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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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第十三章 人ではないものの病

 弱ったあやかしが長屋に運び込まれたのは、八月の終わりに差し掛かった夜のことだった。

 乃々花はその夜、長屋にいなかった。

 翌朝、いつものように門をくぐると、中庭の空気が違った。重い、というより、張り詰めている。住人たちが普段と違う動き方をしていた。お紺が廊下を早足で歩いていて、たま吉が珍しく縁側にいなかった。

「何かありましたか」

 お紺が振り返った。

「昨日の夜、たま吉が拾ってきた」

「拾ってきた?」

「弱ったあやかし。町の外れで倒れてたって。たま吉が朔弥を呼んで、とりあえず空き部屋に寝かせてる」

 乃々花は廊下の奥を見た。

「人間の医者には」

「診せられない。見えない人には見えないから、連れて行っても困るだけだし、こういうのは人間の医術が効くかどうかも分からないのよ」

「今の状態は」

「意識はある。でも動けない。何かに当てられたのか、力を使い果たしたのか、朔弥にもまだはっきり分からないって」

 乃々花は少し考えた。

「見てもいいですか」

「朔弥に聞いて」


 朔弥は空き部屋の前に立っていた。

 乃々花が来ると、一度見てから視線を戻した。

「昨夜のことを聞きました。見てもいいですか」

「人間に何ができる」

「分かりません。でも、見てから考えます」

 朔弥は少しの間黙っていた。

「騒ぐな」

「騒ぎません」

 引き戸が開いた。

 中には布団が敷いてあって、そこに何かが横たわっていた。

 最初、形がよく分からなかった。人のような輪郭だが、境界が曖昧で、見ようとすると少しずれる。でもよく目を凝らすと、小さな体が布団の中にある。子どもほどの大きさで、色が薄い。肌というより、夕暮れ前の空みたいな色をしていた。

