8章 応報
『応報』
妻と娘が死んで、三年と四ヶ月が経った。
中村孝は今日も、その事実とともに目を覚ました。
眠っている間だけ、忘れられる。
目が覚めた瞬間に、全部が戻ってくる。三年以上経っても、その順番は変わらない。目覚め、一瞬の空白、それから重さが落ちてくる。毎朝、その繰り返しだった。
事故は、三年前の六月だった。長雨が続いて、視界の悪い日だった。
雨の夜、信号のある交差点。妻の美穂と、当時八歳だった娘の陽奈が横断歩道を渡っていたところに、赤信号を無視した車が突っ込んできた。加害者は二十四歳の男で、飲酒運転だった。美穂はその場で、陽奈は病院で翌朝に、それぞれ死んだ。
加害者の男、成瀬という名前の男は、起訴されて公判になり、実刑判決を受けた。中村は公判に出た。成瀬が法廷で頭を下げるのを見た。泣いていた。その涙が本物かどうか、中村にはわからなかった。あれから何度も思い出した顔と涙だが、今もわからない。
服役している間に、獄中から手紙が来た。謝罪の手紙だった。
中村は読んだ。読んで、返事を書かなかった。書けなかった。何を書けばいいのかわからなかったからだ。
成瀬は今年の春、刑期を終えて出所した。
その事実を知ったとき、中村は三日間、仕事を休んだ。休んで、何もしなかった。ただ部屋にいた。食欲もなく、眠れもせず、ただ時間をやり過ごした。
許せない、という感情は、ずっとある。
ただその感情は、最初のうちの激しさとは変わっていた。怒りというより、もっと重くて鈍いものになっていた。石のように胸の中に居座って、動かない。
成瀬に何かをしてやりたい、という気持ちも、最初はあった。ただその気持ちは、時間とともに形を変えた。殴りたいとか、怒鳴りたいとか、そういう衝動ではなくなった。
今、感じている重さを、できるだけそのまま言葉にしたとすれば……
――ただ、消えてほしかった。
この世界から、静かに、消えてほしかった。
◇
ぽっくりボタンのことを知ったのは、出所を知った翌月のことだった。
ネットを漠然と見ていて、たまたま目に入った。押すと苦痛なく死ねる、自然死扱いになる、誰にも迷惑をかけない。
最初は流した。頭にそのことが残らないように、意識的に忘れようとした。
しかし次の日も、その話題は頭の中に拭えず残っていた。
三日目に、中村はボタンについて詳しく調べ始めた。
都市伝説として流通している話で、実際に持っている人間がいるという書き込みがいくつかあった。入手経路は不明で、ある日突然届く、という話が多かった。信憑性は低いと理性では判断しつつも、完全に否定する気はしなかった。
もし本物ならば、と中村は考えた。
――成瀬に送れないだろうか。
考えながら、自分でもおかしいと思った。都市伝説のボタンを加害者に送って、どうなるというのか。押すかどうかは相手が決める。押さなければ何も起きない。
それでも、その考えが頭から離れなくなった。
一週間後、中村の郵便受けに、見覚えのない封筒が入っていた。
差出人の名前はなかった。中を開けると、白い小箱があった。
開けると、赤いボタンが入っていた。
同封の紙には、一行だけあった。
――押すと、楽に逝けます。
中村はその紙を読んで、箱を閉じた。
しばらく、テーブルの上の箱を見ていた。
来た、と思った。
◇
成瀬の現住所を調べるのに、一週間かかった。
出所後の住所を知るために、正規ではないルートを使った。弁護士を通じた問い合わせや、被害者支援の窓口に相談する方法もあったが、そちらを頼る気がしなかった。ネットの断片的な情報と、知人のつてを辿った。成瀬の出身地、家族の情報、居住地に近い施設の情報。大体の場所を絞り込んだ。
正確な住所は、最終的に探偵に頼んだ。費用が十数万円かかった。
封筒に入れて、判明したばかりの住所を宛先に書いた。差出人は書かなかった。
ポストに入れに行こうとして、玄関で止まった。
――これは何だ?自分は何をしようとしてるんだ?
