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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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9/22

第九章 忘れられた部屋

 その部屋の存在に気づいたのは、偶然だった。

 長屋に来て二十五日目の朝、乃々花は廊下の突き当たりを拭いていた。雑巾がけは毎回端まで丁寧にやる。板の継ぎ目に埃が入り込むから、力を入れて拭く必要がある。

 突き当たりの壁を拭いていて、手が止まった。

 壁だと思っていたところに、継ぎ目があった。

 よく見ると壁ではなく、引き戸だった。板と同じ材で作られていて、取っ手がなく、長年動かされていないために周囲と一体化していた。気をつけて見なければ、壁にしか見えない。

 乃々花はしばらくそこに手を当てていた。

 住人の部屋の引き戸はすべて場所を覚えている。朔弥の部屋、お紺の部屋、雪丸の部屋、たま吉の部屋、久遠の部屋。この引き戸はどれでもない。

 誰の部屋だろう。

 取っ手がないので、板の端に指をかけて引いてみた。動かなかった。鍵がかかっているのか、長年の湿気で膨らんでいるのか。

 もう少し力を入れてみようとして、やめた。

 何となく、勝手に開けてはいけない気がした。


 朔弥に聞こうとして、一度止まった。

 以前のことがある。踏み込みすぎたと思った、あの日のことが。

 でも、廊下の突き当たりにある部屋を把握しておくのは、掃除と管理の観点から必要なことだ。少なくとも、そう説明はできる。

 昼前に朔弥を見つけて、声をかけた。

「廊下の突き当たりに、部屋がありますね」

 朔弥は一瞬だけ表情が変わった。変わった、というより、固まった。桐箱を渡したときと、似た変わり方だった。

「ある」

「誰の部屋ですか」

「今は誰も使っていない」

「掃除は」

「しなくていい」

「でも長期間閉めていると、黴が」

「しなくていい」

 二度言った。それ以上聞くなという意味だと分かった。

「分かりました」

 引き下がった。

 でもその日から、廊下の突き当たりを通るたびに、その引き戸が気になった。壁に見えるあの引き戸が、朔弥の言い方が、何かを引っかけていた。


 鍵を見つけたのは、三日後だった。

 台所の棚を整理していると、奥の方に小さな引き出しがあって、中に古い鍵が一本入っていた。錆びていて、形が古い。どこの鍵か表示はない。

 手に取って、重さを確かめた。

 これが、あの部屋の鍵かどうかは分からない。でも、台所の棚の奥にしまわれた理由のある鍵が、この長屋にある鍵のかかった場所と、関係していないとも言えない。

 乃々花はその鍵を、しばらく手の中に持っていた。

 開けるべきではない。朔弥は「しなくていい」と言った。あの引き戸は閉められたままでいる理由がある。

 でも。

 放っておけない、という気持ちが、また動いた。

 廊下を歩いて、突き当たりへ向かった。

 引き戸の前に立った。板の継ぎ目、周囲と一体化した古い木の色。

 鍵を当てた。

 合った。錆びた鍵が、ゆっくりと回った。

 引き戸を引いた。最初は動かなかった。長年閉じていた分、膨らんでいる。少し力を入れると、ぎ、と低い音がして、隙間が生まれた。

 中から空気が流れ出てきた。

 古い空気だった。密閉された場所の匂いだが、黴の匂いではない。乾いた木の香りと、かすかに何か花のようなものが混じっていた。長い時間の中にある匂いだった。

 目が暗さに慣れると、部屋の中が見えてきた。

 整っていた。

 それが最初の印象だった。誰もいなくなった部屋ではなく、誰かがいたままの部屋だった。

 窓は閉まっていて、薄い障子越しに外の光が差し込んでいる。畳は古いが、傷んでいない。文机が一つ、窓際に置かれていた。その上に硯と筆立て。読みかけの本が一冊、伏せて置かれている。まるで持ち主が少し席を外しているだけのように。

