第十二章 持ち帰った記憶
月見荘へ戻るころには、日がだいぶ傾いていた。
商店街のざわめきは少し遠のき、石畳の色が夕方の光を薄く含み始めている。
乃々花は買い物袋を片手に、もう片方の手で写真の包みを確かめた。古道具屋の主人が厚紙にはさんでくれたおかげで、折れも湿気も心配なさそうだった。それでも、何度も指先で端をなぞってしまう。
路地へ入ると、外の音が少しずつ後ろへ遠のいた。
あの独特の静けさが戻ってくる。けれど今日は、朝に出た時とは違って、その静けさの向こうに町の声がまだかすかに重なっているような気がした。乾物屋の女主人の声、魚屋の店主のぶっきらぼうな口調、古道具屋の主人の「町の息の仕方」という言葉。
月見荘は、この路地の奥だけで閉じてはいなかったのだと思う。
玄関を開けると、出汁の匂いがした。台所で何か煮えているらしい。お紺が勝手に鍋を覗いて味見をしていそうだ、と思いながら上がる。
「ただいま戻りました」
声をかけると、廊下の向こうからぱたぱたと足音がした。雪丸だった。白い髪を揺らして走ってくる勢いだったのに、乃々花の前まで来るとぴたりと止まる。
「おかえり」
「ただいま。何か変わったことはありましたか」
「たま吉が干物、ひとつ食べた」
「ひとつですか」
「うん。ひとつだけって言ってた」
「それはあとで聞きます」
雪丸は乃々花の持っている包みに目を落とした。
「それ、なに?」
「写真です」
「しゃしん」
「あとで見ますか」
そう言うと、雪丸は少し考えてから頷いた。
「みる」
その返事に笑いそうになりながら、乃々花は廊下を進む。
台所の前を通ると、お紺が予想通り鍋の前に立っていた。杓文字を片手に、いかにも今ちょうど味見しました、という顔をしている。
「おかえりなさい。どうだった?」
「いろいろ聞けました」
「あら、本当に?」
お紺は意外そうに目を丸くした。
「何も出てこないかと思ってた」
「私も少しそう思っていました」
「で、なにを持って帰ってきたの?」
「話と、写真を一枚」
写真、と言った瞬間、お紺の表情が少し変わった。
軽い興味だけではなく、もう少し静かなものが混じる。
「朔弥には?」
「まだです」
「じゃあ先に見せた方がいいわ」
お紺はそう言って、鍋に蓋を戻した。
「今、中庭の方にいるはず」
「ありがとうございます」
「あとであたしにも見せて」
「もちろんです」
中庭に面した廊下へ出る。湿り気を含んだ夕方の風が、柱の間をゆっくり抜けていく。桜の葉がわずかに揺れていた。
朔弥は、朝と同じように柱のそばに立っていた。
まるで一日中そこにいたみたいに自然な立ち姿だったが、そんなわけはない。たぶん乃々花が帰ってきた気配に気づいて、ここへ来たのだろう。そう思わせる程度には、もうこの長屋の空気が少し分かる。
「戻りました」
朔弥が振り向く。
「遅かったな」
「予定より少しだけです」
「そうか」
それ以上責めるわけでもなく、ただ視線が乃々花の手元へ落ちた。買い物袋ではなく、厚紙にはさんだ包みの方へ。
「それは」
「見つけたものです」
乃々花は中庭に面した縁側へ歩み寄った。
「町の人に話を聞いてきました。何人か、月見荘のことを覚えている人がいて」
朔弥は何も言わない。促しもしないが、止めもしない。
「雨の日に軒先を借りた人がいました。帰りたくない日に、お茶を出してもらった人もいました。『追い返さない場所だった』って」
そこまで言って、乃々花は一度息を整えた。
「それから、昔ここが写った写真を持っている人がいました」
朔弥の目が、わずかに細くなる。
驚いたのか、警戒したのか、すぐには分からなかった。
乃々花は包みを開いた。厚紙の間から、古い写真をそっと取り出す。
手渡す前に、自分でももう一度見てしまう。坂の途中から撮られた町並みの左端、路地の奥、小さく写る月見荘。見落としそうなほど小さいのに、ひとたび見つけると、確かにそこにある。
