第十四章 再就職の話
三沢から連絡が来たのは、九月に入って最初の週だった。
メールだった。簡潔な文面で、先日お伝えした件についてご検討いただけましたでしょうか、とあった。返信を急ぐつもりはないが、月内には方向性を教えてほしい、とも。
乃々花はそのメールを、朝の通勤途中に読んだ。
読んで、鞄にしまって、月見荘の門をくぐった。
台所に入って湯を沸かしながら、メールの文面を頭の中で繰り返した。先日お伝えした件。再就職の話だ。安定した職場、まともな条件、人間の世界へ戻るための足がかり。
三沢は嘘を言っていない。条件はいいだろうし、不動産の仕事で有能な三沢が紹介する職場なら、それなりにしっかりしているはずだ。
問題は、そこではなかった。
その日の昼、お紺が台所に顔を出した。
いつものように軽い足取りで入ってきて、棚からお茶の葉を取り出した。自分で淹れるつもりらしい。
「あら、なんか難しい顔してる」
「そうですか」
「そうよ。眉間にしわが寄ってる。何か悩んでるでしょ」
「少し考えていることがあります」
お紺は湯呑みを二つ出して、一つを乃々花の方に置いた。
「話す?」
「お紺さんに話して、いい内容かどうか分からなくて」
「あたしに話せないことは誰にも話せないわよ、たぶん」
それは、どういう意味での自信なのか判断しかねたが、間違っていない気もした。
「再就職の話が来ています。先日来た三沢さんから」
お紺の手が少し止まった。
「あの人から」
「はい。先月声をかけてもらっていて、今月中に返事をしてほしいと」
「どんな仕事?」
「詳細はまだですが、条件はいいと言っていました。安定していて、継続的な収入がある」
お紺はお茶を淹れながら、何も言わなかった。
いつもならすぐに何か言う人が、黙っている。
「お紺さん」
「なに」
「正直に言って下さい」
「何を」
「どう思うか」
お紺はお茶を一口飲んで、湯呑みをゆっくり置いた。
「ここにいる理由を、誰かのためだけにするな」
静かな言い方だった。
からかいがなかった。いつもの軽さがなかった。
「え?」
「あなたが悩んでるのは、ここを離れることで誰かが困るから、でしょ。雪丸とか、長屋の存続とか、そういうことを理由にしてる部分があると思う」
乃々花は少し黙った。
「……否定できません」
「でしょ。それはね、綺麗に見えて、実はずるい理由なの」
「ずるい?」
「自分がどうしたいかを、誰かのせいにしてる。誰かのために残るなら、その誰かがいなくなったときに残る理由がなくなる。それって本当にここにいるって言えないじゃない」
乃々花は湯呑みを持ったまま、考えた。
「じゃあ、どういう理由なら正しいんですか」
「正しいかどうかじゃない。あなた自身がどうしたいか、よ。ここにいたいのか、外に出たいのか。それだけ」
お紺は立ち上がった。
「あたしはあなたにいてほしいと思ってる。でも、それはあたしの都合。あなたの答えはあなたが出すもの」
台所を出る前に、一度振り返った。
「ただ一つだけ言うと」
「はい」
「あなたがここに来てから、長屋が変わった。物だけじゃなくて、空気が変わった。それはあなたじゃないとできなかったと思う」
それだけ言って、出て行った。
夕方近く、雪丸が台所に来た。
いつものように入り口に立って、乃々花の様子を確認してから入ってくる。
「今日は難しい顔してる」
「お紺さんにも言われました」
「何かあった?」
「少し考えていることがあります」
雪丸は乃々花の隣に腰を下ろした。台所の隅の、いつもの場所に。
「ののかさん、どこかに行くの?」
乃々花は少し驚いた。
「なぜそう思うんですか」
「なんとなく。難しい顔がそういう顔だから」
「……可能性として、そういう話が来ています」
雪丸は少しの間黙った。
台所の窓から、夕方の風が入ってきた。雪丸の白い髪が少し揺れた。
「ぼく、ののかさんにいてほしい」
「ありがとう」
「でも」
「でも?」
「ぼくがいてほしいって思うことと、ののかさんがどうしたいかは、違うって分かってる」
乃々花は少し驚いた。お紺と同じことを言った。
「雪丸くん、賢いですね」
「違う。朔弥に昔言われた。好きなものを縛り付けることはできない、って」