 棚には着物が畳まれていた。花柄が多い。明るい色の、女物の着物。

 文机の横に、使いかけの小さな紅の器がある。

 鏡台には、櫛が一本。歯の細かい、丁寧に作られた桃の木の櫛だった。

 乃々花は部屋の入り口に立ったまま、中に入らなかった。

 入ってはいけない気がした。ここはまだ、誰かの場所だった。過去に誰かがいた場所ではなく、今も誰かのものである場所だった。

 でも、引き戸を開けてしまった。

 一歩だけ、入った。

 畳の感触が、他の部屋と少し違った。人が歩かなかった分、ふわりとしていた。

 文机の本に目がいった。伏せてあるので表紙が見えない。でも、開いてあるページが見えた。古い文字で、和歌が書かれていた。

 一首だけ読んだ。

 忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな

 声に出さずに読んで、乃々花はしばらくその言葉の中にいた。

 忘れじ、と誰かに言われた日を限りに、この命が終わればよかった、という意味の歌だ。

 乃々花には、それを誰が読んでいたのか分からない。でも、この部屋で誰かがこの歌を読んでいた、という事実が、静かに胸に来た。


 気配がした。

 廊下の方から、足音が近づいてくる。静かで重い、あの足音。

 振り返ると、朔弥が廊下に立っていた。

 引き戸の前で、乃々花と目が合った。

 朔弥の表情は、乃々花が今まで見たことのない顔をしていた。怒りがあった。でも怒りの下に、もっと別の何かがあった。深くて、古くて、重い何かが、一瞬だけ表に出た。

 すぐに消えた。

 消えて、また無表情に戻った。でも完全には戻りきれていなかった。目の奥に、まだ何かが残っていた。

「出ろ」

 静かな声だった。怒鳴っていない。でも、あのときより重かった。

「……すみません」

 乃々花は部屋を出た。廊下に戻って、引き戸の前に立つ。

 朔弥は引き戸を閉めた。ゆっくりと、丁寧に閉めた。鍵を乃々花の手から取って、閉めた。

 それから、乃々花を見た。

「見たか」

「入り口から少しだけ」

「何を見た」

「着物と、文机と、本と、櫛を。それだけです」

 朔弥は答えなかった。

「誰の部屋だったんですか」

「関係ない」

「でも」

「関係ないと言った」

 今度はあのときとも違う言い方だった。突き放している、というより、自分に言い聞かせているような言い方だった。

 関係ない、という言葉が、乃々花ではなく朔弥自身に向かっているような。

「鍵は台所にありました」

「知っている」

「知っていて、あそこに置いていたんですか」

「……」

「誰かが見つけることを、どこかで」

「余計なことを言うな」

 遮られた。

 乃々花は止まった。

 朔弥は廊下を歩き始めた。乃々花の横を通り過ぎようとして、一瞬だけ止まった。

「大切にしていた人間がいた」

 低い声だった。自分に言い聞かせているとも、独り言とも取れる言い方だった。

「百年前に、この長屋に住んでいた」

 それだけ言って、歩いていった。

 廊下の奥へ消えていく背中を、乃々花はしばらく見ていた。


 その日の午後、乃々花はほとんど仕事が手につかなかった。

 台所を拭いていても、廊下を掃いていても、頭の中に部屋の光景が浮かんだ。

 整ったまま時間の止まった部屋。花柄の着物。読みかけの本。使いかけの紅。

 誰かがそこにいた。朔弥にとって大切な誰かが、百年前にそこに住んでいた。

 そしてその人は、いなくなった。

 百年前に、いなくなった。

 乃々花は雑巾を持ったまま、廊下に座り込んだ。

 人間の寿命は短い。どんなに大切にしても、あやかしの時間の中では一瞬のように終わる。朔弥はそれを知っていたはずなのに、大切にした。そして見送った。

 だから人間に距離を置くようになった。

 久遠が言った言葉が戻ってきた。ずっとではない、と。

 お紺が言った言葉も戻ってきた。触れてほしくないところが、触れてほしいところと同じ場所にある、と。