「これです」
朔弥はすぐには手を伸ばさなかった。写真を見るというより、写真が差し出されていること自体を一瞬受け止めかねているような間があった。
「……本物か」
「古道具屋のご主人が持っていたものです。祭りの日の町並みを撮ったそうで、その中に偶然」
「偶然」
「はい」
やがて朔弥が手を伸ばし、写真の端を受け取った。
指先の動きはいつも通り静かだったが、ほんの少しだけ慎重だった。
写真に目を落とす。
夕方の光が斜めに差していて、古い紙の表面がやわらかく光った。
朔弥はしばらく何も言わなかった。
乃々花は黙って待った。
無理に感想を求める場面ではないと思った。これは説明や報告というより、長いあいだそこにいたものへ、外から返ってきたひとつの証拠みたいなものだったから。
「……こんなふうに」
小さく、朔弥が言った。
「はい?」
「残っているとは思わなかった」
視線は写真のままだった。
その声は驚きよりも、どこか戸惑いに近い。
「町の人たち、何人か覚えていました」
「覚えていても、不思議ではない」
朔弥は低く言う。
「長くあれば、それなりに目に入る」
「そうかもしれません」
乃々花は頷いた。
「でも、目に入るだけでは、ああいう言い方はしないと思います」
乾物屋の女主人の、追い返さない場所。
魚屋の父の、恩を売らない助け方。
古道具屋の主人の、帰れない人が最後に流れ着く場所。
「月見荘のことを、ただ古い長屋として覚えていたわけじゃありませんでした」
朔弥の指先が、写真の端をそっとなぞる。
そこには若い頃の月見荘が、今より少し新しい輪郭で写っている。
「……そうか」
短い返事だった。けれど、その二文字の重さがいつもと少し違って聞こえた。
乃々花は縁側に膝をついて、買い物袋を脇へ置いた。
「書類になるかどうかは分かりません」
「別に、ならなくていい」
「でも、残しておいた方がいいと思ったんです」
朔弥が顔を上げる。
「書類のためだけじゃなくて」
その先を言うのに、少しだけ言葉を探した。
うまく言えるか自信はなかった。でも今は、黙ってしまう方が違う気がした。
「ここにいた人たちが、町の中でどういうふうに月見荘を覚えていたのか。何があって、どう助けられたのか。そういうことを、ちゃんと残しておいた方がいいと思いました」
乃々花は桜の木へ目を向ける。
「なくなるかどうかとは別に、です」
風が吹いて、葉が揺れた。
その音のあとに、しばらく沈黙が続く。
朔弥は再び写真に視線を落とした。
その横顔はいつも通り淡いのに、今はどこか、昔のものと今のものを同時に見ているように見えた。
「俺は」
不意に、朔弥が口を開いた。
「人に覚えられるようなことは、していないつもりだった」
乃々花は瞬きをした。
それは独り言のようでもあり、返答を求めているようでもあった。
「でも、助けられた人は覚えています。名前を覚えていなくても、何をされたかは残るんだと思います」
「名前など、残らなくていい」
「はい」
「……ただ」
朔弥はそこで言葉を切った。珍しく、その先を選ぶように少し黙る。
「場所が残るなら、それで十分だ」
その言葉を聞いた瞬間、乃々花の胸の奥で何かが静かにほどけた。
月見荘はただの建物ではない。朔弥にとっても、住人たちにとっても、町の誰かにとっても、何かを抱えたまま一度立ち止まれる場所だった。そして今、朔弥自身が、その“場所が残ること”をはっきり望んだ。
「……はい」
乃々花はそう返した。それ以上の言葉は要らない気がした。
その時、廊下の向こうから雪丸がひょこりと顔を出した。
「しゃしん、みたい」
小さな声が、夕方の空気を少しだけ軽くした。
乃々花が振り向くと、雪丸は半分だけ柱の影に隠れながら、こちらを見ている。後ろにはお紺もいて、あからさまに興味津々の顔をしていた。
「見ますか」
「みる」
「もちろん見るわ」
お紺はさっさと近づいてきて、朔弥の手元を覗き込む。
