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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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7章 残務(上)


 朝、目が覚めるたびに、体が少しずつ遠くなっている。


 そんな気がする、というのではない。実感として、そうなっている。去年まで難なくできていたことが、今年はできない。今年できていることが、来年はできなくなる。その速度が、ここ数年で急に上がった。七十八歳というのは、そういう年齢らしかった。


 朝倉健治は、ベッドの端に腰を下ろして、しばらくそのままでいた。立ち上がるのに、少し準備がいる。膝と腰に力を入れる段取りを、頭の中で確認してから、ゆっくりと立つ。それが今の朝のやり方だった。

 立つだけで、なんという手間だろう。人間の身体とは、実に複雑で、その操作も複雑高度なものなのだ。毎朝それを自分の身体で実感させられる。老い、とはこういうものなのだ、と嫌でも思い知らされる。


 カーテンを開けると、川沿いの景色が広がった。マンションの八階から見下ろす川は、朝の光の中で静かに光っていた。五十代に差し掛かった頃、終の棲家にしてもいい、と考えてここを買った。買ってもう四半世紀が過ぎた。妻の和子も気に入ってくれたが、彼女は購入してすぐの三年しかここに住めなかった。彼女は病院のベッドに移って、ほどなく逝った。


 キッチンでコーヒーを淹れた。豆を挽くところからやる、というのが長年の習慣だった。ただ最近は、グラインダーの蓋を押さえる力が続かなくて、途中で手が震える。それでも続けているのは、やめてしまうと何か大切なものを手放す気がするからだ。


 コーヒーを持ってリビングのソファに座り、川を眺めた。

 特に何も考えなかった。考えることが、以前より少なくなった。

 現役のころは、頭の中がいつも騒がしかった。会社のこと、部下のこと、数字のこと。退いてからも、しばらくは惰性で何かを考え続けていた。それがいつからか無くなって、今はただ川を見ている。


 悪くはない、と朝倉は思っていた。少なくとも、苦しくはない。


 ただ、しんどい。


 しんどい、というのは苦しいとは違う。体のあちこちが重くて、動作のひとつひとつに手間がかかる。トイレに行くのも、着替えるのも、食事を用意するのも、全部が少しずつ面倒になっている。若い頃は意識すらしなかったことに、今は全部エネルギーを使う。一日が終わる頃には、たいしたことをしていないのに、身体が重くて、節々に熱とも痛みともつかない何かが凝っている。


 そのくたびれ方が、昨日より今日、今日より明日と、わずかずつ、しかし確実に増えていく。その明白な予感がまた、朝倉の頭にうっすらと黒雲のようにかかっている。

 終わりに向かっている、という実感。ただその終わりがいつかはわからないし、どんな形で来るかもわからない。

 ぽっくり逝くか、寝たきりになるか、ぼけるか。どれも同じくらい現実的だった。


 そのことを、特に怖いとは思っていなかった。

 ただ、できれば手間をかけたくない、とは思っていた。


 ぽっくりボタンのことを聞いたのは、週に一度来てくれるヘルパーの小林さんからだった。


「こんな話、ご存じですか」

 小林が言った。彼女は四十代で、朝倉は几帳面な仕事ぶりが気に入ってた。仕事は丁寧だが、大変な話し好きは生来のものであったらしい。家中の掃除をしながら、洗濯や炊事をしながら、朝倉が視界に入っている間じゅう、ニコニコして話しかけてきた。

 人気の映画とか、テレビとか、ネットの噂とか。適切な話題を選ぶというよりは、世間で飛び交う情報を無作為に朝倉に向けて開陳してくれるようなところがあった。朝倉にとって、様々なチャネルに勝手に切り替えてくれるテレビのようで、多様な話題をふってくる彼女の存在はにぎやかで、時にうるさく……ありがたかった。


 その日、彼女はネットで語られるホラーめいた噂話なんですが、と前置きして話し出した。

 「都市伝説みたいな?まあネットの怪談の類いみたいなんですが、押すと苦痛なく自然死できる、というボタンがあるって話が流れてるんです」


「そんなものが……ずいぶん物騒な噂じゃないか」


「ネットでの怪談……ですからね。まあ話半分に聞いてください。でも、ずいぶん話題になってるみたいで。持ってる人が実際いるとかいないとか」

「ほう」

 軽く相づちを打ったつもりだったのに、思いのほかしっかりとした声が出て、朝倉は自分に驚いた。小林は、朝倉の気分を害した、と思ったようだ。健治自身の本音を言えば、逆の感情だったのだが。


「すいません……ちょっと不謹慎な話題でしたよね」

「いや、おもしろい話だ。もう少し聞きたい」

「……詳しいことは噂なんで私もわかんないですけど……押したら、当人が文字通り、ぽっくり逝ってしまうそうなんです。死因は病死になって保険金などもちゃんと出るとか、ボタンがどんな仕組みとか、どこで手に入る、とかいろいろ噂ばかり飛び交ってて……寝たきりになった老人が考えた夢ではなんていう人も……ってやっぱりこんな話題、失礼……不謹慎ですよね」


 ひとしきり軽く口を動かしてから、小林ははっと表情を変えて慌て始めた。朝倉の今の境遇を見て、常識で考えたら、さすがにこの話題は失礼にも程がある。言葉の最後を失礼、から不謹慎に置き換えたのも、せめてものフォローのつもりだったろうが、一層怒らせる結果になってもおかしくない。