 息をしていた。細く、浅く、でも確かに。

 乃々花はそっと近づいて、顔の側にしゃがんだ。

「名前は分かりますか」

「分からない。話せる状態じゃない」

「何を食べますか、こういう存在は」

「食べる、という概念が当てはまるかどうかも分からない」

「でも何かを必要としているはずです。弱っているなら、足りていないものがある」

 朔弥は答えなかった。

 乃々花は部屋を見回した。布団の他には何もない。空気が滞っている。湿気と、密閉された重さがある。

「窓を開けていいですか」

「外気に当てて大丈夫かどうか」

「閉め切っているより、少し空気を動かした方がいいと思います。人間でも、あやかしでも、空気の流れは大事なはずです」

「……好きにしろ」

 乃々花は窓をわずかに開けた。夏の終わりの風が、薄く入ってきた。

 横たわっているものが、かすかに動いた。顔の向きが変わった。ほんの少しだけ、でも確かに動いた。

「反応しています」

「見えている」

「では、もう少し考えさせて下さい」


 台所に戻って、乃々花は頭を整理した。

 相手が何者か分からない。食べるかどうかも分からない。人間の医術が効くかも分からない。

 でも、弱っている。何かが足りていない。

 何が足りないかを考えるより、何があれば安心するかを考える方が早いかもしれない。

 窓を開けたとき、動いた。風に反応した。

 空気、光、温度、音、匂い。

 弱ったものが何を求めるか、それは人間でもあやかしでも、根本は同じかもしれない。

 乃々花は棚を確認した。

 まず、部屋の空気を整える。次に、温度。夏の終わりで昼間は暑いが、夜は少し下がる。体が弱っているなら、温度の変化は負担になる。

 寝具を確認する必要がある。今の布団一枚では夜が寒いかもしれない。倉に予備の布団と薄い掛け布団があったはずだ。

 それから、匂い。

 弱ったものの側に、落ち着く匂いがあると違う。強い匂いではなく、薄い、自然な匂い。

 乃々花は棚の奥から、干した薬草の束を見つけた。久遠が何かに使っていたもので、先日整理したときに棚の端にまとめておいたものだ。

 ほんの少しだけ、部屋の隅に置けば、強すぎず薄すぎず、空気に馴染む。


 一つずつ、やれることをやった。

 まず部屋の掃除をした。空気が動きやすいように、余分なものをどける。床を拭く。窓を少し開けたまま、風の通り道を作る。

 次に寝具を替えた。倉から薄い掛け布団を出して、汗を吸いにくい素材のものを選ぶ。布団の下に一枚、薄い敷物を足して、床からの冷えを防ぐ。

 薬草を小さな袋に入れて、部屋の隅に置いた。

 灯りは落とした。夏の昼間の日差しは強すぎる。障子を半分閉めて、光を柔らかくする。

 それから湯を沸かした。

 温かいものを飲ませることができるかどうかは分からない。でも、湯気だけでも空気に湿り気が出る。乾いた空気より、少し潤いのある空気の方が、呼吸が楽になる場合がある。

 土鍋に湯を張って、部屋の隅に置いた。蓋を少しずらして、湯気が出るようにする。

 朔弥がその様子を見ていた。

「何をしている」

「環境を整えています」

「意味があるか」

「あるかどうかは、やってみないと分かりません。でも、何もしないよりはいいと思います」

 朔弥は返事をしなかった。

 でも止めなかった。


 昼を過ぎたころ、横たわっているものが少し動いた。

 お紺が気づいて乃々花を呼んだ。急いで部屋に入ると、体の向きが変わっていた。さっきまで天井を向いていたのが、横向きになっていた。自分で動いたらしい。

 そして、音がした。

 細い、かすかな音だった。言葉ではない。でも、何かを求めている音だった。

「水ですか」

 乃々花は湯冷ましを用意した。人間の飲み物が合うかどうかは分からないが、試してみなければ分からない。

 小さな器に少しだけ注いで、口元に近づけた。

 しばらく何も起きなかった。

 でも、やがて、器の中の水がわずかに減った。飲んだのかどうかも分からないくらい、少しだけ。でも減っていた。

「飲みました」

 お紺が「本当に?」と覗き込んだ。

「少しだけですが」

「すごいわね」

「飲めるなら、続けましょう。少しずつ、時間をおいて」


 その日は帰らなかった。

 夕方になって乃々花は帰り支度をしようとしたが、お紺が「今夜くらいいてもいいんじゃない」と言った。朔弥は何も言わなかったが、乃々花が支度をやめても止めなかった。

 夜の当番を決めた。

 乃々花が前半、朔弥が後半。住人たちは各自の部屋で休む。何かあれば呼ぶ。

 夜の長屋は静かだった。

 乃々花は部屋の前の廊下に座って、引き戸を少し開けたまま中の様子を見ていた。時々中に入って、湯冷ましを替えて、布団の具合を確認する。湯気の出る土鍋の水を足す。薬草の匂いを確認する。

