第十五章 長屋が泣く夜
嵐の予報は出ていた。
でも、天気予報が言っていたより、はるかに早く来た。
昼過ぎから空が暗くなり始めて、三時には風が出た。五時には雨が来て、日が落ちるころには嵐になっていた。
乃々花はその日、長屋にいた。
偶然ではなかった。朝から空の様子がおかしかったので、帰らずにいた。理由を聞かれれば「嵐に備えて準備がある」と答えられる。それは本当のことだ。雨戸の確認、水の確保、食材の整理。嵐の前にやっておくべき作業はある。
でも、本当のことが全てではなかった。
何となく、この夜を長屋の外で過ごしたくなかった。
風が強くなるにつれて、長屋の空気が変わり始めた。
最初に気づいたのは、雪丸の様子だった。
夕方から落ち着きがなかった。台所と自室を行き来して、乃々花のそばに来ては離れ、また来る。白い髪が乱れていて、目が少し泳いでいた。
「大丈夫ですか」
「……分からない。何か、変な感じがする」
「変な感じ?」
「外から、何かが来る感じ」
その言葉で、乃々花は少し身構えた。
雪丸の感覚は当たることが多い。人間よりも敏感に、空気の変化を読む。
「朔弥さんに伝えますか」
「朔弥はもう知ってると思う。さっきから外を見てた」
乃々花は縁側へ向かった。
朔弥は中庭に出ていた。雨の中に立って、空を見上げている。着物が濡れているが、気にしていない。その横顔が、いつもより硬かった。
「朔弥さん」
「中に入れ」
「何か来ますか」
「嵐に乗って来るものがある。今夜は普通の嵐ではない」
「結界は」
「保てる。だが、隙間ができる」
隙間、という言葉の重さを、乃々花は受け取った。
先日お紺から聞いた話が戻ってくる。結界が弱まっている。外からの穢れが入りやすくなっている。
「住人たちに伝えますか」
「伝えるより、落ち着かせておけ。動揺すると隙が増える」
「分かりました」
朔弥は中庭に立ったまま、空を見続けていた。
乃々花は長屋の中へ戻った。
嵐が本格的になったのは、夜の八時過ぎだった。
雨戸が鳴っている。風が廊下の隙間から入り込んで、灯りが揺れる。外の音が、水と風と、もう一つ別の何かが混ざって聞こえてきた。
お紺が廊下に出てきた。
顔色が悪かった。いつもの華やかさが消えて、どこか遠い目をしていた。
「お紺さん、どうしましたか」
「……変な夢を見た。ちょっと寝てたんだけど、変な夢」
「部屋に戻りましょう。こちらへ」
「待って、まだ頭がぼんやりして」
お紺の手を取ると、冷たかった。夏の終わりなのに、指先が冷えている。
「どんな夢でしたか」
「……忘れられていく夢。みんなにあたしのことが見えなくなって、呼んでも聞こえなくなって」
乃々花はお紺の手を両手で包んだ。
「今、私に見えています。声も聞こえています」
「分かってる。でも、夢がまだ残ってて」
「こちらで一緒にいましょう。一人でいない方がいいです」
お紺を廊下の端に連れてきて、壁に背をつけて座らせた。
そのとき、雪丸の部屋の方から音がした。
低い、何かが軋むような音。それから、気温が一気に下がった。
「雪丸」
乃々花は走った。
雪丸の部屋の引き戸を開けると、冷気が吹き出してきた。
雪丸が部屋の真ん中に立っていた。目が焦点を失っていた。白い髪が逆立つように広がって、床に霜が張っていた。壁に氷が走っている。
「雪丸くん」
呼んでも反応がなかった。
乃々花は部屋に入った。足元が滑る。床の氷が、入るたびに広がっていく。
「雪丸くん、私です。乃々花です」
近づきながら呼び続けた。
雪丸の目が、少しだけ動いた。
「……どうせぼくは迷惑をかける。いない方がいい」
「そんなことはありません」
「でも、また、こうなってしまう。ぼくがいると壊れる。凍る。みんなが困る」
「今、困っていません」
「嘘だ。凍ってる。見えてる」
乃々花は立ち止まった。
反論しても届かない。これは言葉の問題ではない。何かが雪丸の恐れを刺激していて、自分でも止められない状態になっている。
乃々花は膝をついた。
雪丸と同じ目の高さになって、まっすぐ見た。
「雪丸くん、手を出して下さい」
「……なんで」
「いいから、出して下さい」
雪丸がためらいながら、右手を差し出した。
乃々花はその手を、両手で包んだ。
冷たかった。氷のように冷たかった。でも、包んだ。
「痛い?」
「……ちょっと、冷たいくらい」
