第九章 忘れられた部屋
その部屋の存在に気づいたのは、偶然だった。
長屋に来て二十五日目の朝、乃々花は廊下の突き当たりを拭いていた。雑巾がけは毎回端まで丁寧にやる。板の継ぎ目に埃が入り込むから、力を入れて拭く必要がある。
突き当たりの壁を拭いていて、手が止まった。
壁だと思っていたところに、継ぎ目があった。
よく見ると壁ではなく、引き戸だった。板と同じ材で作られていて、取っ手がなく、長年動かされていないために周囲と一体化していた。気をつけて見なければ、壁にしか見えない。
乃々花はしばらくそこに手を当てていた。
住人の部屋の引き戸はすべて場所を覚えている。朔弥の部屋、お紺の部屋、雪丸の部屋、たま吉の部屋、久遠の部屋。この引き戸はどれでもない。
誰の部屋だろう。
取っ手がないので、板の端に指をかけて引いてみた。動かなかった。鍵がかかっているのか、長年の湿気で膨らんでいるのか。
もう少し力を入れてみようとして、やめた。
何となく、勝手に開けてはいけない気がした。
朔弥に聞こうとして、一度止まった。
以前のことがある。踏み込みすぎたと思った、あの日のことが。
でも、廊下の突き当たりにある部屋を把握しておくのは、掃除と管理の観点から必要なことだ。少なくとも、そう説明はできる。
昼前に朔弥を見つけて、声をかけた。
「廊下の突き当たりに、部屋がありますね」
朔弥は一瞬だけ表情が変わった。変わった、というより、固まった。桐箱を渡したときと、似た変わり方だった。
「ある」
「誰の部屋ですか」
「今は誰も使っていない」
「掃除は」
「しなくていい」
「でも長期間閉めていると、黴が」
「しなくていい」
二度言った。それ以上聞くなという意味だと分かった。
「分かりました」
引き下がった。
でもその日から、廊下の突き当たりを通るたびに、その引き戸が気になった。壁に見えるあの引き戸が、朔弥の言い方が、何かを引っかけていた。
鍵を見つけたのは、三日後だった。
台所の棚を整理していると、奥の方に小さな引き出しがあって、中に古い鍵が一本入っていた。錆びていて、形が古い。どこの鍵か表示はない。
手に取って、重さを確かめた。
これが、あの部屋の鍵かどうかは分からない。でも、台所の棚の奥にしまわれた理由のある鍵が、この長屋にある鍵のかかった場所と、関係していないとも言えない。
乃々花はその鍵を、しばらく手の中に持っていた。
開けるべきではない。朔弥は「しなくていい」と言った。あの引き戸は閉められたままでいる理由がある。
でも。
放っておけない、という気持ちが、また動いた。
廊下を歩いて、突き当たりへ向かった。
引き戸の前に立った。板の継ぎ目、周囲と一体化した古い木の色。
鍵を当てた。
合った。錆びた鍵が、ゆっくりと回った。
引き戸を引いた。最初は動かなかった。長年閉じていた分、膨らんでいる。少し力を入れると、ぎ、と低い音がして、隙間が生まれた。
中から空気が流れ出てきた。
古い空気だった。密閉された場所の匂いだが、黴の匂いではない。乾いた木の香りと、かすかに何か花のようなものが混じっていた。長い時間の中にある匂いだった。
目が暗さに慣れると、部屋の中が見えてきた。
整っていた。
それが最初の印象だった。誰もいなくなった部屋ではなく、誰かがいたままの部屋だった。
窓は閉まっていて、薄い障子越しに外の光が差し込んでいる。畳は古いが、傷んでいない。文机が一つ、窓際に置かれていた。その上に硯と筆立て。読みかけの本が一冊、伏せて置かれている。まるで持ち主が少し席を外しているだけのように。
棚には着物が畳まれていた。花柄が多い。明るい色の、女物の着物。
文机の横に、使いかけの小さな紅の器がある。
