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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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第十一章 古い長屋を覚えている人

 朝から空は薄曇りで、陽の色がいつもより白かった。

 乃々花は台所の棚の前で、買い足すべき調味料を書き出していた。味噌、醤油、干し椎茸、昆布。米はまだある。お紺が勝手に開けた菓子箱の分も、そろそろ補充した方がいいかもしれない。

 紙に書いた文字を見返していると、廊下の向こうから足音がした。

「起きてたのね」

 振り向くと、お紺が髪を結い上げながら立っていた。今日は淡い橙の着物で、朝だというのにきちんと口紅を引いている。手には湯呑みが一つ。自分で淹れたのではなく、たぶんさっき乃々花が置いておいた湯を勝手に使ったのだろう。

「起きていますよ。もう朝ですし」

「月見荘では、朝に弱いのが何人かいるから基準が狂うのよ」

「たま吉くんですね」

「雪丸も、冬の方が元気だしね」

 言いながら、お紺は台所の入口に寄りかかった。視線が、乃々花の手元の紙に落ちる。

「なにそれ。買い出し?」

「それもあります」

 乃々花は一度言葉を切った。

「それと、少し町の人に聞いてみようかと」

「なにを?」

「月見荘のことを」

 お紺の目が、わずかに細くなった。

 乃々花は、昨日の夕方に三沢倫子と交わした会話を思い出していた。正式な保存申請の話になるかどうかはまだ分からない。それでも、建物の古さだけではなく、町の中でどう記憶されてきたか、そういう話が少しでも集まれば無駄ではないかもしれない、と倫子は言っていた。

 もちろん、それで何かがすぐ変わるわけではない。書類になるとも限らない。

 でも、聞いてみたいと思ったのは事実だった。

「町の人が、月見荘をどう見てきたのか、少し知りたくて」

「あら」

 お紺は湯呑みを口元に寄せたまま、ふっと笑った。

「仕事熱心」

「仕事だけではありません」

 言ってから、少しだけ早かったかもしれないと思う。

 お紺はその言い方を面白がるように見たが、何もからかわなかった。

「朔弥には言ったの?」

「今から言います」

「じゃあ、機嫌の悪くない時を選びなさい」

「悪くない時があるんですか」

「あるわよ。すごく分かりにくいけど」

 乃々花は紙を折りたたんで、帯の間に挟んだ。

 外へ出る前に話しておくべきだろう。あとで勝手に動いたと言われるのは面倒だ。

 廊下へ出ると、縁側の方から低い声が聞こえてきた。朔弥だった。誰かと話しているわけではない。どうやら雪丸に何か言っているらしいが、返事は聞こえない。

 声のする方へ行くと、朔弥は中庭に面した柱のそばに立っていた。視線の先には、桜の木がある。季節外れで葉ばかり茂っているその木を、朔弥はときどきこうして黙って見ている。

