10章 デスゲーム・リターンズ(Ⅱ・葛城妙子)
葛城妙子
哲さんと出会ったのは、七年前の秋だった。当時の私の名前は、伏見妙子だった。
その日、銀座の裏通りの小さな画廊で、知り合いのオーナーが扱っている日本画の個展があった。
画廊のオーナーとは、夜の仕事で知り合った仲だった。画廊を経営する男にしては気さくで、私が絵に目が利くことを知ってからは、たびたび展示に声をかけてくるようになった。店に通わなくても、私に会えると思ってのことなのはわかっていた。それでも私は画廊が好きだった……遠くなってしまった憧れを、残してきた場所だったから。
平日の昼過ぎ、客の少ない時間帯を選んで足を運び、ゆったりと見て歩くのが私の習慣だった。
一枚の絵の前で立ち止まった。枯れた蓮の水面を描いた作品で、色がなかった。墨だけで描かれているのに、水の冷たさが皮膚に届いてくるような気がして、心にすっと入ってきた。
気配があって顔を上げると、老齢の男性が隣に立っていた。背筋が伸びて、静かな佇まいだった。
しばらく、二人とも何も言わず、同じ絵を見ていた。
「冷たい絵ですね」
こぼれるように口から出た。
「そうだな」と男性が言った。「その冷たさが……とてもいい」
後からオーナーに紹介された。葛城哲という名前は、私でも知っていた。
……今になれば、あの出会いが偶然ではなかったことはわかる。
哲さんから最初に誘われたのは、都心に居を構えた小さな日本料理店だった。一人一人の客を丁寧に扱う店で、私にも、そうとわかる見事な料理をご馳走してもらった。
席でも哲さんは上品で、余計な干渉もしてこなかった。
沢山のことをあきらめて生きてきた私には、それが凄くありがたかった。代わりに、私が少しの嘘を交ぜながら、自分から話したことはよく聞いてくれた。全部哲さんはわかっていて、合わせてくれてたのかもしれない。
ずっと年上の男性の、ゆったりとした時間の流れは、思っていたより楽しかった。
その日から数日経って、堂島剛から連絡が来た。
剛とは、別の男からの紹介で、半年ほど前に知り合っていた。店の常連で、男っぽく、気前よく振る舞うのが好きな人だった。大柄で、人懐こくて、細かいことは気にしない。私を女として扱うやり方はぶっきらぼうだったけれど、それはそれで気楽だった。
その日の剛の声には、いやらしい響きがあった。
「いい人に会えたじゃないか」
剛は電話口で笑った。
「葛城さん、お前のこと気に入っただろ?」
出会いは、仕組まれていた。
そうと理解した瞬間、冷や汗が流れた。
でも、私は哲さんとも、剛とも、関係を切らなかった。哲さんとの関係はもう始まっていた。哲さんは大切にしてくれた。私も少しずつ哲さんに対して、愛情をもちはじめていた……と思う。
同時に、秘密を共有する剛との関係も、切れないままだった。
そして剛は弟、堂島達也を私に引き合わせたのだ。
上質なグレーのスーツを着た、ほっそりとした男だった。剛と並ぶと、同じ兄弟とは思えないほどシルエットが違った。人を落ち着かせる低めの通る声で、言葉を選んで話す。優しい男に見えた。
哲さんと知り合って二年が経ち、名字が今の葛城になった。
哲さんの息子夫婦はすでに離婚しており、孫の光は哲さんと二人で屋敷に住んでいた。
光は隠そうともしない態度で私を嫌った。私も光を可愛いとは思えなかった。哲さんは私と光の間に立とうとせず、どちらにも干渉しなかった。
結婚してからの五年間は、想像していたものとは少し違った。
金銭的な心配はなくなったけど、哲さんの財力から想像していたような派手さはなかった。静かな日々を哲さんを一緒に過ごした。二人で絵を眺めて、語った。そんな生活が嫌いじゃなかった。
それなのに、白石遙が家に上がり込んできた。