鏡台には、櫛が一本。歯の細かい、丁寧に作られた桃の木の櫛だった。
乃々花は部屋の入り口に立ったまま、中に入らなかった。
入ってはいけない気がした。ここはまだ、誰かの場所だった。過去に誰かがいた場所ではなく、今も誰かのものである場所だった。
でも、引き戸を開けてしまった。
一歩だけ、入った。
畳の感触が、他の部屋と少し違った。人が歩かなかった分、ふわりとしていた。
文机の本に目がいった。伏せてあるので表紙が見えない。でも、開いてあるページが見えた。古い文字で、和歌が書かれていた。
一首だけ読んだ。
忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな
声に出さずに読んで、乃々花はしばらくその言葉の中にいた。
忘れじ、と誰かに言われた日を限りに、この命が終わればよかった、という意味の歌だ。
乃々花には、それを誰が読んでいたのか分からない。でも、この部屋で誰かがこの歌を読んでいた、という事実が、静かに胸に来た。
気配がした。
廊下の方から、足音が近づいてくる。静かで重い、あの足音。
振り返ると、朔弥が廊下に立っていた。
引き戸の前で、乃々花と目が合った。
朔弥の表情は、乃々花が今まで見たことのない顔をしていた。怒りがあった。でも怒りの下に、もっと別の何かがあった。深くて、古くて、重い何かが、一瞬だけ表に出た。
すぐに消えた。
消えて、また無表情に戻った。でも完全には戻りきれていなかった。目の奥に、まだ何かが残っていた。
「出ろ」
静かな声だった。怒鳴っていない。でも、あのときより重かった。
「……すみません」
乃々花は部屋を出た。廊下に戻って、引き戸の前に立つ。
朔弥は引き戸を閉めた。ゆっくりと、丁寧に閉めた。鍵を乃々花の手から取って、閉めた。
それから、乃々花を見た。
「見たか」
「入り口から少しだけ」
「何を見た」
「着物と、文机と、本と、櫛を。それだけです」
朔弥は答えなかった。
「誰の部屋だったんですか」
「関係ない」
「でも」
「関係ないと言った」
今度はあのときとも違う言い方だった。突き放している、というより、自分に言い聞かせているような言い方だった。
関係ない、という言葉が、乃々花ではなく朔弥自身に向かっているような。
「鍵は台所にありました」
「知っている」
「知っていて、あそこに置いていたんですか」
「……」
「誰かが見つけることを、どこかで」
「余計なことを言うな」
遮られた。
乃々花は止まった。
朔弥は廊下を歩き始めた。乃々花の横を通り過ぎようとして、一瞬だけ止まった。
「大切にしていた人間がいた」
低い声だった。自分に言い聞かせているとも、独り言とも取れる言い方だった。
「百年前に、この長屋に住んでいた」
それだけ言って、歩いていった。
廊下の奥へ消えていく背中を、乃々花はしばらく見ていた。
その日の午後、乃々花はほとんど仕事が手につかなかった。
台所を拭いていても、廊下を掃いていても、頭の中に部屋の光景が浮かんだ。
整ったまま時間の止まった部屋。花柄の着物。読みかけの本。使いかけの紅。
誰かがそこにいた。朔弥にとって大切な誰かが、百年前にそこに住んでいた。
そしてその人は、いなくなった。
百年前に、いなくなった。
乃々花は雑巾を持ったまま、廊下に座り込んだ。
人間の寿命は短い。どんなに大切にしても、あやかしの時間の中では一瞬のように終わる。朔弥はそれを知っていたはずなのに、大切にした。そして見送った。
だから人間に距離を置くようになった。
久遠が言った言葉が戻ってきた。ずっとではない、と。
お紺が言った言葉も戻ってきた。触れてほしくないところが、触れてほしいところと同じ場所にある、と。