「あら……ほんとに写ってる」
その声が、少しだけやわらかくなる。
「若いわね、月見荘」
「建物に若いも何もないだろう」
「あるのよ、こういうのは」
雪丸もそろそろと寄ってきて、写真を見上げた。
「これ、ここ?」
「そうです」
「まだ、きれい」
「今もきれいです」
乃々花が言うと、雪丸が少しだけ笑う。
お紺は写真から目を離さずに言った。
「町の人、覚えてたのね」
「はい」
「そう」
それだけしか言わなかったけれど、その声には、思ったより長い時間が含まれているようだった。
朔弥は写真を乃々花に返した。返す時の手つきは、受け取った時より迷いがなかった。
「紙と筆を出せ」
乃々花が顔を上げる。
「今日聞いたこと、忘れないうちに書いておけ」
その言い方に、思わず少し笑いそうになる。
命令口調なのに、実質は賛成だった。
「はい」
「あとで見せろ」
「分かりました」
縁側の板の上に、夕方の光が細長く差していた。
乃々花は写真を抱え直しながら、その光の中に座る月見荘の住人たちを見た。朔弥、お紺、雪丸。少し離れた廊下の向こうでは、たぶんたま吉が昼寝から起ききらない顔でこちらをうかがっている。
町の中で記憶されていた長屋。
今もここで息をしている長屋。
その二つが、ようやくひとつにつながった気がした。
なくしたくない、と思った。その気持ちはもう、なんとなくではなかった。
そのあと乃々花は、台所の隅の小机に紙を広げた。
買い物袋から昆布と煮干しを出し、写真は汚れないように厚紙にはさんだまま脇へ置く。筆を取って、昼のあいだに聞いたことを一つずつ書き留めていく。
雨宿りをした女主人。荷車ごと軒を借りた魚屋の父。帰れない夜に、長屋の前で見つかった妹。
言葉はそれぞれ少しずつ違うのに、どれも同じ場所へ戻ってくる。
追い返さない。
急かさない。
恩を売らない。
書いているうちに、乃々花はふと手を止めた。
自分がこの長屋でしてきたことは、掃除や洗濯や台所の片づけだった。乱れた棚を整えて、凍った台所を使えるようにして、住人たちが少しだけ暮らしやすい形に直してきた。
でも、月見荘がずっとしてきたことは、たぶんそれだけではない。ここは昔から、行き場をなくした誰かが、帰る前に少しだけ息をつける場所だったのだ。
乃々花は、もう一度筆を持った。
月見荘は、町の中で忘れられていなかった。
はっきり名前を覚えていなくても、助けられた記憶だけは残っていた。
そこまで書いて、紙から顔を上げる。台所の向こう、開け放した廊下の先に、中庭の桜が見えた。風はほとんどないのに、葉先だけがかすかに揺れている。春にはあんなに強く咲く木が、今はただ静かに立っている。
来年の春。その言葉が、今度は前よりも少し輪郭を持って胸に浮かんだ。
あの木に花が咲く頃にも、この長屋がここにあってほしいと思う。
住んでいる者たちのためだけではなく、町のどこかで疲れた誰かが、またふとここへ辿り着けるように。
そんなふうに思ったのは、たぶんこれが初めてだった。
廊下の向こうで、朔弥の足音がした。
振り向くと、朔弥は何も言わず、机の上の紙を一度見て、それから中庭へ目を向けた。
「……書けたか」
「だいたいは」
「そうか」
短いやり取りだった。
けれど、沈黙は前より少しだけやわらかかった。
乃々花は筆を置き、乾きかけた墨を見つめた。
整えるというのは、ただ元に戻すことではない。今ここにある時間が、ちゃんと続いていける形にすることだ。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
夕暮れの光が、紙の上をゆっくり薄くしていく。
月見荘は今日も静かだった。けれどその静けさは、町から切り離されたものではなく、たしかにこの場所へ続いてきた時間の上にあるのだと、今は思えた。
乃々花は写真の入った厚紙をそっと閉じた。
残しておきたいものが、また一つ増えた気がした。