本物かどうかわからないボタンを、相手が押すかどうかもわからないまま送りつける。それで自分は何を得るのか。成瀬が死んだとして、それが自然死として処理されたとして。
それで、自分の中の石は動くのか。
わからなかった。
ただ、手の中の封筒を捨てる気にもなれなかった。部屋に戻って、封筒を机の上に置いた。
◇
三日間、封筒は机の上にあった。
中村は仕事に行き、帰ってきて、飯を食い、眠り、また仕事に行った。その間、封筒には触れなかった。
四日目の夜、中村は封筒を開けて、箱を取り出した。
ボタンを手に取った。プラスチックなのに、やけにひやっとした感触がある。
これを成瀬に送ることと、自分が成瀬に何かを望むこととは、別の話だと気づいた。
送ることはできる。ただそれは、石を動かさない。石は中村の中にあるからだ。
成瀬が生きていては消えないと思う。
しかし、成瀬が死んだとしても、消えないのかもしれない。
美穂と陽奈は、もう戻らない。
それだけが、動かない事実だ。涙が流れた。
ボタンを箱に戻した。
空の封筒を手に取って、宛名を眺めた。成瀬、という名前の文字を見ていた。自分の筆跡だった。
封筒を破った。
封筒を二つに、四つに、八つに……それ以上細かく出来なくなるまで破って、ゴミ箱に捨てた。
箱はまだ手の中にあった。
成瀬に送るための箱が、行き場をなくした。
◇
翌週、中村は被害者支援の窓口に電話した。
電話したのはボタンとは関係がない、と自分では思っていた。
ただ、何かに突き動かされた、と感じていた。
担当者は丁寧だった。中村の話を最後まで聞いてから、いくつかの選択肢を説明してくれた。加害者に対して申し入れができること、面会という形もあること。知らなかったことがいくつかあった。
「直接、会いたいと思いますか」と担当者が聞いた。
中村はすぐに答えられなかった。
「……わかりません」
「それで大丈夫です。会うのは強制ではありませんし、会わないことを今すぐ無理に納得する必要もありません。時間をかけて考えてください」
電話を切って、中村はしばらく窓の外を見ていた。
会いたいかどうか、自分がわからなかった。
成瀬の顔は覚えている。法廷で見た顔だ。泣いていた顔だ。何度も思い出した顔だ。
あの顔に会って、何を言いたいのか、言えるのか、何も浮かばなかった。
ただ、初めて窓口に電話をしたことで、自分の中に何か、きざしのようなものを感じていた。ボタンを送る考えに全身が呑まれていた時の息苦しさ。そこからほんの少し、顔が水面に覗いたような。
中村の中の石が、わずかに動いた気がした。
◇
それから一月後、中村は支援窓口の紹介で、同じような境遇の人間が集まる場に出た。
季節は冬になっていた。強い風に吹かれながら、中村はコートにくるまるようにして集会場までの道を歩いた。
集会場は小さかった。交通事故で家族を亡くした遺族が数人、静かにテーブルを囲んでいた。中村は最初、ほとんど話さずに。他の人の話を聞いていた。
その中に、夫を亡くした女性がいた。事故からもう七年が経つと言った。
加害者に会ったことがある、とその女性は言った。会って、何かが解決したわけではない。ただ、会わないまま相手が消えることへの、言いようのない不満が、少し薄れた気がした、と言った。
薄れた、という言葉が、中村に引っかかった。
消えたわけではなくても、薄れた。
その言葉が帰り道も頭の中に残っていた。
風の中、家まで帰って、テーブルの上に置きっぱなしにしていた箱を見た。
箱からボタンを取り出した。
手の中のボタンは、ひやっとして、軽かった。
人の命をどうこうするには、軽すぎるくらいだった。
これを成瀬に渡したとして、成瀬が押したとして、美穂と陽奈は戻らない。
起きてしまった事実を、過去を、このボタンは何も変えない。そんなことは、悲しいほどわかっている。
中村はボタンを箱に戻して、台所の下、納戸の中にしまった。
しまってから、美穂と陽奈の写真が飾ってある棚に目をやった。二人が並んでいる写真で、どこかの公園で撮ったものだった。陽奈が笑っていて、美穂も笑っていた。
この写真を、誰にも見せたことがなかった。
見せる人間が、いてもいいのかもしれないと、ふと思った。
他愛のないことと思った。それでも、今日初めて思ったことだった。
日の落ちるのが早まっている。もう外は暗かった。
中村は立ち上がって、台所に行き、夕飯の用意を始めた。
足下の納戸の中に、ボタンのひんやりとした感触を思い出しながら。
一人分の、たいした量でもない夕飯を作った。
外の風は、まだ鳴り止まない。




