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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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15/22

第十五章 長屋が泣く夜

 嵐の予報は出ていた。

 でも、天気予報が言っていたより、はるかに早く来た。

 昼過ぎから空が暗くなり始めて、三時には風が出た。五時には雨が来て、日が落ちるころには嵐になっていた。

 乃々花はその日、長屋にいた。

 偶然ではなかった。朝から空の様子がおかしかったので、帰らずにいた。理由を聞かれれば「嵐に備えて準備がある」と答えられる。それは本当のことだ。雨戸の確認、水の確保、食材の整理。嵐の前にやっておくべき作業はある。

 でも、本当のことが全てではなかった。

 何となく、この夜を長屋の外で過ごしたくなかった。


 風が強くなるにつれて、長屋の空気が変わり始めた。

 最初に気づいたのは、雪丸の様子だった。

 夕方から落ち着きがなかった。台所と自室を行き来して、乃々花のそばに来ては離れ、また来る。白い髪が乱れていて、目が少し泳いでいた。

「大丈夫ですか」

「……分からない。何か、変な感じがする」

「変な感じ?」

「外から、何かが来る感じ」

 その言葉で、乃々花は少し身構えた。

 雪丸の感覚は当たることが多い。人間よりも敏感に、空気の変化を読む。

「朔弥さんに伝えますか」

「朔弥はもう知ってると思う。さっきから外を見てた」

 乃々花は縁側へ向かった。

 朔弥は中庭に出ていた。雨の中に立って、空を見上げている。着物が濡れているが、気にしていない。その横顔が、いつもより硬かった。

「朔弥さん」

「中に入れ」

「何か来ますか」

「嵐に乗って来るものがある。今夜は普通の嵐ではない」

「結界は」

「保てる。だが、隙間ができる」

 隙間、という言葉の重さを、乃々花は受け取った。

 先日お紺から聞いた話が戻ってくる。結界が弱まっている。外からの穢れが入りやすくなっている。

「住人たちに伝えますか」

「伝えるより、落ち着かせておけ。動揺すると隙が増える」

「分かりました」

 朔弥は中庭に立ったまま、空を見続けていた。

 乃々花は長屋の中へ戻った。


 嵐が本格的になったのは、夜の八時過ぎだった。

 雨戸が鳴っている。風が廊下の隙間から入り込んで、灯りが揺れる。外の音が、水と風と、もう一つ別の何かが混ざって聞こえてきた。

 お紺が廊下に出てきた。

 顔色が悪かった。いつもの華やかさが消えて、どこか遠い目をしていた。

「お紺さん、どうしましたか」

「……変な夢を見た。ちょっと寝てたんだけど、変な夢」

「部屋に戻りましょう。こちらへ」

「待って、まだ頭がぼんやりして」

 お紺の手を取ると、冷たかった。夏の終わりなのに、指先が冷えている。

「どんな夢でしたか」

「……忘れられていく夢。みんなにあたしのことが見えなくなって、呼んでも聞こえなくなって」

 乃々花はお紺の手を両手で包んだ。

「今、私に見えています。声も聞こえています」

「分かってる。でも、夢がまだ残ってて」

「こちらで一緒にいましょう。一人でいない方がいいです」

 お紺を廊下の端に連れてきて、壁に背をつけて座らせた。

 そのとき、雪丸の部屋の方から音がした。

 低い、何かが軋むような音。それから、気温が一気に下がった。

「雪丸」

 乃々花は走った。


 雪丸の部屋の引き戸を開けると、冷気が吹き出してきた。

 雪丸が部屋の真ん中に立っていた。目が焦点を失っていた。白い髪が逆立つように広がって、床に霜が張っていた。壁に氷が走っている。

「雪丸くん」

 呼んでも反応がなかった。

 乃々花は部屋に入った。足元が滑る。床の氷が、入るたびに広がっていく。

「雪丸くん、私です。乃々花です」

 近づきながら呼び続けた。

 雪丸の目が、少しだけ動いた。

「……どうせぼくは迷惑をかける。いない方がいい」

「そんなことはありません」

「でも、また、こうなってしまう。ぼくがいると壊れる。凍る。みんなが困る」

「今、困っていません」

「嘘だ。凍ってる。見えてる」

 乃々花は立ち止まった。

 反論しても届かない。これは言葉の問題ではない。何かが雪丸の恐れを刺激していて、自分でも止められない状態になっている。

 乃々花は膝をついた。

 雪丸と同じ目の高さになって、まっすぐ見た。

「雪丸くん、手を出して下さい」

「……なんで」

「いいから、出して下さい」

 雪丸がためらいながら、右手を差し出した。

 乃々花はその手を、両手で包んだ。

 冷たかった。氷のように冷たかった。でも、包んだ。

「痛い?」

「……ちょっと、冷たいくらい」

「よかった。そのままでいて下さい」

 雪丸の目が、少しずつ焦点を取り戻してきた。

「……ののかさん、手が冷たくなる」

「なっても大丈夫です」

「でも」

「ここにいます。どこにも行きません」

 床の霜が、少しずつ引いた。

 壁の氷が、端から溶け始めた。

 時間がかかったが、雪丸の目が戻ってきた。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいです。外から来た何かに当てられただけです。あなたのせいじゃない」