「朔弥さん」

 声をかけると、朔弥が振り向いた。

「なんだ」

「少し、町に出てきます」

「買い出しか」

「それもあります」

 乃々花は一拍置いた。

「月見荘のことを、少し聞いてみようと思って」

 朔弥の表情は、ほとんど変わらなかった。

 けれど、返事が来るまでにわずかな間があった。

「聞いてどうする」

「どうもしないかもしれません。でも、残せるかもしれないなら、残したいんです」

「……誰が」

「月見荘をです」

 言ってから、自分の声が思っていたよりまっすぐだったことに気づく。

 朔弥は乃々花を見た。その目の色は薄く、感情が読み取りづらい。けれど今は、完全に無関心な目ではなかった。

「好きにしろ」

 やがて朔弥はそう言った。

「ただし、余計なことまで話すな」

「余計なこと、とは」

「ここに何が住んでいるかとか、そういうことだ」

「言いません。言っても信じてもらえないでしょうし」

「……そうだな」

 ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。

 気のせいかもしれない。

「帰りが遅くなるようなら言え」

「そんなに遅くはなりません」

「ならいい」

 会話はそれで終わりだった。

 朔弥はまた桜の木の方へ視線を戻す。乃々花もつられるようにその木を見た。夏に近い葉の色は濃く、春の気配などどこにもない。

 それでも、あの木に花が咲くところを見たいと思った。

 来年の春、とまではまだはっきり思わない。ただ、なくなる前に、ではなく、ここでまた季節が巡るのを見たいと、ぼんやり思った。

 長屋を出ると、石畳は昨夜の湿り気をまだ少し残していた。

 商店街の方へ歩くあいだ、乃々花は頭の中で順番を整える。まずは乾物屋、次に市場、できれば古道具屋にも寄る。唐突に「この長屋を覚えていますか」と聞いても不審がられるだろうから、買い物のついでに、さりげなく話題を出す方がいい。

