6章 十七歳(下)
つい、目がテーブルの上に行く。
十日ほど前からずっと置いてある白い箱に目が留まる。箱を開けたとき、ああ、やっと来たんだ、と思った。それを見ていると、話すことをもう難しく考えなくていい気がしてきた。
スマホを手に取って打ち始めた。
◇
かすみの言葉は、少しずつ出てきた。
最初は短かった。地元を出てきたこと、今は一人で住んでいること。唯が返すと、また少し出てくる。そのくり返しだった。
継父のこと、という言葉が出てきたのは、しばらくやりとりが続いてからだった。
――家、出てきたのは高校のときで。継父がいて、その人から逃げたかった
唯は一度読んで、もう一度読んだ。逃げたかった、という言葉の意味を、唯は薄々察した。つい想像してぞくっと寒気を覚えた。それ以上を詳しく聞くなんて、とてもできなかった。
――そうだったんですね
短く返すしかなかった。
――高校は卒業できなかった。途中で出てきたから
――今は何してるんですか
――バイト。でも続かなくて。今は休んでる。というか、クビになったのかな。連絡してないから、わかんない
連絡してない、という言葉を、唯はどう受け取ればいいかわからなかった。
――お金、大丈夫ですか
打ってから、こんなことを聞いていいのか迷った。でも送った。
――大丈夫じゃない。でもまあ、もうどうでもいいかな、って感じ
どうでもいい。その言葉が唯の中で引っかかった。どうでもいい、と言える人間と、ぽっくりボタンの話題。二つが唯の中で繋がった。まさか、と思いつつ、返信で尋ねずにはいられなかった。
――かすみさん、ボタン、もしかして……持ってたり、しますか
――うん。唯ちゃん、よくわかったね
――今も、持ってるんですか?
――うん。部屋にある
唯は自分の部屋を見回した。教科書、ぬいぐるみ、カーテン。いつもの部屋だった。かすみの部屋を想像しようとしたが、できなかった。
言葉を選ぶ余裕もなくなっていた。つい踏み込んでしまった。
――使うつもりですか
返信が来るまで、長い時間がかかった。唯はスマホを持ったまま待った。
――あると思うと楽
――押さないでほしいです
打ってから、こんな言葉でいいのかと思った。もっと別の言い方があるはずだった。理由を言うべきだった。でも理由より先に、その言葉が出た。
――なんで
なんで。唯は少し息が詰まった。なんで、という問いが来るとは思っていなかった。
憑かれたたように返信を打った。ほんの一瞬迷って、でも送った。
――うまく言えないんですけど。かすみさんのこと、今日初めてちゃんと話して、それで、いなくなってほしくないって思って
――優しいね、唯ちゃんは
優しい、という言葉が、壁みたいだった。
――優しいとかじゃないです
――そうかな
――そうです。私が最初に絡んだから、私のせいで色々話させてしまったから、っていうのもあって
――それは違う。私が話したかったんだから
――でも
――唯ちゃんのせいじゃないよ、本当に
かすみの言葉は、さっきまでより少し速かった。
唯のことを気遣っている、と感じた。それがかえって怖かった。申し訳ない気持ちもないまぜになっている。
――かすみさんって、誰かに今の話、したことありますか。家のこととか、バイトのこととか
――ない
――一回もないんですか
――男の人は怖くて話せないし、女の人も、なんか、うまくいかなくて。ずっと一人だった
一人だった。その言葉がずっと画面に残った。
唯はしばらく返せなかった。
ずっと一人、という言葉の重さを、唯は自分の十七年間で想像しようとしたが、うまくいかなかった。かすみの十九年と、唯の十七年は、根本から違いすぎて、ズレすぎている。それでも、何を伝えたら、少しでもかすみさんを……。
――私に話してくれてよかったです。話してくれてありがとうございます
打ってから、こんなことしか書けない自分が情けなかった。
でも他に言えることがなかった。
しばらく返信が来なかった。
唯は待った。部屋の外から、母親が歯を磨く音がした。水道の音。パタパタという足音。いつもの夜の音を聞きながら、返信を待つ時間が長く感じた。
――ありがと
たった四文字だった。唯の胸の中から何かが溢れてきた。
――かすみさん
――なに
――今夜、ボタン、触らないでいられますか
また間があった。
数分、唯はただ、返信を待った。
――わからない
かすみの正直な言葉なのだろうとはわかっていた。唯はそれでも、続けた。
――触らないでほしい。今夜だけでいいので
――どうして今夜だけなの
――今夜だけ、って言わないと、重すぎるっていうか、なんていうか
返信が来るまで、また時間がかかった。
唯は待ちながら、自分が何をしているのかわからなくなってきた。
止められる気がしない。言葉が届いている気がしない。
――唯ちゃんって、面白いね
返ってきたのはその言葉だった。
――面白い?
――なんか、ちゃんとしてる。高校生なのに
――ちゃんとしてないです、全然
――してるよ。私より全然ちゃんとしてる
思うことをただ打っていた。
――そんなことないです。かすみさんは、色々あったのに、ちゃんと話してくれたし、私を気づかってくれてるし
――話しちゃったね
――話してくれてよかった
――そうかな
――そうです
また少し間があった。
――知ってもらえた
その言葉を、唯はゆっくり読んだ。
目が熱くなった。泣くつもりはなかった。でも目が熱かった。
――私はかすみさんのこと、知りたいです。もっと
――もっと?
――まだ全然知らないから。好きな食べ物とか、好きな音楽とか、なんでも
返信が止まった。
唯は待った。
一分、二分……五分が過ぎた。
――かすみさん
既読がついた。でも返信は来なかった。
――いますか
既読はついた。
◇
かすみは箱を手に取っていた。
膝の上に乗せて、蓋を開けた。白い緩衝材の中に、プラスチックのケース。
スマホが光って唯からの着信を知らせた。
画面表示を切って、床に伏せた。
部屋の中は静かだった。
督促状が一枚、床に落ちていた。カーテンの隙間から、外の光がかすかに入っていた。
かすみは長袖の袖をまくった。いつも隠していた自分の手首を、しばらく見て袖を戻した。
ケースを開けた。
赤いボタンが、そこにあった。
◇
返事が来ないまま、唯はまだメッセージを送っていた。
――かすみさん
――読んでください
――返事、してください
――まだ、そこに
――いますか
既読がつかなくなった。
唯はスマホを持ったまま、部屋の天井を見た。
時計を見ると、午前一時を過ぎていた。
参考書が机の上に開いたままになっている。三日前と同じ、現代文の問題集だった。
唯が最後に送った言葉が、画面の一番下にあった。
――いますか
返事は来なかった。
唯はスマホを置けなかった。
置いたら終ってしまう……だから持ったまま、ただ画面を見ていた。




