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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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16/22

第十六章 百年前の春

 嵐の翌朝は、嘘のように晴れた。

 空が高くて、洗われたように澄んでいた。石畳の水たまりに空が映って、踏むたびに揺れる。軒先から滴が落ちて、規則正しい音を立てている。

 乃々花は廊下で目を覚ました。

 壁にもたれたまま眠っていたらしく、首が少し痛かった。灯りはとっくに消えていて、朝の光が障子越しに入っている。

 住人たちはそれぞれ部屋に戻っていた。廊下には誰もいない。

 一人だけ残っていた。

 朔弥が、廊下の反対側に座っていた。

 壁に背をつけて、目を閉じていた。眠っているかもしれなかった。昨夜のまま、ずっとそこにいたらしい。着物はまだ少し湿っていた。

 乃々花は音を立てないように立ち上がって、台所へ向かった。

 湯を沸かした。番茶を濃いめに淹れた。それから、昨日の夕方に仕込んでおいた米を炊いた。嵐になる前に炊いておいてよかった。味噌汁は干し椎茸と豆腐で、ある材料で作れるものを作った。

 匂いが廊下に流れ出した頃、朔弥が台所の入り口に立っていた。

「食べますか」

「……いらない」

「昨夜何も食べていないと思います」

「人間と同じではない」

「でも、食べた方がいいと思います。少しでも」

 朔弥は返事をしなかった。

 乃々花は椀に飯を盛って、味噌汁と一緒に台所の卓に置いた。

 朔弥は少しの間入り口に立っていたが、やがて台所に入ってきて、卓の前に腰を下ろした。

 箸を持って、一口食べた。

 それだけで、乃々花は十分だと思った。


 住人たちが起き出してきたのは、朝の九時過ぎだった。

 雪丸が一番先だった。台所を覗いて、朔弥が食事をしているのを見て、少し目を丸くした。それから乃々花を見て、小さく笑った。

 何も言わなかったが、その笑い方に全部あった。

 たま吉は昨夜の傷を確認しながら縁側に出た。晴れた朝の光を受けて、気持ちよさそうに目を細めた。猫の生き物らしかった。

 お紺は部屋から出てきて、廊下を歩きながら乃々花に声をかけた。

「昨夜はありがとう」

「何もしていません」

「してたわよ。ちゃんと見てた」

 お紺はそれだけ言って、縁側の方へ歩いた。

 朔弥は食事を終えると、台所を出た。部屋に戻るかと思ったが、縁側に腰を下ろして、中庭を見始めた。

 いつもの場所に、いつものように。

 でも今朝は、どこか違って見えた。

 昨夜のことが、空気に残っているような気がした。


 午後になって、お紺が乃々花を縁側に呼んだ。

 珍しく、久遠も来ていた。三人で縁側に並んで、中庭を見た。朔弥は昼前に部屋に戻っていて、今は廊下に誰もいなかった。

「話したいことがある」

 お紺が言った。

 いつもの軽い調子ではなかった。

「昨夜のこともあって、あなたに話しておいた方がいいと思った」

「朔弥さんのことですか」

「そう」

 お紺は中庭を見たまま、少しの間黙った。

 久遠が口を開いた。

「私が話す」

「お紺じゃ話がどこかへいくから」

「どういう意味よ」

「そのままの意味だ」

 お紺が口を尖らせたが、反論しなかった。久遠が正しいと思っているらしかった。

 久遠は膝の上に手を置いて、中庭を見た。

「以前、私が話した続きだ」

「ふじさんのことですか」

「そうだ。もう少し詳しく話す。あなたに知っておいてほしいことがある」

 乃々花は姿勢を正した。


「ふじがこの長屋に来たのは、春の終わりだった」

 久遠の声は、いつも通り静かだった。感情を乗せない話し方だったが、それがかえって重く聞こえた。

「迷い込んだ娘だと最初は言ったが、正確には少し違う。彼女は行き場をなくした娘だった。家を出て、頼る場所もなく、この路地に入り込んだ」

「家を出た理由は」

「詳しくは聞かなかった。彼女も話したがらなかった。ただ、戻るところがないことだけは分かっていた」

 お紺が静かに続けた。

「朔弥は最初、追い出そうとした。人間を長屋に置くのは面倒だって。でもふじは出て行かなかったのよ。追い出されても、翌日また来て、勝手に掃除を始めて、住人たちと話して」