「本当に?」

「本当です」

 雪丸が乃々花の手を、強く握り返した。


 廊下に戻ると、たま吉が縁側から入ってきた。

 顔に傷があった。左の頬に引っかき傷が三本。

「たま吉くん、それは」

「外に出てた。気になって」

「出るなと言いましたよね」

「言ってない」

「言っていませんでしたか。でも嵐の夜に外に出るのは」

「向こうの角に小さいのがいた。払ってきた」

「払った?」

「できる。これくらいなら」

 たま吉は顔の傷を気にする様子もなく、縁側に腰を下ろした。

「でも中くらいのが、まだ外にいる。朔弥が対処してるとこだ」

 乃々花は廊下の奥を見た。

 朔弥は、まだ外にいる。

「傷の手当てをします。動かないで下さい」

「いい」

「よくないです。ここに座っていて下さい」

 たま吉は文句を言いながらも、動かなかった。

 乃々花は救急箱を取ってきた。この長屋には、いつの間にか人間用の応急処置の道具が揃っていた。最初に確認したときはなかったので、乃々花がいつかの買い出しのときに買ってきたものだ。

「しみますよ」

「分かってる」

 消毒をして、傷を拭く。たま吉は顔をしかめたが、声は出さなかった。

「たいしたことはない」

「そう見えますが、きちんと処置します」

「過保護だ」

「仕事なので」

 処置をしながら、乃々花は外の音を聞いていた。

 風と雨の音。それから、もう一つの音。

 人間の言葉では説明できない音が、外から時々聞こえた。それが遠ざかるたびに、空気が少し楽になった。

 朔弥が何かをしている。


 お紺を落ち着かせて、雪丸に温かいものを飲ませて、たま吉の傷の処置をして、久遠の部屋の様子を確認する。

 久遠は部屋の中で静かに針仕事をしていた。

「外の様子は分かりますか」

「大体は。朔弥が対処している」

「大丈夫ですか、彼は」

「今夜は手こずっているだろう。結界が弱い分、力を多く使う」

「何かできることはありますか」

「今あなたがやっていることが、一番の支えになっている」

「住人たちを落ち着かせることが?」

「住人たちが安定していれば、朔弥の結界への負担が減る。恐れや乱れは、穢れに力を与える。あなたが中を整えることで、朔弥の外の仕事が楽になる」

 乃々花は少しの間考えた。

 家事で生活を整えることが、この夜の長屋を支えている。

 大げさな話ではなかった。ただ、一つずつやれることをやることが、今夜の長屋に必要なことだった。

「分かりました。続けます」

「あと一つ」

「はい」

「灯りを集めなさい。暗いところに隙間ができる。明るくしておけ」


 乃々花は長屋中の灯りを集めた。

 行灯、蝋燭、懐中電灯、古い石油ランプ。使えるものを全部出して、廊下と共用部に置いた。

 一人で運べないものは、雪丸に手伝ってもらった。雪丸はもう落ち着いていて、乃々花の後ろをついて歩きながら、小さな灯りを丁寧に運んだ。

 長屋の廊下が、橙色の光で満ちた。

 どこにも暗がりがなくなった。隅まで光が届いている。

「きれい」

 雪丸が言った。

「そうですね」

「こういうの、好き」

「嵐の夜に言うことじゃないかもしれませんが、私も好きです」

 雪丸が小さく笑った。

 お紺が廊下に出てきて、灯りの並んだ廊下を見た。

「なんか、お祭りみたいね」

「お祭りではないですが」

「でも、きれい」

 たま吉が縁側から覗いた。

「明るいな」

「久遠さんに言われました。暗いところに隙間ができると」

「賢いことを言う」

「久遠さんが言ったんです」

 たま吉は縁側に戻ったが、今夜は外には出なかった。


 夜の十一時過ぎ、外の音が変わった。

 嵐の音は続いているが、もう一つの音が聞こえなくなった。

 乃々花は廊下に立って、外を感じた。

 空気が変わっている。重さが引いている。

 それから、雨音の中に足音が混じった。

 中庭から、廊下へ入ってくる足音。

 朔弥だった。

 着物が濡れ切っていた。髪がほどけて、顔に張り付いていた。普段の整った様子が、今夜は崩れていた。

 廊下に入ったところで、足が止まった。

 灯りに満ちた廊下を見た。

 住人たちを見た。お紺が廊下の端に座っていた。たま吉が縁側にいた。雪丸が廊下の真ん中に立っていた。久遠の部屋から光が漏れていた。

 それから、乃々花を見た。

