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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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7章 残務(下)

 会って何をするというわけでもない。謝りたいというほど殊勝ではないし、許してほしいというほど切実でもない。

 ただ、この先に何も残さずに消えてしまう前に、一度だけ、顔を見ておきたかった。ずっと長い間、川の向こうにいた人間の顔を。

 おかしな話だ。ボタンが来るまで、智樹のことなど半年以上思い出しもしなかった。それが今、押せない理由になっている。


 ボタンをサイドボードに戻した。



 相続の手続きをお願いした弁護士に電話した。智樹の現在の住所に手紙を届けてもらおうと思った。


 手紙には単純に、会いたい、とだけ書いた。理由は書かなかった。返事が来るかどうかわからなかったし、来なければそれはそれでいい。

 二週間後、智樹から電話があった。


「……父さん」と言う声は、記憶より低くなっていたが、確かに智樹の声だった。

「久しぶりだな」

「久しぶりです」

 二人してしばらく黙った。


「会いに来てくれるか」と朝倉が言った。

「遠いなら、こちらが出向く」

 言ってしまってから、会いたい、という気持ちの強さにあらためて気付いた。

「いえ、行きます」智樹はすぐに言った。

「来週末でいいですか」

 日付もすでに決めていたかのようだった。

「いい」

 それだけの会話だった。


 電話を切って、朝倉はしばらくソファに座っていた。川は夕方の光の中で、いつもと同じように流れていた。

 来週末まで、特に準備もするつもりはなかった。

 話すことも、特に考えなかった。会えばわかる、というのとも違う。ただ、会う、という事実だけがあればよかった。



 智樹は土曜日の昼過ぎに来た。

 五十代になった息子は、若い頃より顔が朝倉に似ていた。背が少し高く見えた。気付かない内に、自分が縮んだのだ、と思い至った。

 智樹はコートを脱いでソファの横に立ち、川の景色を見た。


「いい眺めですね」

「気に入ってる」


 二人で座ってコーヒーを飲んだ。朝倉がグラインダーで豆を挽いていると、智樹が「手伝います」と言って立ってきた。断る理由もなかったので任せた。智樹は慣れた手つきでコーヒーを淹れた。どこかで覚えたのだろう。


「体は」と智樹が聞いた。

「老いてる。それだけだ」

「病気は」

「年相応のものはある。命に関わるものは、今のところない」


 智樹はそれを聞いて、小さく息を吐いた。

 安堵なのか、何なのか、朝倉には判断できなかった。


 ぽつり、ぽつりと現況を事務的に報告するような、短い言葉で会話をした。智樹は組織人として、それなりに立派な肩書きになっていた。疎遠になっていった頃の、朝倉と反りの合わない、生意気な青年然とした様子は、すっかり消えていた。そのことが時間の長さを、そしてかすかな淋しさを感じさせた。

 家庭も順調で、智樹には息子が二人いた。今年上が大学生、下が高校生になったという。一度も見たことのない孫たち。言葉だけでは実感がわかなかった。


「写真があれば、見せてくれるか」


 智樹は頷いて、スマートフォンを出して画面を見せた。写真の中に、見覚えのない、しかし智樹に、どこか朝倉自身にも似た二つの若い顔があった。

 何かを言おうとして、うまく言葉が出なかった。


「……いい顔をしてる」


 それだけ言った。

 智樹は何も言わなかったが、スマートフォンをしまう前に、もう一度画面を見た。


 帰り際、智樹は玄関で振り返った。

「また来てもいいですか」

 朝倉は少し考えてから「ああ」と答えた。


「来い」


 智樹が出て行ってドアが閉まったあと、朝倉はしばらくそこに立っていた。

 リビングに戻って、サイドボードの引き出しを開けた。白い小箱が鎮座している。


 箱を取り出すことはしなかった。

 棚の奥に少しだけ押し入れて、取り出しにくくしただけだった。


 また来る、と智樹は言った。

 それだけで十分だった、ということを、朝倉はゆっくりと確かめるように、川を眺めた。水面が午後の光を受けて、静かに揺れていた。


 コーヒーカップが二つ、テーブルの上に残っていた。

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― 新着の感想 ―
『死』を切実に実感すると、人間、生きている今を丁寧に見つめるようになるのでしょうか? この不器用な親子がまた会って、コーヒーを飲みながらポツポツ、雑談をしてほしいですね。
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