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ぽっくりボタン  作者: 瀬川雅峰


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6章 十七歳(下)

 つい、目がテーブルの上に行く。

 十日ほど前からずっと置いてある白い箱に目が留まる。箱を開けたとき、ああ、やっと来たんだ、と思った。それを見ていると、話すことをもう難しく考えなくていい気がしてきた。

 スマホを手に取って打ち始めた。



 かすみの言葉は、少しずつ出てきた。

 最初は短かった。地元を出てきたこと、今は一人で住んでいること。唯が返すと、また少し出てくる。そのくり返しだった。


 継父のこと、という言葉が出てきたのは、しばらくやりとりが続いてからだった。

 ――家、出てきたのは高校のときで。継父がいて、その人から逃げたかった


 唯は一度読んで、もう一度読んだ。逃げたかった、という言葉の意味を、唯は薄々察した。つい想像してぞくっと寒気を覚えた。それ以上を詳しく聞くなんて、とてもできなかった。


 ――そうだったんですね


 短く返すしかなかった。


 ――高校は卒業できなかった。途中で出てきたから

 ――今は何してるんですか

 ――バイト。でも続かなくて。今は休んでる。というか、クビになったのかな。連絡してないから、わかんない


 連絡してない、という言葉を、唯はどう受け取ればいいかわからなかった。


 ――お金、大丈夫ですか


 打ってから、こんなことを聞いていいのか迷った。でも送った。


 ――大丈夫じゃない。でもまあ、もうどうでもいいかな、って感じ


 どうでもいい。その言葉が唯の中で引っかかった。どうでもいい、と言える人間と、ぽっくりボタンの話題。二つが唯の中で繋がった。まさか、と思いつつ、返信で尋ねずにはいられなかった。


 ――かすみさん、ボタン、もしかして……持ってたり、しますか

 ――うん。唯ちゃん、よくわかったね

 ――今も、持ってるんですか?

 ――うん。部屋にある


 唯は自分の部屋を見回した。教科書、ぬいぐるみ、カーテン。いつもの部屋だった。かすみの部屋を想像しようとしたが、できなかった。

 言葉を選ぶ余裕もなくなっていた。つい踏み込んでしまった。


 ――使うつもりですか


 返信が来るまで、長い時間がかかった。唯はスマホを持ったまま待った。


 ――あると思うと楽

 ――押さないでほしいです


 打ってから、こんな言葉でいいのかと思った。もっと別の言い方があるはずだった。理由を言うべきだった。でも理由より先に、その言葉が出た。


 ――なんで


 なんで。唯は少し息が詰まった。なんで、という問いが来るとは思っていなかった。

 憑かれたたように返信を打った。ほんの一瞬迷って、でも送った。

 

 ――うまく言えないんですけど。かすみさんのこと、今日初めてちゃんと話して、それで、いなくなってほしくないって思って

 ――優しいね、唯ちゃんは


 優しい、という言葉が、壁みたいだった。


 ――優しいとかじゃないです

 ――そうかな

 ――そうです。私が最初に絡んだから、私のせいで色々話させてしまったから、っていうのもあって

 ――それは違う。私が話したかったんだから

 ――でも

 ――唯ちゃんのせいじゃないよ、本当に


 かすみの言葉は、さっきまでより少し速かった。

 唯のことを気遣っている、と感じた。それがかえって怖かった。申し訳ない気持ちもないまぜになっている。


 ――かすみさんって、誰かに今の話、したことありますか。家のこととか、バイトのこととか

 ――ない

 ――一回もないんですか

 ――男の人は怖くて話せないし、女の人も、なんか、うまくいかなくて。ずっと一人だった


 一人だった。その言葉がずっと画面に残った。

 唯はしばらく返せなかった。

 ずっと一人、という言葉の重さを、唯は自分の十七年間で想像しようとしたが、うまくいかなかった。かすみの十九年と、唯の十七年は、根本から違いすぎて、ズレすぎている。それでも、何を伝えたら、少しでもかすみさんを……。


 ――私に話してくれてよかったです。話してくれてありがとうございます


 打ってから、こんなことしか書けない自分が情けなかった。

 でも他に言えることがなかった。


 しばらく返信が来なかった。


 唯は待った。部屋の外から、母親が歯を磨く音がした。水道の音。パタパタという足音。いつもの夜の音を聞きながら、返信を待つ時間が長く感じた。


 ――ありがと


 たった四文字だった。唯の胸の中から何かが溢れてきた。


 ――かすみさん

 ――なに

 ――今夜、ボタン、触らないでいられますか


 また間があった。

 数分、唯はただ、返信を待った。


 ――わからない

 かすみの正直な言葉なのだろうとはわかっていた。唯はそれでも、続けた。


 ――触らないでほしい。今夜だけでいいので

 ――どうして今夜だけなの

 ――今夜だけ、って言わないと、重すぎるっていうか、なんていうか


 返信が来るまで、また時間がかかった。

 唯は待ちながら、自分が何をしているのかわからなくなってきた。

 止められる気がしない。言葉が届いている気がしない。


 ――唯ちゃんって、面白いね


 返ってきたのはその言葉だった。


 ――面白い?

 ――なんか、ちゃんとしてる。高校生なのに

 ――ちゃんとしてないです、全然

 ――してるよ。私より全然ちゃんとしてる


 思うことをただ打っていた。

 ――そんなことないです。かすみさんは、色々あったのに、ちゃんと話してくれたし、私を気づかってくれてるし

 ――話しちゃったね

 ――話してくれてよかった

 ――そうかな

 ――そうです


 また少し間があった。


 ――知ってもらえた


 その言葉を、唯はゆっくり読んだ。

 目が熱くなった。泣くつもりはなかった。でも目が熱かった。


 ――私はかすみさんのこと、知りたいです。もっと

 ――もっと?

 ――まだ全然知らないから。好きな食べ物とか、好きな音楽とか、なんでも


 返信が止まった。

 唯は待った。

 一分、二分……五分が過ぎた。


 ――かすみさん


 既読がついた。でも返信は来なかった。

 

 ――いますか


 既読はついた。



 かすみは箱を手に取っていた。

 膝の上に乗せて、蓋を開けた。白い緩衝材の中に、プラスチックのケース。

 スマホが光って唯からの着信を知らせた。

 画面表示を切って、床に伏せた。


 部屋の中は静かだった。

 督促状が一枚、床に落ちていた。カーテンの隙間から、外の光がかすかに入っていた。

 かすみは長袖の袖をまくった。いつも隠していた自分の手首を、しばらく見て袖を戻した。

 ケースを開けた。


 赤いボタンが、そこにあった。



 返事が来ないまま、唯はまだメッセージを送っていた。


 ――かすみさん

 ――読んでください

 ――返事、してください

 ――まだ、そこに

 ――いますか


 既読がつかなくなった。

 唯はスマホを持ったまま、部屋の天井を見た。

 時計を見ると、午前一時を過ぎていた。

 参考書が机の上に開いたままになっている。三日前と同じ、現代文の問題集だった。


 唯が最後に送った言葉が、画面の一番下にあった。


 ――いますか


 返事は来なかった。


 唯はスマホを置けなかった。

 置いたら終ってしまう……だから持ったまま、ただ画面を見ていた。

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