「朔弥さんが根負けしたんですか」

「根負けというか」

 お紺は少し笑った。

「ふじがここの掃除を始めたとき、住人たちが変わったのよ。雰囲気が変わって、食事が整って、長屋の空気が変わった。朔弥もそれを見ていた」

「三年かかった、と久遠さんが言っていました」

「そう。あの頑固者が変わるのに三年かかった」

 久遠が続けた。

「ふじは二十年ここにいた。朔弥にとってその二十年は、それまでの長い時間の中で、特別な二十年だったと思う」

「特別というのは」

「あの男が、初めて誰かのそばにいることを選んだ二十年だ」

 乃々花は少しの間黙った。

 百年以上生きてきて、初めて誰かのそばにいることを選んだ。それがふじという人だった。

「ふじさんは、どんな人でしたか」

 お紺が答えた。

「明るい人だった。怖いものがあんまりなくて、住人たちのことも朔弥のことも、物怖じせずに関わった。でも芯が強くて、おかしいと思ったことはきちんと言った」

「家事が得意でしたか」

「得意だったわよ。この台所も、あの人が整えた。長屋の仕組みの半分はふじが作ったものよ」

 乃々花は台所の方を見た。

 あの棚の並び方、水の流し方、道具の置き場所。使いやすいと思っていたものが、百年前にふじという人が整えたものだったかもしれない。

「病で亡くなったんですね」

「そう」

 お紺の声が少し変わった。

「最後の二年は床に伏せりがちだった。それでも、動ける日は台所に立った。朔弥が止めても聞かなかった」

「朔弥さんは」

「ずっとそばにいた。ああ見えて、いや、ああ見えてというか、あの人はそういう人なのよ。大切と決めたら、徹底的に」

 久遠が穏やかな声で言った。

「ふじが逝ったのは、春だった。桜の咲くころだった。朔弥はその後、長くここを離れなかった。ふじの部屋を閉めて、一人で結界を保ち続けた」

「人間に深く関わることをやめた」

「そうだ」

 三人で少しの間、黙った。

 中庭の石畳に、午後の光が落ちていた。


 乃々花は少しの間考えてから、聞いた。

「一つ、聞いていいですか」

「何」

「ふじさんと私は、似ていますか?」

 お紺が少し目を丸くした。

 久遠は静かに乃々花を見た。

「似ていると思うか、自分では」

「分かりません。でも、家事が得意で、追い出されても出て行かなくて、住人たちに関わる、というところは」

「似ているわね」

「朔弥もそれを感じていると思う。だから最初から、あなたに対して他の人間より慎重だった」

「それは、迷惑だということですか」

「違う」

 お紺は首を振った。

「また同じ痛みを繰り返すことを、恐れているのよ。大切にして、見送る痛みを。もう一度あの痛みがくることを」

 乃々花はその言葉を受け取った。

 以前、自分が考えていたことが、今確認された。朔弥が人間に距離を置くのは、冷たいからではない。もう一度失うことを、恐れているからだ。

「だから、私に戻れと言ったんですか。先に」

「たぶん」

「先に手放せば、また見送る痛みを繰り返さずに済む」

「そういうことだと思う」

 久遠が口を開いた。

「ただ」

「はい」

「ふじと同じだから、あなたに距離を置いている。でも同時に、ふじと同じだから、そばにいることを許している部分もある」

「どういう意味ですか」

「あなたが来てから、朔弥は変わった。少しずつ、でも確かに。それは朔弥自身も感じていると思う」

 お紺が続けた。

「百年、変わらなかった人が、変わり始めてる。それはね、あなたがふじと同じだからだけじゃない。あなたがあなただからよ」

 乃々花は中庭を見た。朔弥の部屋の引き戸は閉まっている。中に気配はある。昨夜の疲れを回復しているのかもしれない。

「私が同じ痛みを繰り返させてしまうかもしれない、ということは分かります」

「そうね」

「でも、同じだからこそ、繰り返さない方法があるかもしれない、とも思っています」

 お紺が少し目を細めた。

「どういうこと?」

「ふじさんは人間だった。人間はいつか死ぬ。それは変わらない。でも、見送られる側が何かを残して、見送る側がその後どう生きるかは、変わるかもしれない」

 久遠が穏やかな声で言った。

「縫い目の話だ」

「そうかもしれません。縫い目は残る。でも、着られなくなるとは限らない」

「あなたはふじと同じ痛みを朔弥に与えるかもしれない。でも、その先が同じになるとは限らない」

「はい」

 お紺はしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと笑った。

「難しいこと言うわね」

「分かりにくかったですか」

「分かるわよ。分かるから、難しいって言ってるの」

 久遠が立ち上がった。

「一つだけ言う」

「はい」

「ふじが最後に朔弥に言った言葉を、私は知っている」

 乃々花は久遠を見た。

「何と言ったんですか」

「ここにいて、と言った」

 短い言葉だった。

 でも、その四文字が、中庭の空気に静かに落ちた。

「ふじが逝く前に、朔弥に言った。あなたはここにいて、と。この長屋にいて、住人たちと一緒にいて、と」

「……」

「だから朔弥は百年、ここにいた。ふじの言葉を守って、ここにいた」

 乃々花は少しの間、目を閉じた。

 百年前の春に言われた言葉が、今もこの長屋を支えていた。

 ふじという人が、最後に残したものが、百年後の今もここに在り続けていた。


 夕方になって、お紺と久遠が部屋に戻った後、乃々花は縁側に一人で残った。

 中庭の石畳が、夕光を受けていた。

 長い影が伸びて、古い木の柱に重なっている。

