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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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第十章 まちがって、やさしい

 翌朝、乃々花はいつもより早く月見荘に着いた。

 理由は自分でもはっきりとは分からなかった。眠りが浅くて早く目が覚めた、というのは本当だ。でもそれだけではなく、長屋の様子が気になっていた。昨日のことが、頭の中で整理できないまま朝になっていた。

 門をくぐると、中庭はまだ静かだった。

 夏の朝の光が石畳に落ちていて、どこかで鳥が鳴いている。住人たちはまだ起きていないのか、引き戸はどれも閉まっていた。

 台所へ入って、湯を沸かした。

 何かをしていないと落ち着かなかった。手を動かしていれば、考えが少しずつ整理される。それは乃々花の長年の癖だった。

 湯が沸くのを待ちながら、昨日のことを順番に考えた。

 引き戸を開けた。部屋の中を見た。朔弥に見つかった。追い出された。大切にしていた人間がいた、と初めて教えてもらった。久遠からふじという名前を聞いた。

 間違ったことをしたか。

 鍵を使って部屋を開けたのは、朔弥の意に反することだった。それは間違いだ。でも、鍵が台所に置いてあった。久遠は「悪いとは思わない」と言った。朔弥自身が、一つだけ教えてくれた。

 間違いと、してよかったことが、同じ行動の中にある。

 それをどう整理すればいいか、乃々花にはまだ分からなかった。


 住人たちが起き出してきたのは、湯が沸いてしばらく経ってからだった。

 最初に来たのは雪丸だった。台所の入り口に立って、乃々花を見て、それから湯呑みを見た。

「おはようございます」

「……おはよう」

「お茶、飲みますか」

 雪丸は頷いて、台所に入ってきた。湯呑みを受け取って、両手で包む。いつもの仕草だった。

「ののかさん、今日は早い」

「少し早く目が覚めたので」

「朔弥と何かあった?」

 乃々花は手を止めた。

「なぜ分かるんですか」

「なんとなく」

 雪丸は湯呑みを持ったまま、台所の隅に腰を下ろした。

「朔弥、昨日の夜、中庭にいた」

「中庭に?」

「夜中。ぼく、水を飲もうとして起きたら、外に朔弥がいた。ずっと、あの引き戸の前に立ってた」

 乃々花は何も言わなかった。

「朔弥がああいう顔するのは、久しぶりだった」

「どういう顔でしたか」

「……うまく言えないけど。なんか、遠い顔」

 遠い顔。

 乃々花はそれを聞いて、昨日廊下に立っていた朔弥の目を思い出した。怒りの下にあった、深くて古い何か。

「雪丸くんは、あの部屋のことを知っていますか」

「少しだけ。お紺から聞いた。朔弥が大切にしてた人の部屋だって」

「怖くないですか、その話」

 雪丸は少し考えた。

「怖くはない。ただ、朔弥がずっとそれを持ってるのは、なんか、重そうだなって思う」

 子どもらしい言い方だったが、的を射ていた。

 重そう、というのは正しかった。百年分の重さがある。


 たま吉は昼近くまで起きてこなかった。

 縁側にのそりと現れて、あくびをして、台所を覗いた。

「何か食えるもんある?」

「昼の支度はこれからです」

「早く頼む」

「自分で何か食べて下さい、今は手が空いていません」

「冷たいな」

 たま吉は文句を言いながら棚を開けて、干し芋を見つけて持っていった。それで文句が止まったので、乃々花は作業を続けた。

 しばらくして、縁側からたま吉の声がした。

「なあ」

「何ですか」

「昨日、朔弥の部屋の前で何かあったのか。夜中に中庭で立ってたぞ、あいつ」

 雪丸と同じことを言った。

「少し、踏み込みすぎました」

「ふうん」

 たま吉は干し芋をかじりながら、それ以上聞かなかった。しばらくして、また声がした。

「あいつ、怒るのは珍しい」

「お紺さんも同じことを言っていました」

「怒るより黙る方が多いから。だから怒るときは本当に嫌なときだ」

「そうですか」

「でも」

 たま吉は少し間を置いた。

「嫌だからって、どうでもいいわけじゃない。どうでもいいものには怒らない」

 それだけ言って、干し芋をかじる音がした。

 乃々花は手を動かしながら、その言葉を受け取った。

 たま吉が理屈を言うのは珍しかった。でも、言ったことは正しかった。


 お紺は午後になってから、乃々花のいる台所へやってきた。

 いつもと少し違う顔をしていた。からかう気配がなかった。

「あの部屋を開けたって、朔弥から聞いた」

「朔弥さんが話したんですか」

「話したというより、私が聞いたの。様子がおかしかったから」

 お紺は台所の入り口に寄りかかって、腕を組んだ。

「あの部屋、中はどうだった」

「整っていました。時間が止まったみたいに」

「そう」

「着物と、文机と、読みかけの本と、使いかけの紅があって」

「……そう」

 お紺の声から、いつもの軽さが消えていた。

「お紺さんは、その部屋に入ったことがありますか」

「ない。朔弥が閉めてから、誰も入っていない。あたしも久遠も、入ろうとしたことがない」

「なぜ」

「入れなかった。なんとなく。入っていい場所じゃない気がして」

 お紺は少しの間黙った。

「でも、あなたは入った」

「鍵が台所にあったので」

「鍵がどこにあるかなんて、あたしも知ってたわよ。でも使おうとは思わなかった」

 乃々花は手を止めた。

「つまり私は、みなさんが越えなかった線を越えたんですね」

「そういうことになるわね」

