言い方だと思いました。


 今も、達也様への印象は変わっていません。好きになれない、とまでは申しません。ただ、どこか裏を、暗いものを想起させられます。それ以上、達也様のことを葛城様に申し上げることはしませんでした。葛城様もきっと話してはくださらなかったでしょう。


 そして、あの夜のことです。


 ずっと、自分の中だけで抱えています。

 妙子様が葛城様の寝室に向かうお姿を、廊下で見ました。深夜の二時を過ぎていました。妙子様の手に、薬の瓶がありました。葛城様が毎晩お飲みになっている薬と同じものでした。

 妙子様と目が合いました。妙子様もこちらをはっきり認めておられました。


 それでも、声をかけませんでした。


 なぜ声をかけなかったのか。

 三十七年で、葛城様という方を私なりに学んできました。

 葛城様は、止められることを望んでおられなかった、と感じたからです。


 明確な根拠を示すことは難しい。ただ、ここ数ヶ月の葛城様のご様子、密かに進めておられた準備、私に語ってくださった言葉……それらを繋ぎ合わせると、一つの像が浮かんだのです。


 葛城様は、ご自身の死を設計しておられた。

 今日、この場があることこそ、その裏付けではありませんか。


 自分の箱を静かに開けると、緑色のボタンが見えました。

 押すべきでしょうか。


 三十七年、葛城様の指示に従ってきました。最後のご遺言に従うということが、これを押すことであれば、そうすべきなのでしょう。


 しかし、この場はまだ終わっていません。

 私がここに呼ばれた理由が、まだわかっていません。


 私は、箱を閉じました。



 妙子が参加を宣言してから、しばらく沈黙があった。


 達也が静かに口を開いた。

「この場を設計した葛城哲という人間について、少し考えてみませんか。本物のボタンは、誰の前に置かれていると思いますか」


 本物のボタン……その言葉には人を黙らせる魔力があるかのようだった。

 誰も答えず、場はより静まった。


「ランダムではないと思います」達也は穏やかに続けた。

「葛城哲は、何事も意図を持って実行する人でした。混同を防ぐために色の違うボタンになっている、という先ほどの話から考えても、六つのボタンには意図があると見るべきでしょう。本物のボタンは誰かに、なんらかの理由があって置かれているはずです」


「では誰に……」

 光が言った。


「それを考えることが、この場の意味なのかもしれません」

 達也はそう引き取って、静かに微笑んだ。本当に、この場を面白いと思っているようだった。


 剛が舌打ちした。

「面倒くさいことを言うな。押せばいいだろう。六分の一だ。当たる確率より外れる確率の方がずっと高い」

「では兄さんが最初に押しますか」と達也が静かに言った。

「俺は……」剛は少し詰まった。

「……ものには順番ってのが、あるだろ」


「誰かに押させて人柱にするということですか」と奥田が言った。

「言葉は悪いが、そういうことだ」

 剛は光を見た。

「お前、本当の孫なんだろ。爺さんがお前のところには本物を置くわけがない。だったらさっさと押せ」

「なぜ私が」光は剛に言い返す。

「本当の身内だからだ。水くさいことを言うな」

「あなたたちだって身内でしょう」

「俺たちは甥だ。相続人のお前とは違う」

 光は黙った。


 剛は席を立ち、光の椅子の後ろに来た。

「ったく……ぐずぐずするなよ。進まないだろ」

 そのままなれなれしく首に手をかける。

「触らないでください!」

 光の声がうわずった。


 剛は、舌打ちして達也を一瞥した。

 達也は静かに首を振った。

 剛は光から手を引いて身体を離したが、視線は外さなかった。


 しばらく、場が膠着した。


 光は箱の前で黙っていた。剛は左横から腕を組んで、光を見ている。

 妙子は自分の手元を見た。奥田は円卓の中央を見ていた。

 達也は静かに微笑み、白石遥は……この場の誰も見ていなかった。


 剛が不意に自席へ歩き出した。

「ちくしょう……鬱陶しいなぁ」

 誰に言うともなく、剛は言った。

「じゃあ、俺が先に押してやる。それならいいだろ」

 その一言が、場に落ちた。

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