朔弥が、そういうことを言ったのか。
乃々花はしばらくその言葉を置いた。
「でも、いてほしいとは思う」
「はい」
「来年の祭りも、一緒に行きたい」
「……覚えてたんですね」
「覚えてる。ののかさんが言ったでしょ。来年のことは来年考えましょうって」
雪丸は少し笑った。
「来年、ここにいたら、また一緒に行って。いなかったら、しょうがない。でも、いてほしい」
雪丸の寂しがり方は静かで、真っすぐで、だからこそ重かった。
たま吉は夕方、縁側で魚の骨をしゃぶっていた。
乃々花が横を通ると、特に見もせずに言った。
「どうせ仕事の話とか、ここ出るとか、そういうことで悩んでるんだろ」
「どうして分かるんですか」
「顔に出てる。あと、お紺が午後からずっとそわそわしてた」
お紺のそわそわが乃々花のことだとすぐに結びつけるあたり、たま吉なりに長屋の空気を読んでいた。
「再就職の話が来ています」
「ふうん」
「どう思いますか」
「知らん」
「知らん、ですか」
「おまえが決めることを、なんで俺が思わなきゃいけない」
たま吉は魚の骨を縁側の端に置いた。
「ただ」
「はい」
「台所の飯がなくなるのは困る」
それだけ言って、また骨をしゃぶり始めた。
乃々花は少しの間、縁側に立っていた。
「それだけですか」
「それだけだ」
「たま吉くんらしいですね」
「余計なお世話だ」
でも、たま吉の耳が少し動いた。猫耳が、わずかにそそけ立った。
乃々花はそれ以上言わなかった。
久遠には自分から話しかけた。
夕方、針仕事の手が止まる時間を見計らって、引き戸をノックした。
「入れ」
久遠の部屋はいつも通り整っていた。針仕事の道具が膝の上にある。
「仕事の話が来ています。月見荘の外の、人間の世界での話です」
久遠は針を置いた。
「聞いている」
「お紺さんから?」
「お紺は話さない。ただ、そういう時期が来るとは思っていた」
乃々花は文机の横に腰を下ろした。
「久遠さんはどう思いますか」
「私の意見を聞いてどうする」
「参考にします」
久遠は少し考えた。
「あなたが来てから、この長屋は変わった。物理的に整ったことだけでなく、住人たちの様子が変わった。それはあなたがもたらしたものだ」
「でも、私がいなくなっても、すぐに元に戻るわけではないですよね」
「そうだ。一度変わったものは、簡単には戻らない。縫い目と同じで」
「では、私がいなくなっても大丈夫、ということですか」
「そういう意味ではない」
久遠は窓の外を見た。
「大丈夫かどうかと、いてほしいかどうかは、別の話だ。私はあなたにいてほしいと思う。ただ、それをあなたの答えに混ぜ込むべきではないとも思う」
みんな、同じことを言う。
自分がどうしたいかを、自分で決めろ、と。
「久遠さんは、長くここにいますね」
「そうだ」
「後悔したことはありますか、ここにいることを」
久遠は少し間を置いた。
「ない」
「それは、ここにいると決めたからですか」
「ここにいることが、私の在り方だからだ。決めたというより、これが自分だと知っている」
乃々花はその言葉を、しばらく持ち歩いた。
自分の在り方。
乃々花の在り方は、何だろう。
家事をする人、というのは職業だ。在り方ではないかもしれない。
放っておけない人、というのが、一番近いかもしれない。
でもそれは、どこでもできることではないのか。月見荘でなくても、別の場所でも、放っておけない気持ちは持てるはずだ。
「久遠さん」
「なに」
「自分の在り方が分かったとき、それは突然分かるものですか、それとも少しずつですか」
「人によるだろう」
「久遠さんはどちらでしたか」
「私は最初から知っていた。生まれたときから針があったから」
「うらやましいですね」
「そうかもしれない。だが、探す時間があることは、探せる余地があるということでもある」
久遠は針を持ち直した。
「焦ることはない。ただ、答えが出たときに躊躇するな」
朔弥に話したのは、一番最後だった。
夕方の遅い時間、縁側に一人でいる朔弥を見つけた。
中庭を見ている。いつもの座り方だった。
「少しいいですか」
「何だ」
乃々花は縁側の端に腰を下ろした。朔弥から少し距離を置いて。
