7章 残務(下)
会って何をするというわけでもない。謝りたいというほど殊勝ではないし、許してほしいというほど切実でもない。
ただ、この先に何も残さずに消えてしまう前に、一度だけ、顔を見ておきたかった。ずっと長い間、川の向こうにいた人間の顔を。
おかしな話だ。ボタンが来るまで、智樹のことなど半年以上思い出しもしなかった。それが今、押せない理由になっている。
ボタンをサイドボードに戻した。
◇
相続の手続きをお願いした弁護士に電話した。智樹の現在の住所に手紙を届けてもらおうと思った。
手紙には単純に、会いたい、とだけ書いた。理由は書かなかった。返事が来るかどうかわからなかったし、来なければそれはそれでいい。
二週間後、智樹から電話があった。
「……父さん」と言う声は、記憶より低くなっていたが、確かに智樹の声だった。
「久しぶりだな」
「久しぶりです」
二人してしばらく黙った。
「会いに来てくれるか」と朝倉が言った。
「遠いなら、こちらが出向く」
言ってしまってから、会いたい、という気持ちの強さにあらためて気付いた。
「いえ、行きます」智樹はすぐに言った。
「来週末でいいですか」
日付もすでに決めていたかのようだった。
「いい」
それだけの会話だった。
電話を切って、朝倉はしばらくソファに座っていた。川は夕方の光の中で、いつもと同じように流れていた。
来週末まで、特に準備もするつもりはなかった。
話すことも、特に考えなかった。会えばわかる、というのとも違う。ただ、会う、という事実だけがあればよかった。
◇
智樹は土曜日の昼過ぎに来た。
五十代になった息子は、若い頃より顔が朝倉に似ていた。背が少し高く見えた。気付かない内に、自分が縮んだのだ、と思い至った。
智樹はコートを脱いでソファの横に立ち、川の景色を見た。
「いい眺めですね」
「気に入ってる」
二人で座ってコーヒーを飲んだ。朝倉がグラインダーで豆を挽いていると、智樹が「手伝います」と言って立ってきた。断る理由もなかったので任せた。智樹は慣れた手つきでコーヒーを淹れた。どこかで覚えたのだろう。
「体は」と智樹が聞いた。
「老いてる。それだけだ」
「病気は」
「年相応のものはある。命に関わるものは、今のところない」
智樹はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
安堵なのか、何なのか、朝倉には判断できなかった。
ぽつり、ぽつりと現況を事務的に報告するような、短い言葉で会話をした。智樹は組織人として、それなりに立派な肩書きになっていた。疎遠になっていった頃の、朝倉と反りの合わない、生意気な青年然とした様子は、すっかり消えていた。そのことが時間の長さを、そしてかすかな淋しさを感じさせた。
家庭も順調で、智樹には息子が二人いた。今年上が大学生、下が高校生になったという。一度も見たことのない孫たち。言葉だけでは実感がわかなかった。
「写真があれば、見せてくれるか」
智樹は頷いて、スマートフォンを出して画面を見せた。写真の中に、見覚えのない、しかし智樹に、どこか朝倉自身にも似た二つの若い顔があった。
何かを言おうとして、うまく言葉が出なかった。
「……いい顔をしてる」
それだけ言った。
智樹は何も言わなかったが、スマートフォンをしまう前に、もう一度画面を見た。
帰り際、智樹は玄関で振り返った。
「また来てもいいですか」
朝倉は少し考えてから「ああ」と答えた。
「来い」
智樹が出て行ってドアが閉まったあと、朝倉はしばらくそこに立っていた。
リビングに戻って、サイドボードの引き出しを開けた。白い小箱が鎮座している。
箱を取り出すことはしなかった。
棚の奥に少しだけ押し入れて、取り出しにくくしただけだった。
また来る、と智樹は言った。
それだけで十分だった、ということを、朝倉はゆっくりと確かめるように、川を眺めた。水面が午後の光を受けて、静かに揺れていた。
コーヒーカップが二つ、テーブルの上に残っていた。