「終わったか」

 乃々花が聞いた。

「……ああ」

 声が、いつもより低かった。力を使い果たした後の、薄い声だった。

「座って下さい」

「大丈夫だ」

「大丈夫に見えません。座って下さい」

 朔弥は少しの間立っていたが、廊下の端に腰を下ろした。

 乃々花は急いで台所へ行った。

 湯を沸かす時間がない。保温しておいた番茶があった。濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい温度になっていた。

 湯呑みに注いで、盆に乗せて戻った。

 朔弥の前に置いた。

「飲んで下さい」

「……」

「飲んで下さい」

 朔弥は湯呑みを手に取った。両手で持った。

 一口飲んで、少し目を閉じた。

 乃々花はその横に、少し離れて腰を下ろした。

 雪丸が反対側に来て、朔弥の隣に座った。

 お紺が廊下を歩いてきて、朔弥を一度見て、何も言わずに向かいの壁に背をつけた。

 たま吉が縁側から移動して、廊下の端に体を折りたたんだ。

 誰も何も言わなかった。

 嵐の音だけが、外で続いていた。

 でも、廊下は静かで、明るかった。


 しばらくして、朔弥が口を開いた。

「結界が、予想より早く弱まっている」

 静かな声だった。報告するような言い方だった。

「今夜程度なら対処できる。だが、このまま続けば」

「続けば?」

「いずれ、対処しきれない夜が来る」

 誰も何も言わなかった。

 乃々花は膝の上に手を置いたまま、朔弥の横顔を見た。

 今夜初めて、朔弥が弱ったように見えた。強くて、冷静で、百年以上この場所を守ってきた人が、今夜は廊下に腰を下ろして、湯呑みを持っている。

 弱い、というのとは違う。でも、限界というものが確かにある、ということが、今夜初めて見えた。

「朔弥さん」

「何だ」

「一人で全部しなくていいです」

 朔弥が乃々花を見た。

「何を言っている」

「今夜、私は住人たちを落ち着かせて、灯りを集めて、食事の準備をしていました。それが朔弥さんの結界の負担を減らす、と久遠さんが言っていました」

「それは」

「私にできることは、家事を整えることです。でも、それが今夜の長屋を支えていたなら、私はここにいた意味があります」

 朔弥は返事をしなかった。

「私は人間だから、結界を保つことはできません。穢れを払うこともできません。でも、住人たちを落ち着かせることはできます。灯りを集めることはできます。温かい茶を用意することはできます」

「……」

「一人でなくていいです。できることが違っても、一緒にやることはできます」

 朔弥はしばらく湯呑みを見ていた。

 答えなかった。

 でも、湯呑みをもう一度口に運んだ。

 それが答えだと、乃々花は思った。


 夜中に、嵐が峠を越えた。

 風が弱くなって、雨の音が少し穏やかになった。

 住人たちは廊下で眠り始めていた。雪丸は壁に背をつけたまま、目を閉じていた。お紺は膝を抱えて、うとうとしていた。たま吉は器用に廊下で丸くなっていた。

 久遠だけが部屋の灯りをつけたまま、針仕事を続けていた。

 朔弥は廊下に座ったまま、目を閉じていた。眠っているのか、意識を落ち着けているのか、判断がつかなかった。

 乃々花は廊下の灯りを少しずつ落とした。

 全部は消さない。久遠の言葉の通り、完全に暗くはしない。でも、眠るには少し明るすぎた。

 一つ、また一つと、灯りを落としながら廊下を歩いた。

 最後の一つを落とす前に、朔弥の前を通った。

 朔弥の目が、薄く開いていた。

 眠っていなかった。

「まだいるのか」

「もう少しいます」

「帰らなくていいのか」

「今夜は帰りません」

 朔弥は何も言わなかった。

 乃々花は最後の灯りを一つだけ残した。廊下の端に、小さな灯りが一つ。それだけが、橙色に燃えていた。

 その灯りの側に腰を下ろして、壁に背をつけた。

 外の嵐が、少しずつ遠くなっていく。

 廊下は静かで、温かかった。

 長屋を守りたい、という気持ちが、今夜初めて、言葉より先に体の中にあった。

 守りたい、という気持ちが、理由より先にあった。

 

 灯りを見ながら、乃々花はそのまま、夜の終わりを待った。


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