「よかった。そのままでいて下さい」
雪丸の目が、少しずつ焦点を取り戻してきた。
「……ののかさん、手が冷たくなる」
「なっても大丈夫です」
「でも」
「ここにいます。どこにも行きません」
床の霜が、少しずつ引いた。
壁の氷が、端から溶け始めた。
時間がかかったが、雪丸の目が戻ってきた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいです。外から来た何かに当てられただけです。あなたのせいじゃない」
「本当に?」
「本当です」
雪丸が乃々花の手を、強く握り返した。
廊下に戻ると、たま吉が縁側から入ってきた。
顔に傷があった。左の頬に引っかき傷が三本。
「たま吉くん、それは」
「外に出てた。気になって」
「出るなと言いましたよね」
「言ってない」
「言っていませんでしたか。でも嵐の夜に外に出るのは」
「向こうの角に小さいのがいた。払ってきた」
「払った?」
「できる。これくらいなら」
たま吉は顔の傷を気にする様子もなく、縁側に腰を下ろした。
「でも中くらいのが、まだ外にいる。朔弥が対処してるとこだ」
乃々花は廊下の奥を見た。
朔弥は、まだ外にいる。
「傷の手当てをします。動かないで下さい」
「いい」
「よくないです。ここに座っていて下さい」
たま吉は文句を言いながらも、動かなかった。
乃々花は救急箱を取ってきた。この長屋には、いつの間にか人間用の応急処置の道具が揃っていた。最初に確認したときはなかったので、乃々花がいつかの買い出しのときに買ってきたものだ。
「しみますよ」
「分かってる」
消毒をして、傷を拭く。たま吉は顔をしかめたが、声は出さなかった。
「たいしたことはない」
「そう見えますが、きちんと処置します」
「過保護だ」
「仕事なので」
処置をしながら、乃々花は外の音を聞いていた。
風と雨の音。それから、もう一つの音。
人間の言葉では説明できない音が、外から時々聞こえた。それが遠ざかるたびに、空気が少し楽になった。
朔弥が何かをしている。
お紺を落ち着かせて、雪丸に温かいものを飲ませて、たま吉の傷の処置をして、久遠の部屋の様子を確認する。
久遠は部屋の中で静かに針仕事をしていた。
「外の様子は分かりますか」
「大体は。朔弥が対処している」
「大丈夫ですか、彼は」
「今夜は手こずっているだろう。結界が弱い分、力を多く使う」
「何かできることはありますか」
「今あなたがやっていることが、一番の支えになっている」
「住人たちを落ち着かせることが?」
「住人たちが安定していれば、朔弥の結界への負担が減る。恐れや乱れは、穢れに力を与える。あなたが中を整えることで、朔弥の外の仕事が楽になる」
乃々花は少しの間考えた。
家事で生活を整えることが、この夜の長屋を支えている。
大げさな話ではなかった。ただ、一つずつやれることをやることが、今夜の長屋に必要なことだった。
「分かりました。続けます」
「あと一つ」
「はい」
「灯りを集めなさい。暗いところに隙間ができる。明るくしておけ」
乃々花は長屋中の灯りを集めた。
行灯、蝋燭、懐中電灯、古い石油ランプ。使えるものを全部出して、廊下と共用部に置いた。
一人で運べないものは、雪丸に手伝ってもらった。雪丸はもう落ち着いていて、乃々花の後ろをついて歩きながら、小さな灯りを丁寧に運んだ。
長屋の廊下が、橙色の光で満ちた。
どこにも暗がりがなくなった。隅まで光が届いている。
「きれい」
雪丸が言った。
「そうですね」
「こういうの、好き」
「嵐の夜に言うことじゃないかもしれませんが、私も好きです」
雪丸が小さく笑った。
お紺が廊下に出てきて、灯りの並んだ廊下を見た。
「なんか、お祭りみたいね」
「お祭りではないですが」
「でも、きれい」
たま吉が縁側から覗いた。
「明るいな」
「久遠さんに言われました。暗いところに隙間ができると」
「賢いことを言う」
「久遠さんが言ったんです」
たま吉は縁側に戻ったが、今夜は外には出なかった。
夜の十一時過ぎ、外の音が変わった。
嵐の音は続いているが、もう一つの音が聞こえなくなった。
乃々花は廊下に立って、外を感じた。
空気が変わっている。重さが引いている。
それから、雨音の中に足音が混じった。
中庭から、廊下へ入ってくる足音。
朔弥だった。