 閉じた部屋のことを思った。花柄の着物、読みかけの本、使いかけの紅、鼈甲の簪。整ったまま時間の止まった部屋。

 ふじという人が、二十年ここで生きた。

 台所を整えて、住人たちの世話を焼いて、追い出されても出て行かなかった。そして最後に、朔弥にここにいて、と言った。

 その言葉が、百年後にも生きている。

 乃々花は自分のことを考えた。

 自分はこれからどうするか。三沢への返事はまだ出していない。でも今夜の段階で、答えの輪郭は見えていた。

 見えていたが、まだ言葉にしていなかった。

 言葉にする前に、確かめたいことがあった。


 朔弥の部屋の前に立ったのは、夕暮れが終わって、夜が始まるころだった。

 引き戸をノックした。

「朔弥さん」

「何だ」

「少し話していいですか」

 間があった。

「入れ」

 部屋に入った。朔弥は文机の前に座っていた。書物を広げているが、読んでいるのかどうかは分からなかった。

 乃々花は部屋の入り口近くに腰を下ろした。

「今日、お紺さんと久遠さんからふじさんのことを聞きました」

 朔弥の手が止まった。

「久遠が話したのか」

「話してくれました。あなたに知っておいてほしいことがある、と言って」

「……余計なことを」

「余計だとは思いません」

 朔弥は書物を見ていた。乃々花を見なかった。

「ふじさんの台所の整え方が、今も残っているんですね」

「……」

「使いやすいと思っていました。百年前に整えられたものが、今も使いやすい。それはふじさんがよく考えて整えたからだと思います」

「おまえには関係のない話だ」

「私には関係あると思っています」

 朔弥がようやく、乃々花を見た。

「なぜ」

「同じ台所を使っているから。同じ長屋にいるから」

「それだけか」

「それだけではないかもしれません」

 乃々花は少し間を置いた。

「朔弥さんが私に距離を置く理由が、今日少し分かりました」

「……」

「また大切にして、また見送ることになるかもしれない。その痛みを繰り返すことを、恐れているんだと思います」

 朔弥は返事をしなかった。

「でも私は、同じにはしたくないと思っています」

「同じにならないとは言えない。おまえも人間だ」

「そうです。人間なので、いつか死にます。それは変えられない」

「ならば」

「でも、その先が同じになるかどうかは、今決まっていません」

 朔弥は乃々花を見ていた。

「ふじさんは最後に、ここにいて、と言ったそうです」

 朔弥の目が、かすかに動いた。

「久遠が言ったのか」

「はい。その言葉を守って、朔弥さんは百年ここにいた」

「……」

「だから今も長屋がある。住人たちがいる。私が来ることができた」

 朔弥は視線を外した。

「何が言いたい」

「ふじさんが残したものは、この長屋です。百年後も在り続けているものです。それは、見送られた後のことが、見送る人の生き方によって変わるということだと思います」

 長い沈黙があった。

 外で虫が鳴いていた。夏の終わりの、細い声で。

「おまえは、何を言おうとしている」

「今すぐ答えを出せということではありません。ただ、朔弥さんに知っておいてほしかっただけです。私は、同じにはしたくないと思っている、ということを」

 朔弥は乃々花を見た。

 今まで見たことのない目だった。怒りでも警戒でもなく、何か別のものがあった。

 名前をつけるとしたら、戸惑い、に近かった。百年間、答えを持っていた人が、初めて問いを受け取ったときのような顔だった。

 乃々花は立ち上がった。

「今日はここまでにします。昨夜のお疲れがあるので、ゆっくり休んで下さい」

「……待て」

 朔弥が呼ぶと、乃々花は止まった。

「ふじが最後に言ったことは」

「はい」

「久遠が全部話したか」

「ここにいて、という言葉だけ聞きました」

 朔弥は少しの間、黙っていた。

「……もう一つあった」

「何ですか」

「また春を見せてくれ、と言った」

 乃々花はまだ動かなかった。

「桜が好きだった。毎年、この中庭で一緒に見ていた。最後の春が終わるとき、来年の春も見たい、と言った」

「……」

「来年の春は来なかった」

 朔弥の声は変わらなかった。でも、その言葉の中に、百年分のものがあった。

 乃々花はしばらく何も言えなかった。

 言葉を探したが、見つからなかった。

 見つからなかったので、見つかった言葉だけを言った。

「来年の春、一緒に見ましょう」

 朔弥が乃々花を見た。

「おまえが」

「私がここにいれば、一緒に見られます。来年の春を」

「……人間がそう簡単に約束できることではない」

「簡単だとは思っていません。でも、約束します」

 朔弥は少しの間、乃々花を見ていた。

 答えなかった。

 でも、目が変わった。

 戸惑いの奥に、百年ぶりに何かが動いたような、そういう変わり方をした。

 乃々花は深く礼をして、部屋を出た。

 廊下に出て、引き戸を閉めた。

 しばらく、そこに立っていた。

 来年の春、と言った。軽くはない約束だ。自分がここにいるかどうかも、まだ確定していない。でも、言った。

 言ったことは、守る。

 そのためには、ここにいなければならない。

 答えが、言葉より先に体の中に決まっていた。

 乃々花は廊下を歩いた。

 夜の長屋は静かで、虫の声が遠くから来ていた。

 来年の春まで、ここにいる。

 それだけが、今夜の答えだった。


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