「仕事の話があります。三沢さんから、再就職の紹介を受けています」
朔弥は中庭を見たままだった。
「月内に返事が必要で、まだ決めていません」
「そうか」
「どう思いますか」
朔弥は少しの間、黙っていた。
乃々花は返事を待った。朔弥が何かを言うとき、間が必要なのは知っている。
「戻れる場所があるなら、戻れ」
声のトーンが変わっていなかった。いつもの、感情の乗らない言い方だった。
でも、乃々花の胸に何かが刺さった。
戻れ。
追い出しているのか、心配しているのか、判断がつかない言い方だった。でも、どちらにしても、残れとは言わなかった。
「……朔弥さんは、私にいてほしくないんですか」
「そういう話ではない」
「では、どういう話ですか」
「人間には人間の世界がある。ここは人間の場所ではない」
「でも今、私はここにいます」
「一か月の約束で来た」
「一か月はとっくに過ぎています」
朔弥は返事をしなかった。
乃々花は少し待ってから、続けた。
「朔弥さんが私に出て行ってほしいなら、そう言って下さい。はっきり言ってくれれば、考えます」
「出て行けとは言っていない」
「では、戻れとはどういう意味ですか」
「……」
「朔弥さん」
「安全な場所を確保しておけ、という意味だ」
声が少し低くなっていた。
安全な場所。
乃々花はその言葉の意味を考えた。長屋の存続問題がある。結界が弱まっている。いつかここにいられなくなる可能性がある。そのとき、乃々花が戻れる場所を持っていなければ困る。
そういう意味か。
「……先のことを、心配しているんですか」
「余計なことを言うな」
「余計じゃないと思います」
「おまえには関係ない」
「関係あります」
少し強く言った。朔弥が少し動いた。
「私がここにいる間は、関係あります。ここの問題は、私の問題でもあります」
「そういう話をしているのではない」
「では何の話ですか」
朔弥は中庭から視線を動かさなかった。
乃々花は待った。
「……おまえがここにいることに慣れてきている」
低い声だった。
「住人たちが慣れている。それが」
朔弥は続けなかった。
続けなかったが、言いたかったことの輪郭だけは、乃々花に伝わった。
住人たちが慣れている。だから、いなくなったときの空白が大きくなる。だから、早いうちに戻れる場所を確保しておいた方がいい。
住人たちが、と言ったが、それだけではないかもしれない。
乃々花はそれを口に出さなかった。
「分かりました」
「何が分かった」
「朔弥さんが何を心配しているか、だいたい」
朔弥は返事をしなかった。
「でも、私が出す答えは、私が出します。朔弥さんの心配に合わせた答えを出すつもりはありません」
「勝手にしろ」
「はい、そうします」
乃々花は立ち上がった。
縁側を離れかけて、一度止まった。
「朔弥さん」
「何だ」
「戻れ、と言ってくれたのは、私のことを考えてくれたからだと思っています。ありがとうございます」
朔弥は何も言わなかった。
でも、中庭を見る目が、少しだけ揺れた気がした。
帰り道、乃々花はメールのことを考えた。
三沢への返事。月内に出す必要がある。
みんなが言った。自分がどうしたいかを、自分で決めろ、と。
朔弥は言った。戻れる場所があるなら戻れ、と。
それは、ここにいてはいけないという意味か。それとも、ここにいるなら覚悟を持っていろ、ということか。
どちらにも取れた。
乃々花は石畳を歩きながら、自分の気持ちを確かめようとした。
三沢の言う職場に行きたいか。
答えはすぐに出なかった。
でも、月見荘を離れたいか、と問うと。
答えはすぐに出た。
離れたくない、という気持ちが、言葉より先にあった。
理由を誰かのせいにしてはいけない、とお紺は言った。雪丸のためでも、長屋の存続のためでもなく、自分がどうしたいかで決めろ、と。
自分は、ここにいたい。
それは分かった。
でも、その気持ちをどう言葉にするか、まだ見つかっていなかった。
空を見上げた。九月の空は高くて、夏より少し色が薄い。
答えは、もう少しだけ先にある気がした。
でも、遠くはなかった。
月見荘の灯りを思い出しながら、乃々花は歩き続けた。