着物が濡れ切っていた。髪がほどけて、顔に張り付いていた。普段の整った様子が、今夜は崩れていた。
廊下に入ったところで、足が止まった。
灯りに満ちた廊下を見た。
住人たちを見た。お紺が廊下の端に座っていた。たま吉が縁側にいた。雪丸が廊下の真ん中に立っていた。久遠の部屋から光が漏れていた。
それから、乃々花を見た。
「終わったか」
乃々花が聞いた。
「……ああ」
声が、いつもより低かった。力を使い果たした後の、薄い声だった。
「座って下さい」
「大丈夫だ」
「大丈夫に見えません。座って下さい」
朔弥は少しの間立っていたが、廊下の端に腰を下ろした。
乃々花は急いで台所へ行った。
湯を沸かす時間がない。保温しておいた番茶があった。濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい温度になっていた。
湯呑みに注いで、盆に乗せて戻った。
朔弥の前に置いた。
「飲んで下さい」
「……」
「飲んで下さい」
朔弥は湯呑みを手に取った。両手で持った。
一口飲んで、少し目を閉じた。
乃々花はその横に、少し離れて腰を下ろした。
雪丸が反対側に来て、朔弥の隣に座った。
お紺が廊下を歩いてきて、朔弥を一度見て、何も言わずに向かいの壁に背をつけた。
たま吉が縁側から移動して、廊下の端に体を折りたたんだ。
誰も何も言わなかった。
嵐の音だけが、外で続いていた。
でも、廊下は静かで、明るかった。
しばらくして、朔弥が口を開いた。
「結界が、予想より早く弱まっている」
静かな声だった。報告するような言い方だった。
「今夜程度なら対処できる。だが、このまま続けば」
「続けば?」
「いずれ、対処しきれない夜が来る」
誰も何も言わなかった。
乃々花は膝の上に手を置いたまま、朔弥の横顔を見た。
今夜初めて、朔弥が弱ったように見えた。強くて、冷静で、百年以上この場所を守ってきた人が、今夜は廊下に腰を下ろして、湯呑みを持っている。
弱い、というのとは違う。でも、限界というものが確かにある、ということが、今夜初めて見えた。
「朔弥さん」
「何だ」
「一人で全部しなくていいです」
朔弥が乃々花を見た。
「何を言っている」
「今夜、私は住人たちを落ち着かせて、灯りを集めて、食事の準備をしていました。それが朔弥さんの結界の負担を減らす、と久遠さんが言っていました」
「それは」
「私にできることは、家事を整えることです。でも、それが今夜の長屋を支えていたなら、私はここにいた意味があります」
朔弥は返事をしなかった。
「私は人間だから、結界を保つことはできません。穢れを払うこともできません。でも、住人たちを落ち着かせることはできます。灯りを集めることはできます。温かい茶を用意することはできます」
「……」
「一人でなくていいです。できることが違っても、一緒にやることはできます」
朔弥はしばらく湯呑みを見ていた。
答えなかった。
でも、湯呑みをもう一度口に運んだ。
それが答えだと、乃々花は思った。
夜中に、嵐が峠を越えた。
風が弱くなって、雨の音が少し穏やかになった。
住人たちは廊下で眠り始めていた。雪丸は壁に背をつけたまま、目を閉じていた。お紺は膝を抱えて、うとうとしていた。たま吉は器用に廊下で丸くなっていた。
久遠だけが部屋の灯りをつけたまま、針仕事を続けていた。
朔弥は廊下に座ったまま、目を閉じていた。眠っているのか、意識を落ち着けているのか、判断がつかなかった。
乃々花は廊下の灯りを少しずつ落とした。
全部は消さない。久遠の言葉の通り、完全に暗くはしない。でも、眠るには少し明るすぎた。
一つ、また一つと、灯りを落としながら廊下を歩いた。
最後の一つを落とす前に、朔弥の前を通った。
朔弥の目が、薄く開いていた。
眠っていなかった。
「まだいるのか」
「もう少しいます」
「帰らなくていいのか」
「今夜は帰りません」
朔弥は何も言わなかった。
乃々花は最後の灯りを一つだけ残した。廊下の端に、小さな灯りが一つ。それだけが、橙色に燃えていた。
その灯りの側に腰を下ろして、壁に背をつけた。
外の嵐が、少しずつ遠くなっていく。
廊下は静かで、温かかった。
長屋を守りたい、という気持ちが、今夜初めて、言葉より先に体の中にあった。
守りたい、という気持ちが、理由より先にあった。
灯りを見ながら、乃々花はそのまま、夜の終わりを待った。