「いやいや、すごくおもしろい話だった」


 朝倉は意識して顔の筋肉を動かし、笑顔を作って見せた。普段作っていない表情なのでぎこちなかったが、小林は少し安心したような顔になった。



 それから三週間後、手のひら大の荷物が郵便受けに入っていた。宛名は手書きで、差出人の名前はない。荷物を開けると、一枚の紙と、白い小箱が出てきた。

 小箱を開けると、緩衝材に包まれたプラスチックケース。

 その中に……赤いボタンが入っていた。

 同封の紙には、一行だけクセのない手描き文字で書いてあった。


 ――押すと、楽に逝けます。


 朝倉はその紙をしばらく見てから、サイドボードのガラスでできた引き戸を開け、小箱と紙を棚に置いた。



 翌日も、その次の日も、朝倉の生活は変わらなかった。

 朝、ベッドから時間をかけて起き上がり、コーヒーを淹れ、川を眺め、昼に簡単なものを食べ、午後は本を読むか、うとうとするか、どちらか。夕方に軽く散歩に出ることもあるが、最近は足が重くて、マンションの敷地を周して帰ってきてしまうことが多かった。


 不自由だが、不満はなかった。

 金には困っていない。現役時代に積み上げたものが、老後を支えるには十分すぎるほどある。和子の治療費もしっかり払って、できるだけの医療を施してもらった。自分の医療費も、ヘルパー代も、何も気にせず払えている。物質的には、不自由ない晩年。


 ただ、と朝倉は時々思う。これだけのものを、誰かに渡さなくてはならない。

 法定相続人は、息子の智樹だけだった。


 智樹のことを考えたのは、ボタンが来てから三日目の夜のことだった。考えた、というより、ふと思い出した、という感じだった。最後に顔を合わせて話したのは、和子の葬式だったはずだ。二十年以上経っていた。


 疎遠になった経緯は、特にドラマチックなものではない。

 智樹は若い頃から朝倉とそりが合わなかった。朝倉が自他に、中でも特に家族に厳しかったのは確かだし、仕事を優先して家におらず、家族との距離が遠かったのも確かだった。智樹が二十代の頃に一度大きな言い合いをして、そのまま距離が開いた。和子が間に入っていた頃はまだ年に一度くらいは連絡を入れることもあったが、和子が逝ってからは、それもなくなった。


 どこにいるかは、大体わかっている。弁護士を通じて、相続の準備だけは形式的に整えてあった。智樹も、手続きには応じていた。金の話だけは、きちんとやり取りできた。

 憎んでいるわけではない。ただ、もう遠い人間だった。長年、顔も見ていないのだ。川の向こうにいる人間のことを思うような、そんな感じで、たまに智樹のことを思う。


 ボタンを、智樹に渡す前に押してしまっていいのか。

 朝倉は少し可笑しくなった。渡す、というのは財産のことで、ボタンのことではない。二つの思考がただ混ざってしまった。ときどきこんな言い間違いを実際にする。脳が複数のことをしっかり制御できない。言葉が出なくてもどかしい思いをすることが増えた。


 サイドボードの扉を開けて、白い小箱を取り出した。手に取る。軽い。軽すぎるくらいだ。中身を見ようと箱を開け、中のプラスチックケースを取り出す。変に厳重な梱包に、少し苛立った。

 せっかちですぐにいらつく老人の自分。こんなものが本物のはずはない、と思いながら、中身の台座付ボタンを取り出して、あらためて手のひらに乗せた。

 ひやっとした。

 プラスチックなのに、氷のかけらを乗せられたように感じた。


 ボタンは本物ではない……そう言い切って、いたずらにボタンを押すような短気は朝倉になかった。

 もう一度ボタンを箱に戻した。

 世の中には、自分の知らないことがまだたくさんある。七十八年生きてきて、そのことは確かに学んできたことの一つだ。



 その年の秋が深まる頃、朝倉は転んだ。


 散歩から帰ってきた玄関で、ドアの段差に足を引っかけた。右手をついたが間に合わず、膝と掌を打った。大事には至らなかったが、しばらく床の上に座ったまま動けなかった。体は痛かった。でもそれより、自分を情けなく思う感情が胸の内に膨らんだ。


 起き上がって片足をひきずるようにしながら、どうにかソファまで辿り着き、掌の傷を眺めた。擦り傷が二本、薄く赤くなっている。膝はこすれたせいかスラックスが破れ、まくり上げてみると膝の傷から出血していた。

 絆創膏を取ってこようと思ったが、痛みがずきりと響いて、立ち上がるのが億劫で、そのままソファに身体を倒した。


 そういう夜だった。

 ソファから上体を起こし、手を思い切り伸ばしてサイドボードの中の箱を出した。

 箱からボタンを出して、ソファの前のテーブルに置いた。

 押してしまおうか、と思った。今夜は特に、その考えが本心に近かった。

 苦痛なし、自然死扱い、誰にも迷惑をかけない――あの後、ボタンの噂について小林から聞きだした様々なディテールを思い出す。自分の人生は十分やった。悔いがないとは言わないが、悔いを今から埋める気力も、もうない。



 手の中のボタンを、押せなかった。


 なぜ押せないのか、考えた。


 怖い、というのとは少し違う気がした。


 しばらく考えてみたが、一つのことしか浮かばなかった。


 ―― 智樹に、一度会っておきたい。


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― 新着の感想 ―
老いの描写がリアルです。 私自身も流石にここまで老いていませんけど、両親の状態を見ていて、ああこんな感じだろうなと。 ……まだお若いですよね?
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