6章 十七歳(上)
唯がkagerowのアカウントを見つけたのは、テスト期間中の夜だった。
十一時を過ぎていた。机の上に参考書が開いたままになっている。現代文の問題集で、今日中に一章終わらせるつもりだった。終わらせるつもりで、気がついたらスマホを触っていた。よくあることだった。
ぽっくりボタンのタグをたどっていたのは、純粋な興味だった。最近またSNSで話題になっていて、クラスでも名前が出た。押すと苦痛なく死ねる、自然死扱いになる、という都市伝説。怖いというより、面白い話だと思った。本物だったらすごいな、どこで手に入るんだろう、くらいの気持ちで、タグのついた投稿を流し読みしていた。
kagerowという名前の投稿を見つけたのは、そのときだった。
固定された一件。文章は短い。
――ぽっくりボタン、みんな、本当は欲しかったりする?笑
笑、という一文字が最後についていた。アイコンは設定されていない。プロフィール欄は空白。フォロワーも投稿もほとんどない、薄いアカウントだった。
唯は少し考えてから、返信を打った。
――正直いっちゃうと、ちょっと欲しいかも(笑)どこで手に入るんですかね
送信してから参考書に戻った。五分もしないうちに通知が来た。
――共感してもらえた笑。ネットで色々出てくるけど、入手方法は……必要な人のところに勝手に届くとか
話しやすい、と唯は思った。軽いテンポで返した。
――突然届く、って書き込みよく見ます。ポストに入ってたら絶対開けちゃいますね
――開けちゃうか笑
それからしばらく、軽いやりとりが続いた。ボタンの噂話、本物かどうか、押せるか押せないか。別のユーザーも絡んできて、賑やかな流れになった。唯はそのまま一時間近くスマホを触り続け、気がついたら日付が変わっていた。参考書は結局一章終わらなかった。
翌朝、学校への電車の中でスマホを開くと、kagerowから返信が増えていた。深夜に投稿されたものだった。
――ボタンって、本物だと思う?
他のユーザーへの問いかけのような文体だったが、唯への返信欄についていた。唯は電車が揺れる中で返した。
――わからないけど、本物であってほしい気はします
――だよね。うん
それだけのやりとりだったが、唯はなんとなく気になって、その日の昼休みにまたkagerowのアカウントを見た。新しい投稿はなかった。プロフィールをもう一度確認した。何も書いていない。年齢も場所も。カゲロウ、という言葉をIDに選んでいる人間が、どんな顔をしているのか、唯には想像できなかった。
◇
二日目の夜、また返信が来た。
――ねえ、欲しいって気持ち、もう少し詳しく教えて。面白そうだから、って感じ?
唯は少し考えてから答えた。
――そうですね。なんか、持ってたら安心しそうだな、って。お守りみたいな感じで
――お守り、か。面白い言い方だね
――kagerowさんは違うんですか
返信まで少し間があった。
――私は、使いたいから、かな
唯の指が止まった。
使いたい。その言葉の重さが、画面からじわっと滲んでくる気がした。さっきまでと空気が違っていた。別のユーザーが同じスレッドに軽い返信を投げてきた。都市伝説すぎる、信じてる人いるの、という内容だった。唯はそれを無視して、kagerowに返した。
――それって、どういう意味で使いたい、ですか
――どういう意味って、そのままだよ。楽になりたいから
楽になりたい。唯はその言葉を読んで、もう一度読んだ。
今日の体育の授業のこと、昼に食べたパスタのこと、明日の小テストのこと。さっきまで頭の中にあったものが、全部どこかへ行った。
――それ、本気で言ってますか
返信が来るまで時間がかかった。その間、別のユーザーの書き込みが流れてきた。ボタンの入手方法を知っている、という書き込みで、すぐに何人かが絡んでいった。唯はその流れを見ながら、kagerowからの通知を待った。
――本気だよ。笑ってるけど、本気
唯は返す言葉を打っては消した。三回消してから、短く送った。
――心配です
――心配しなくていいよ。私は大丈夫だから
大丈夫、という言葉が、ひらひらと舞うほどの厚みでどこかに飛んでいきそうに思えた。
その夜、唯はなかなか眠れなかった。布団に入ってもスマホを手放せず、kagerowの新しい投稿がないか、何度も確認した。
何度確認しても、kagerowの投稿はなかった。午前二時を過ぎて、無理に目を閉じてみたが、とても眠れそうになかった。
◇
三日目。
唯は放課後、友達と話しながらも、ずっと別の場所に意識が行っていた。
隣で友達が来週の試験範囲の話をしている。部活の先輩が廊下を歩いていく。窓の外では一年生が体育の授業をやっていた。いつもと同じ放課後の風景も音も、ひどく遠かった。
夜、スマホを開くとkagerowから投稿があった。返信ではなく、タイムラインへの独り言のような投稿だった。
――今日も部屋から出られなかった。まあいつものことか
いいねがついていなかった。唯はしばらく画面を見てから、返信を打った。
――読んでます
すぐに返信が来た。
――あ、yuiyuiちゃん。見てたんだ
――見てました。部屋から出られない日、多いんですか
――最近はずっと。外に出るのが怖くて
怖くて、という言葉。唯はもう少し踏み込んだ。
――もう少し、話せますか。ちゃんと話したい。DMで
打ってから、自分が何をしようとしているのか考えた。DMを開けば相手に自分のアカウントが見える。投稿を遡れば、学校のこと、友達との写真、好きなもの、日常のほとんどが見える。今まで匿名の気楽さで話していたが、そうはいかなくなる。
それでも送った。
返信まで少し間があった。
――うん、いいよ
◇
冬野かすみの部屋は、六畳一間だった。
窓のカーテンは三日間、開けていない。天井の電気は切れたままで、デスクの小さなスタンドだけが点いている。床に脱いだままの服、積み上がったコンビニの袋、テーブルの上に並んだ督促状。電気代、水道代。封を開けていないものもある。
ベッドの端に腰を下ろして、かすみはスマホを見ていた。
手首を、長袖の袖が覆っている。
◇
DMの画面には、公開欄と別のメニューが並んでいた。
相手、の欄にkagerowとある。
唯が最初のメッセージを送った。
――改めて、こんにちは。唯っていいます。高校二年です
――こんにちは。かすみ。19
――19歳なんですね。ちょっとだけ上か
――そうだね。高校生なんだ。ごめんね、変な話に付き合わせて
――付き合わせてじゃないです。私が絡んだんだし。……ちゃんと聞きたくて、DMにしてもらったんです
少し間があった。
――そっか
――かすみさんのこと、もう少し教えてもらえますか。嫌だったら全然いいんですけど
また間があった。今度は少し長かった。
――嫌じゃないけど、長くなるよ
――聞きます
◇
かすみはスマホを置いて、部屋を見回した。
どこから話すか、考えた。
部屋の中にあるもの。どれについて語っても、明るい話題にはならない気がした。