 自分でも、ずいぶん真面目なことをしていると思う。

 正式に頼まれたわけでもない。確かな成果が出る保証もない。

 それでも動こうと思うのは、月見荘の廊下や台所や、あの桜の木を思い浮かべると、ただ古いだけの建物だと片づけたくなくなるからだった。

 商店街は午前の活気の中にあった。

 店を開ける音、野菜を並べる音、遠くから聞こえる呼び込みの声。人の暮らしの匂いがする。月見荘の静けさとは違う種類の、息をしている場所の音だった。

 最初に入ったのは、乾物屋だった。

 以前、たま吉の騒ぎの時に少し世話になった店で、白髪の小柄な女主人が一人で切り盛りしている。店先には昆布や煮干し、豆が並び、奥には干し椎茸の袋が積まれていた。

「おはようございます」

「あら、月見荘の」

 女主人はすぐに乃々花に気づいて、目元を和らげた。

「この前は大変だったねえ。あの猫みたいな子、懲りた?」

「たぶん、あまり」

「でしょうねえ」

 乃々花は昆布と煮干しを選びながら、世間話に紛れさせるように口を開く。

「このあたりに長くお店を出していらっしゃるんですよね」

「そうねえ。嫁いできてからだから、もう四十年は超えたかしら」

「でしたら、月見荘のことも昔から」

 そこまで言うと、女主人の手が少し止まった。

「あの長屋のこと?」

「はい。最近、少し調べることがあって」

 嘘ではない。

 女主人はしばらく乃々花を見ていたが、やがて「ああ」と小さく息をついた。

「覚えてるわよ。忘れる方が難しいくらい」

「どんなふうに、ですか」

「そうねえ……」

 女主人は煮干しの入った箱の蓋を閉めて、少し遠くを見る顔になった。

「若い頃、一度だけ、あそこで雨宿りさせてもらったことがあるの」

 乃々花は黙って続きを待った。

「家に帰りたくない日だったのよ。大したことじゃないの。亭主と喧嘩したとか、そんなこと。今思えばね。でもその時は、帰るのが嫌で嫌でたまらなくて」

 女主人は少し笑った。

「夕立がひどくてね、どこか軒先に入ろうと思ったら、気づいたらあの長屋の前に立ってたの。変でしょう。あの路地って、用がなきゃあんまり入らないのに」

「……はい」

「そしたら、中から女の人が出てきてね。何も聞かずに、お茶を出してくれたのよ」

「女の人」

「きれいな人だったわ。年は若かったかもしれないけど、落ち着いてて。びしょ濡れのあたしに、タオルも貸してくれた」

 女主人はそこで少し黙った。

「話なんてほとんどしなかった。でも、『雨が弱くなるまでいればいい』って、それだけ言われてね」

 乃々花の胸の奥で、何かが小さく動いた。

「お名前は、覚えていませんか」

「それがねえ、覚えてないのよ。不思議なくらい」

 女主人は困ったように笑った。

「でもね、あそこは追い返さない場所だった、ってことだけは、ずっと残ってるの」

 店の外で、自転車のベルが鳴った。

 午前の光が乾物の袋に当たって、白く反射していた。

 乃々花は受け取った昆布の包みを手に持ったまま、ゆっくり頷いた。

「ありがとうございます」

「なに、役に立つ話だった?」

「……たぶん、とても」

 女主人は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。

 乃々花は代金を払い、店を出る。商店街の空気はさっきと同じはずなのに、少しだけ違って感じられた。

 月見荘は、あそこに住む者だけの場所ではなかったのかもしれない。

 誰かが困って、帰る前に少し立ち止まるための場所でもあった。

 まだ一人の話を聞いただけだ。証拠になるとも限らない。

 それでも、ただの古い長屋、という言い方は、もう少しだけ違う気がした。

 乃々花は帯の間から小さな手帳を取り出し、乾物屋の前の軒下で今の話を書き留めた。

 雨宿り。帰りたくない日に、お茶を出してもらった。追い返さない場所。

 書き終えて顔を上げる。

 市場の方から、魚を並べる威勢のいい声が聞こえてきた。次はあちらへ行こうと思い、歩き出す。その足取りは、来た時より少しだけ速くなっていた。

 市場は昼前のざわめきに向かって、少しずつ温度を上げていた。

 通りに入った瞬間、魚の匂いと湿った木箱の匂いが混ざって鼻に届く。威勢のいい声が飛び交い、水を打った石の床がきらきらと光っていた。

 乃々花は人をよけながら、三浦鮮魚の店先へ向かった。

「おはようございます」

 声をかけると、店主が顔を上げた。

 五十がらみの男は、以前より少し顔色が戻っているように見えたが、それでも目の下の影は完全には消えていない。

「おう。今日は猫は連れてないんだな」

「連れてきていません」

「そりゃ助かる」

 ぶっきらぼうな言い方だが、前ほど刺がない。

 乃々花は店先に並べられた鯵と鰯を見ながら、切り出すタイミングを計った。

「今日は買い物もあるんですが、少しだけお聞きしたいことがあって」

「なんだ」

「月見荘のことです」

 店主の手が止まった。

 魚を並べていた指先が、ぴたりと木箱の縁で止まる。

「あの長屋がどうかしたか」

「最近、少し調べる必要が出てきて」

「調べる?」

「昔のことを覚えている方がいればと思って」

 店主はしばらく黙っていた。

 通りの向こうから、別の店の呼び込みが聞こえる。誰かが笑って、木箱を動かす音がして、それからまた、水のはねる音。

「……昔ってほどでもねえが」

 やがて店主はそう言って、濡れた手を前掛けで拭った。

「親父の代には、もうあったよ。俺がガキの頃から、あの長屋はそこにあった」

「何か、印象に残っていることはありますか」