看護師の彼女を一目見たとき、私には、未来が見えた。哲さんの心が、白石に寄り添っていく未来が見えてしまった。私が哲さんを抱きしめて繋ぎ止めようとしても、白石がいるだけで、哲さんの心が揺らいで、私の腕から抜け落ちていくような気がした。許せない、と思った。
私は達也から電話を受けた。
思い出したくない、忌まわしい電話。
哲さんが死ぬ一週間前だった。
「妙子さん、一つお願いがあるんです」
達也の声は、いつも通り穏やかだった。
でも、内容を聞きながら、背中に氷の滴を垂らされるような寒気に襲われた。
「本当に、このままで……よいのですか?」
「白石さんを哲さんが選んだとき、あなたの居場所は……」
嫌だ、聞きたくない。心でそう思いながら、電話を切れなかった。
「ただ、すり替えるだけでいいんです。誰にもばれません」
「あなたは妻でしょう。裏切ったのは、哲さんですよ」
どうして断らなかったんだろう。どうして、私は。
「きっと白石さんは、あなたを笑います」
……私は、おかしくなっていた。
怖かった。白石の存在も、達也が全て知っていることも。
剛を通じて哲さんと知り合い、途中からは夫婦になって積み上げてきた七年間。私の過去も心も、達也に握られていた。
あの夜、私は哲さんの寝室に入り、哲さんは翌朝、死んだ。
廊下で、奥田さんに会ってしまった。目が合ったのに、彼は誰にも、何も言わなかった。
その理由も、もうわからない……奥田さんは今、向かいに座ってこちらを見ている。
自分の箱をそっと開けた。紫色のボタンが入っていた。
息が詰まる。
押せるか、と自問した。
哲さんが、あの夜のことへの返答として、本物をここに置いた可能性を思う。六分の一。
この部屋を出ることはできない。
出ていけばそれだけで、私は自分に秘密があると認めることになる。残った者たちがこの場で何を話すかも、わからなくなる。
私は……ここに座っているしかない。
◇
「奥田さん」
妙子は口を開いた。
「私は法定相続人です」
落ち着いて聞こえるように、必死で動揺を抑えて言った。
「配偶者としての相続権は、遺言でどう書かれていても、法律で保障されているはずです。この場から退場しても、私の取り分は確保されるはずです」
「おっしゃる通りです」
奥田が言った。
「ただ、正確に申し上げます」
持っていた紙を開いて確認する。
「葛城妙子さんが法定相続によって受け取れるのは遺留分です。遺留分とは、本来の法定相続分のさらに半分となります。葛城哲の遺産総額に対し、配偶者としての法定相続分は二分の一。その遺留分は、四分の一となります」
妙子の顔が、わずかに強張った。
「つまり、本来もらえるはずの半分、ということですか」
「そういうことになります」
「それは……」
妙子は言葉を切った。
「ずいぶんな……遺言ではありませんか」
堂島剛が鼻を鳴らした。
「仕方ないだろう。爺さんは、もうお前を信用してなかったんだ」
「兄さん」達也が静かに制した。
「この場に参加した場合、追加分が上乗せされます」奥田が続けた。「試算では、参加者全員が押した場合、妙子さんの取り分は遺留分の約1.5倍、妙子さん以外が誰も押さなかった場合は3倍以上になる可能性があります」
室内が静まった。
可能性、という言い方に皮肉な響きを妙子は感じた。
あくまで可能性――死ねばゼロもありうる。
「……押さない人がこの中にいるのかどうか。あまり良い条件ではないですね」
「出ていきたきゃ出てけ。その分俺に回ってくる」
妙子が横入りした剛を睨む。
「あと、欠格事項というのもありますね。例えば、相続人が被相続人を害するなど……これは例えですが、そういうことが明るみになった場合は、相続人から外れます」
達也は他人事のように、淡々と説明したが、その内容は、妙子の胸にぐさりと刺さった。
ここから立ち去ったら、剛と達也はどんな会話をするだろう……。
「わかりました」
妙子は絞り出すように言った。
「――参加します」
達也が笑顔のまま、微かに頷いた。