 朔弥が乃々花に「関係ない」と言い続けるのは、冷たいからではない。関係させてしまうことを、恐れているからだ。

 関係させてしまったら、また大切になる。大切になったら、また終わりが来る。

 百年前の痛みを、もう一度繰り返すことを、恐れている。


 夕方、久遠の部屋の前を通ったとき、引き戸が開いていた。

 久遠が針仕事をしながら、乃々花の気配に気づいて顔を上げた。

「入れ」

 入ると、久遠は手を止めて乃々花を見た。

「何かあったか」

「……あの部屋を開けました」

 久遠は少しの間黙った。

「朔弥に見つかったか」

「はい」

「怒ったか」

「怒りました。でも、一つだけ教えてくれました」

「何を」

「大切にしていた人間がいた、と。百年前に、ここに住んでいた、と」

 久遠は針を布に刺したまま、動かなかった。

「久遠さんは知っていたんですね」

「知っている」

「その人のことを、教えてもらえますか」

 久遠は長い間、答えなかった。

 針が動いた。一針、また一針。布を縫いながら、言葉を選んでいるようだった。

「名前は、ふじ、といった」

 乃々花は黙って聞いた。

「この長屋に迷い込んできた娘だ。朔弥はよそ者を嫌うが、その娘は怖がらなかった。住人たちの世話を焼いて、掃除をして、食事を作った」

 乃々花は息を止めた。

「朔弥は最初、距離を置いていた。でも娘は気にしなかった。ただ、自分の思うようにここで生きていた。朔弥が変わるのに、三年かかった」

「三年」

「あの男が変わるには、それくらいかかる」

 久遠は少し間を置いた。

「娘は二十年ここにいた。朔弥にとっては短い時間だが、娘にとっては人生のほとんどだった。病で逝った。朔弥の腕の中で」

 廊下の外で、風が動いた。

「それから朔弥は変わった。人間と深く関わることをやめた。住人たちの世話はするが、情を見せることはしなくなった。あの部屋も、入ることをやめた。閉めたまま、百年置いた」

「でも鍵を台所に置いていた」

「そうだ」

 久遠は乃々花を見た。

「なぜだと思う」

「……閉じきれなかったから、だと思います」

 久遠は答えなかった。でも否定もしなかった。

「あなたがあの部屋を開けたことを、私は悪いとは思わない」

「朔弥さんは怒りました」

「怒るのは当然だ。でも閉じたままの部屋は、誰かが開けない限り、ずっと閉じたままになる」

 針が一針、また一針と動いた。

「縫い目は残る。でも着られなくなるとは限らない、とあなたに言った。あの言葉は、朔弥のことでもある」

 乃々花はそれを聞いて、少しの間目を閉じた。

 百年前の春に閉じた場所。鍵を台所に置いたまま、開けられることを待っていたかもしれない場所。

 朔弥の冷たさが、見送る痛みから来ていることを、今日ようやく知った。

 全体の形が、少しずつ見えてきた気がした。

 まだ全部ではない。でも、輪郭だけは。


 帰り際、乃々花は廊下の突き当たりに一度だけ立ち寄った。

 閉じた引き戸の前で、少しだけ手を当てた。

 中には、まだ時間が止まったままの部屋がある。花柄の着物。読みかけの本。使いかけの紅。誰かが席を外しているだけのような、あの部屋が。

 忘れじの、と誰かが読んでいた歌が、また頭に浮かんだ。

 乃々花は手を離して、歩き出した。

 今日分かったことを、すぐに何かにしようとは思わなかった。でも、知ったことは知った。受け取ったことは受け取った。

 月見荘の門を出て、石畳を歩いた。

 夕暮れの空が広かった。夏の終わりの光が、西の方に長く伸びていた。

 朔弥の横顔を思い出した。廊下に立っていた、あの顔を。怒りの下に、深くて古い何かがあった、あの一瞬を。

 乃々花はまだ、自分がここにいる理由を言葉にできなかった。

 でも今日の帰り道は、今までより少しだけ、足が重かった。

 離れがたい、という感覚が、言葉より先にあった。


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