「印象、ねえ」

 店主は少し考えるように目を細めた。

 それから、売り場の奥を顎でしゃくる。

「ちょっと待ってろ」

 店の裏へ引っ込む。乃々花は邪魔にならないよう端へ寄りながら待った。

 やがて店主は、新聞紙に包んだ何かを手に戻ってきた。魚ではない。古びた帳面のようなものだった。

「親父が残してた帳面だ。別に大したもんじゃねえ。仕入れと売り上げの覚え書きみたいなもんだが、たまに余計なことも書いてある」

「余計なこと」

「魚屋ってのは、魚の話だけして生きてるわけじゃねえからな」

 店主は帳面をぱらぱらとめくった。

 指先が、黄ばんだ紙の端を器用にめくっていく。やがて一か所で止めて、乃々花の方へ少し傾けた。

「ほら、ここ」

 読ませてもらうと、癖の強い字でこう書かれていた。


 夕刻、急な雨。荷を濡らす。月見荘の軒借りる。礼、あとで鯖二尾。


 短い一文だった。

 でも、それだけで情景が立ち上がる。急な雨、濡れる荷、軒先、あとで返す鯖二尾。

「お父さまが?」

「らしいな。俺は覚えてねえ。小せえ頃だから」

 店主は帳面を閉じた。

「でも親父、あの長屋のことは変に悪く言わなかった。古いし、近寄りがたいし、何考えてんだか分からねえ連中がいる、とは言ってたが」

「最後がかなり気になります」

「そういう言い方しかできねえ人だったんだよ」

 店主は鼻を鳴らした。

「それでも、困った時に一回だけ助けられた、みたいな言い方はしてたな」

「助けられた」

「台風みてえな雨の日に、荷車ごと軒へ入れさせてもらったことがあるらしい。親父一人じゃ持ち上がらねえ荷を、中の住人が何人かで運んだって」

「誰が、とは」

「そこが妙なんだよ」

 店主は少し首を傾げた。

「親父、相手の顔はうまく思い出せなかったらしい。女だったような気もするし、男だったような気もする、って。けど、『あそこの連中は、助けたあと恩を売らない』とは言ってた」

 その言い方が、乾物屋の女主人の言葉と重なった。

 あそこは追い返さない場所。助けられたと言わせない助け方。

 乃々花は手帳を取り出し、簡潔に書き留める。


 魚屋の父。雨の日、荷車ごと軒下に入れてもらう。住人が手伝う。恩を売らない。


「ありがとうございます。こういう話が、すごく知りたかったんです」

「役に立つかは知らねえぞ」

「たぶん、役に立ちます」

「ならいいけどな」

 店主は帳面を包み直しながら、ふと乃々花を見た。

「あんた、あそこに通ってどのくらいだ」

「まだ、そこまで長くは」

「そうか」

 それだけ言って、少し声を落とす。

「じゃあ、あんたも無理すんなよ」

「え?」

「昔からある場所ってのは、それだけで人を縛ることがある」

 思いがけない言葉だった。

 乃々花が返事に迷っていると、店主はすぐにいつもの調子に戻った。

「鯵持ってくか。今日はいいのが入ってる」

「いただきます」

「真面目に働く人間には、少しおまけしてやる」

「ありがとうございます」

 魚を包んでもらって店を離れると、市場のざわめきが少し違って聞こえた。

 月見荘は町の中で、ただひっそり存在していたわけではない。誰かの記憶の端に、雨の日の軒先みたいに残っている。

 そのことが、思った以上に胸に響いていた。

 市場を抜け、乃々花は商店街の外れまで歩いた。次に向かったのは、古道具屋だった。看板は小さく、店の前には古い火鉢や行李、欠けた茶碗や柱時計が雑多に並んでいる。どれも長い時間を使い込まれた顔をしていて、日向に出された木の匂いがした。

 店の奥には、背の曲がった老人が一人、丸眼鏡を鼻の先にかけて座っていた。

 帳簿でもつけているのか、机の上に紙を広げている。

「すみません」

 声をかけると、老人はゆっくり顔を上げた。

「いらっしゃい。今日はなにを探してる」

「物ではなくて、お話を少し」

「お話は高いよ」

「買い物もします」

「なら聞こうかね」

 少しほっとする。乃々花は店先の古い籠を手に取りながら、いつものように話を始めた。

「このあたりに長くお住まいなんですよね」

「住んでるというか、埋まってるようなもんだ」

「月見荘のことを、何かご存じないかと思って」

 老人の眉が、ぴくりと動いた。

「ああ、あの長屋」

「覚えていらっしゃいますか」

「覚えてるとも。あれを忘れるほど、まだ耄碌してない」

 老人は眼鏡を外して、机の上に置いた。その仕草が、思ったよりも丁寧だった。

「お嬢さん、あそこに何かあるのかい」

「あります」

 乃々花は少しだけ考えてから、続けた。

「私には、あります」

 老人は目を細めた。試すような、でも意地の悪くない沈黙が一瞬あって、それから小さく笑う。

「いい返事だ」

「何かご存じでしたら」

「そうさなあ。昔から、“帰れない人が最後に流れ着く場所”みたいに言う者はいた」

「帰れない人」

「家に帰れない。元いた場所に帰れない。あるいは、帰る前に少しだけ立ち止まりたい。そういう者が、なぜだかあの長屋の前に出る」

 乾物屋でも魚屋でもなかった言い方だった。

 乃々花は手に持った籠をそっと元の場所へ戻した。

「実際に、そういう人がいたんですか」

「いたよ」

 老人はあっさり言った。

「私の妹だ」

 店の空気が、少し変わった気がした。

 表の通りの音が遠くなる。

「若い頃、妹が家出をしたことがあってね。大げさなもんじゃない。家が嫌になったとか、親父とぶつかったとか、そういうことだ。夜まで探しても見つからなくて、こりゃもう駄目かと思った頃に、ふとあの路地の前を通った」