 月が出ていた。

 障子越しに、薄く光が差し込んでいる。

 横たわっているものの輪郭が、朝より少しだけはっきりしていた。気のせいかもしれないが、形が定まってきているような気がした。

 深夜近くに、朔弥が廊下に来た。

「交代する」

「もう少しいます」

「眠れないのか」

「眠くはないので」

 朔弥は廊下の反対側に腰を下ろした。交代するつもりがないなら、では一緒にいる、という意味らしかった。

 二人で廊下に座って、静かな時間が流れた。

 乃々花は少し経ってから、声を出した。

「こういうことは、よくあるんですか」

「何が」

「弱ったあやかしが、ここへ来ることが」

「たまにある。この辺りで行き場をなくしたものが、ここを見つけることがある」

「なぜここを見つけられるんですか」

「長く守られている場所は、そういうものを引き寄せることがある。安全だと分かるらしい」

 乃々花は部屋の中を見た。

「朔弥さんがずっとここを守ってきたから、こういう存在が来られるんですね」

「別に俺がどうこうという話ではない」

「そうですか」

「ただ、ここが長く在り続けているというだけだ」

 長く在り続けている、という言葉を、乃々花はしばらく転がした。

 百年以上、同じ場所に在り続ける。季節が変わって、人が変わって、町が変わっても、ここだけは変わらずにある。

 それは、朔弥が変わらずにいたからだ。

 でも、それを言うと「関係ない」と返されそうなので、言わなかった。


 夜中の三時ごろ、横たわっているものが声を出した。

 言葉ではなかった。でも、はっきりと聞こえた。

 朔弥が立ち上がって、部屋に入った。乃々花も続いた。

 布団の中のものが、目を開けていた。

 色の薄い目だった。夕暮れ前の空みたいな色の肌と同じ、薄い色の目。焦点が定まっていないが、確かに開いている。

 朔弥が何かを言った。乃々花には聞こえたが、言葉として理解できなかった。人間の言葉ではない何かだった。

 横たわっているものが、かすかに反応した。

 また音がした。今度は少し違う音だった。問いかけに答えているような音。

「何と言っているんですか」

「どこから来たか聞いた。山の方から来たらしい。長く歩いて、力が尽きた」

「怪我をしているわけではないんですか」

「力が尽きている。休めば戻る。ここに少しいれば落ち着く」

「なら、時間が一番の薬ですね」

「そうなる」

 乃々花は湯冷ましを替えた。新しい湯冷ましを口元に近づけると、今度は前より多く飲んだ。

「よかった」

 思わず声に出た。

 朔弥が少し見た。

「安心するのが早い」

「飲めるようになったのは、進展です。安心してもいいと思います」

「まだ回復したわけではない」

「でも、さっきより良くなっています。今より良くなることの積み重ねが、回復です」

 朔弥は何も言わなかった。

 でも、横たわっているものを見る目が、少しだけ柔らかかった。


 夜明け前に、乃々花はうとうとした。

 廊下の壁にもたれて、目を閉じていた。眠るつもりはなかったが、体が先に折れた。

 どのくらい経ったか分からない時間に、気配がした。

 目を開けると、朔弥が廊下の向こうに座っていた。

 自分の方に薄い布を掛けてくれていた。いつの間にか。

 乃々花は少し驚いて、それから小さく礼を言おうとした。

 朔弥は前を向いたまま、気づいていないふりをしていた。

 明らかに気づいているが、気づいていないふりをしていた。

 乃々花はそのまま何も言わなかった。

 礼を言えない代わりに、またそっと目を閉じた。

 朝になれば、また仕事が始まる。弱ったあやかしの世話が続く。今日やれなかったことが残っている。

 でも今は、廊下の向こうに気配があって、薄い布が肩にある。

 それで十分だった。


 三日後、弱ったあやかしは起き上がれるようになっていた。

 小さな体で、部屋の中に座っていた。夕暮れ前の空みたいな色が、少し濃くなっていた。

 乃々花が湯冷ましを持っていくと、目で追ってきた。受け取って、自分で飲んだ。

「良かったです」

 声をかけると、目が合った。

 言葉は通じているのかどうか分からない。でも、目が合った瞬間、かすかに表情が動いた。

 感謝しているのか、ただ反応しているのか、判断はできない。でも、三日前の焦点の定まらない目とは違っていた。

 朔弥が部屋の入り口に立っていた。

「もう少ししたら動けるようになる。山に戻れるだろう」

「そうですか。それならよかった」

「おまえがやったことが役に立ったかは分からないが」

「役に立ったかどうかより、やれることをやったので、それでいいです」

 朔弥は少し間を置いた。

「……そうか」

 それだけ言って、廊下へ戻った。


 夕方、乃々花が帰り支度をしていると、お紺が廊下で待っていた。

「ちょっといい?」

「何ですか」

「朔弥がね、今日の昼、一人で結界の確認をしてた」

「結界の確認は普段からしていませんか」

「してるけど、今日は様子が違った。久遠に聞いたら、最近少し弱まってるって」

 乃々花は手を止めた。

「弱まっている、というのは」

「外からの穢れが入りやすくなってるってこと。今回みたいに弱ったあやかしが来るのも、そのせいかもしれない。本来ならもっと手前でこちらの場所を見つけられるはずなのが、弱まってるから見つけにくくなってて、それで力が尽きるまで歩いてしまった可能性がある」

「結界が弱まっている原因は」

「さあ。久遠も今は分からないって。でも朔弥が一人で無理をしてるのは確かだと思う」

 乃々花は廊下の奥を見た。

「朔弥さんに聞きましたか」

「聞いたら「問題ない」って言った」

「問題ないと思いますか」

「思わない」

 お紺は腕を組んで、少し表情を固くした。

「あの人、自分のことは絶対に言わない。痛くても疲れても、ここを守ることが先で、自分は後回し。ずっとそう」

「百年以上、そうしてきたんですね」

「そう。だから誰も止められない」

 乃々花は少し考えた。

「今すぐどうこうできる話ではないですが、気にかけておきます」

「それだけでいい。あなたが気にかけてることは、あの人にも伝わってると思うから」

 お紺は少し笑った。いつもの明るい笑い方ではなく、少し疲れたような、でも温かい笑い方だった。


 帰り道、乃々花は朔弥のことを考えた。

 結界が弱まっている。外からの穢れが入りやすくなっている。それを一人で引き受けながら、「問題ない」と言っている。

 百年以上、そうしてきた。

 長屋の住人たちの世話をして、町の外れの悪しきものを払って、弱ったあやかしを引き受けて、結界を保ち続けて。

 全部、一人でやってきた。

 一人ではなかった時期があった、と久遠は言った。ふじという人がいた。でも、その人は百年前にいなくなった。

 それからずっと、一人だった。

 乃々花は石畳を歩きながら、空を見た。夏の終わりの空は、まだ明るさが残っていた。でも、夕暮れの色が少しずつ広がっている。

 自分にできることは何か。

 家事を整えることはできる。部屋を掃除して、食事を作って、洗濯物を片づけることはできる。

 でも、結界を保つことはできない。穢れを払うことはできない。百年分の疲れを肩代わりすることはできない。

 できないことが多い。

 でも、できることは続ける。

 それしか、今は言えなかった。

 月見荘の灯りが、遠ざかっていく。

 明日もここへ来る。それだけは決まっていた。


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