「それは」

「悪いことかどうかは分からない」

 お紺は穏やかな声で言った。

「ただ、朔弥があんな顔をするのを久しぶりに見た。怒りだけじゃなくて、もっと奥のものが出てた。あの人がああなるのは、相当なことなのよ」

「謝ろうとしているんですが、うまく言葉にならなくて」

「謝れば済む話でもないかもしれない」

「では、どうすれば」

 お紺はしばらく考えた。

「さあ。あたしには分からない。でも、謝り方って言葉だけじゃないでしょ」

 それだけ言って、お紺は廊下へ戻っていった。


 午後の遅い時間、乃々花は朔弥の部屋の前に立った。

 謝りに行く、と決めたわけではなかった。でも、何もしないまま今日が終わることに、やはり気持ちが落ち着かなかった。

 引き戸の前で少し考えてから、ノックをした。

「朔弥さん」

 返事がなかった。

「昨日のことを謝りに来ました。入っていいとは言っていませんね、すみません」

 やはり返事がない。でも中に気配はある。

「言葉でうまく言えないんですが、越えてはいけない場所に入ったことは、間違いだったと思っています」

 沈黙が続いた。

「ただ、あの部屋を大切に思っていることは、伝わりました。整っていました。誰かがいつでも戻れるように、ずっとそのままにしておいたんだと思いました」

 引き戸の向こうで、気配が動いた。立っている場所が変わった気がする。

「それ以上のことを言える立場にないので、今日はここまでにします」

 乃々花は踵を返した。

 廊下を歩き始めたとき、背後で引き戸が開いた。

 振り返らなかった。

 立ち止まっただけだった。

「入ってはいけない場所だった」

 朔弥の声がした。

「はい」

「だが」

 少しの間があった。

「見てしまったなら、仕方がない」

 仕方がない、という言葉の重さを、乃々花は受け取った。許している、という意味ではないかもしれない。でも、責め続けるつもりもない、ということだと思った。

「ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない」

「私が言いたいので言います」

 また少しの間があった。

「……そうか」

 引き戸が閉まる音がした。


 夕方近く、乃々花は朔弥の部屋の前を通った。

 引き戸は閉まっている。中の気配は静かだった。

 乃々花は少し考えてから、台所へ行った。

 湯を沸かして、茶を淹れた。朔弥が飲むのを見たことがある、番茶を。濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい濃さに。

 湯呑みに注いで、盆に乗せた。

 朔弥の部屋の前に行って、盆を床に置いた。

 ノックはしなかった。

 引き戸を開けることもしなかった。

 ただ、手が届く場所に置いた。いつでも取れる場所に。取るかどうかは朔弥が決める。

 廊下を戻りながら、少しだけ振り返った。

 引き戸は閉まったままだった。

 それでいいと思った。


 長屋の夕方は、いつも少し騒がしかった。

 お紺が鼻歌を歌いながら廊下を通る。たま吉が縁側で何かを食べている音がする。雪丸が台所の入り口をそっと覗く。久遠の部屋から、針仕事の細い音がする。

 乃々花はその音を聞きながら、廊下を掃いていた。

 住人たちは誰も、今日の出来事について直接何も言わなかった。聞きもしなかった。でも全員が、少しずつ乃々花の様子を確認していた。雪丸は朝に話しかけてきた。たま吉は干し芋を持って縁側にいた。お紺は台所に来た。久遠は昼に廊下で乃々花の顔を見て、何も言わずに頷いた。

 それぞれのやり方で、様子を見ていた。

 この人たちは、そういう人たちだ、と乃々花は思った。

 騒がしくて、手がかかって、それぞれに事情があって、整理されていない部分を抱えている。でも、誰かが困っているとき、それぞれの方法で気にかける。

 そのことに気づいたのは、いつだったのか。最初からそうだったかもしれないし、少しずつ見えてきたのかもしれない。


 帰り際、朔弥の部屋の前を通ると、盆がなくなっていた。

 引き戸の外に置いたはずの盆が、ない。

 湯呑みも、ない。

 引き戸の内側に、気配があった。静かで、重い、いつもの気配。

 乃々花は引き戸の前で少し立ち止まった。

 盆が消えていることで、十分だと思った。言葉にしなくても、受け取ってもらえた。

 それだけで、今日という日が少しだけ整った気がした。

 廊下を歩いて、玄関へ向かう。

 その途中で、ふと思い出したことがあった。

 正しいことをしていても、人を傷つけることがある。それはこれからも変わらないかもしれない。でも、傷つけた後に何もしないのと、何かをするのとは、違う。

 謝り方は言葉だけじゃない、とお紺は言った。

 手の届く場所に置いた温かい茶が、正しいやり方だったかどうかは分からない。でも、できることをした。それは確かだった。

 玄関で靴を履いて、外へ出た。

 夏の夕暮れが、長く空に残っていた。

 西の空が赤く、東の空がもう少し暗い。その境目あたりに、薄く星が一つ、出始めていた。

 乃々花はしばらく空を見た。

 久遠が言った言葉を、また思い出した。

 縫い目は残る。でも着られなくなるとは限らない。

 今日の縫い目がどんな形をしているかは、もう少し経たないと分からない。でも今日、縫い目を入れようとした。それだけは確かだった。

 月見荘の門を出て、石畳を歩く。

 足音が夜の始まりの中に吸い込まれていった。遠くで、夏の虫が鳴き始めていた。


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