朔弥が乃々花に「関係ない」と言い続けるのは、冷たいからではない。関係させてしまうことを、恐れているからだ。
関係させてしまったら、また大切になる。大切になったら、また終わりが来る。
百年前の痛みを、もう一度繰り返すことを、恐れている。
夕方、久遠の部屋の前を通ったとき、引き戸が開いていた。
久遠が針仕事をしながら、乃々花の気配に気づいて顔を上げた。
「入れ」
入ると、久遠は手を止めて乃々花を見た。
「何かあったか」
「……あの部屋を開けました」
久遠は少しの間黙った。
「朔弥に見つかったか」
「はい」
「怒ったか」
「怒りました。でも、一つだけ教えてくれました」
「何を」
「大切にしていた人間がいた、と。百年前に、ここに住んでいた、と」
久遠は針を布に刺したまま、動かなかった。
「久遠さんは知っていたんですね」
「知っている」
「その人のことを、教えてもらえますか」
久遠は長い間、答えなかった。
針が動いた。一針、また一針。布を縫いながら、言葉を選んでいるようだった。
「名前は、ふじ、といった」
乃々花は黙って聞いた。
「この長屋に迷い込んできた娘だ。朔弥はよそ者を嫌うが、その娘は怖がらなかった。住人たちの世話を焼いて、掃除をして、食事を作った」
乃々花は息を止めた。
「朔弥は最初、距離を置いていた。でも娘は気にしなかった。ただ、自分の思うようにここで生きていた。朔弥が変わるのに、三年かかった」
「三年」
「あの男が変わるには、それくらいかかる」
久遠は少し間を置いた。
「娘は二十年ここにいた。朔弥にとっては短い時間だが、娘にとっては人生のほとんどだった。病で逝った。朔弥の腕の中で」
廊下の外で、風が動いた。
「それから朔弥は変わった。人間と深く関わることをやめた。住人たちの世話はするが、情を見せることはしなくなった。あの部屋も、入ることをやめた。閉めたまま、百年置いた」
「でも鍵を台所に置いていた」
「そうだ」
久遠は乃々花を見た。
「なぜだと思う」
「……閉じきれなかったから、だと思います」
久遠は答えなかった。でも否定もしなかった。
「あなたがあの部屋を開けたことを、私は悪いとは思わない」
「朔弥さんは怒りました」
「怒るのは当然だ。でも閉じたままの部屋は、誰かが開けない限り、ずっと閉じたままになる」
針が一針、また一針と動いた。
「縫い目は残る。でも着られなくなるとは限らない、とあなたに言った。あの言葉は、朔弥のことでもある」
乃々花はそれを聞いて、少しの間目を閉じた。
百年前の春に閉じた場所。鍵を台所に置いたまま、開けられることを待っていたかもしれない場所。
朔弥の冷たさが、見送る痛みから来ていることを、今日ようやく知った。
全体の形が、少しずつ見えてきた気がした。
まだ全部ではない。でも、輪郭だけは。
帰り際、乃々花は廊下の突き当たりに一度だけ立ち寄った。
閉じた引き戸の前で、少しだけ手を当てた。
中には、まだ時間が止まったままの部屋がある。花柄の着物。読みかけの本。使いかけの紅。誰かが席を外しているだけのような、あの部屋が。
忘れじの、と誰かが読んでいた歌が、また頭に浮かんだ。
乃々花は手を離して、歩き出した。
今日分かったことを、すぐに何かにしようとは思わなかった。でも、知ったことは知った。受け取ったことは受け取った。
月見荘の門を出て、石畳を歩いた。
夕暮れの空が広かった。夏の終わりの光が、西の方に長く伸びていた。
朔弥の横顔を思い出した。廊下に立っていた、あの顔を。怒りの下に、深くて古い何かがあった、あの一瞬を。
乃々花はまだ、自分がここにいる理由を言葉にできなかった。
でも今日の帰り道は、今までより少しだけ、足が重かった。
離れがたい、という感覚が、言葉より先にあった。