 老人の視線が、昔を見るように宙へ向く。

「そしたら、あの長屋の前に妹が座っていた。泣いた顔でもなく、怯えた顔でもなく、ただ少し疲れた顔で」

「誰かと一緒だったんですか」

「いや。少なくとも私が見た時は一人だった」

 老人は首を振った。

「でも妹は後で、『少し休ませてもらった』と言ったよ。誰がいたのか、何を話したのかは、とうとう詳しく話さなかったけどね」

「……そうですか」

「ただ一つだけ、はっきり言ってた」

 老人は乃々花を見る。

「あそこは、帰れって急かさない場所だった。と」

 乃々花は息をつめた。

 追い返さない。恩を売らない。帰れって急かさない。

 言葉は少しずつ違うのに、指しているものは同じ気がした。

 月見荘は、そこに住んでいる者たちの居場所であるだけじゃない。

 帰る前に少しだけ立ち止まるための場所でもあったのだ。

「……ありがとうございます」

 乃々花の声は、自分でも思ったより静かだった。

「まだあるよ。証拠みたいなもんが」

「証拠?」

「大げさなもんじゃないがね」

 立ち上がって、店の奥へ引っ込む。

 古い木の引き戸が開く音がして、しばらくがさごそと探す気配が続いた。

 やがて老人は、薄い紙包みを抱えて戻ってきた。

「写真だ」

 包みを机の上で開く。中から出てきたのは、何枚かの古い町並み写真だった。白黒に近い色味で、端が少し反っている。商店街の入口、石橋、祭りの山車、そして坂の途中から撮ったらしい一枚。

 老人はその中の一枚を、指先でそっと押さえた。

「これを見なさい」

 乃々花は身を乗り出した。

 写真には、昔の町並みが写っている。今より建物は低く、道幅も狭い。電線の少ない空の下、木造の家並みが続いている。

 そして、写真の左端、少し奥まった路地の先に――

「あ……」

 思わず声が漏れた。

 小さく、けれど確かに、月見荘が写っていた。

 今より新しい外壁。まだ色の濃い瓦。路地の影の奥に、見慣れた輪郭がある。

 気をつけなければ見落とすほど小さい。けれど、そこにあると分かれば、もう見間違えようがなかった。

「これ……」

「五十年以上前かな。祭りの日に撮ったやつだ。私は風景のつもりで撮ったが、あとで見返して、あそこも入ってると気づいた」

「借りてもいいですか」

 乃々花は顔を上げた。

「いえ、借りるのが難しければ、写しでも」

「そんなに欲しいかい」

「欲しいです」

 ほとんど即答だった。老人はその返答を聞いて、少しだけ目元を和らげる。

「いいよ。写しを作ってやる」

「ありがとうございます」

「ただし、元を雑に扱うな」

「もちろんです」

 老人は写真を包み直しながら、ぽつりと言った。

「町ってのはね、立派なもんだけでできてるわけじゃない」

 乃々花は黙って聞く。

「誰も名前を覚えていないような場所や、何の由緒もなさそうな古い家が、案外、町の息の仕方を決めてることがある」

 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。

「月見荘は、そういう場所だったんですか」

「だった、じゃないかもしれん」

 老人は肩をすくめた。

「まだそこにあるなら、今もそうなんだろうよ」

 店の外から、風が一筋入ってきた。

 紙の端がわずかに揺れる。

 乃々花は写真の包みを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 ただ古い建物だから残したいのではない。住人たちが好きだからだけでもない。

 なくなったら困るのは、自分たちだけではないのかもしれない。

 そう思った瞬間、月見荘を守りたい気持ちの輪郭が、少しだけはっきりした。

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