第十六章 百年前の春
嵐の翌朝は、嘘のように晴れた。
空が高くて、洗われたように澄んでいた。石畳の水たまりに空が映って、踏むたびに揺れる。軒先から滴が落ちて、規則正しい音を立てている。
乃々花は廊下で目を覚ました。
壁にもたれたまま眠っていたらしく、首が少し痛かった。灯りはとっくに消えていて、朝の光が障子越しに入っている。
住人たちはそれぞれ部屋に戻っていた。廊下には誰もいない。
一人だけ残っていた。
朔弥が、廊下の反対側に座っていた。
壁に背をつけて、目を閉じていた。眠っているかもしれなかった。昨夜のまま、ずっとそこにいたらしい。着物はまだ少し湿っていた。
乃々花は音を立てないように立ち上がって、台所へ向かった。
湯を沸かした。番茶を濃いめに淹れた。それから、昨日の夕方に仕込んでおいた米を炊いた。嵐になる前に炊いておいてよかった。味噌汁は干し椎茸と豆腐で、ある材料で作れるものを作った。
匂いが廊下に流れ出した頃、朔弥が台所の入り口に立っていた。
「食べますか」
「……いらない」
「昨夜何も食べていないと思います」
「人間と同じではない」
「でも、食べた方がいいと思います。少しでも」
朔弥は返事をしなかった。
乃々花は椀に飯を盛って、味噌汁と一緒に台所の卓に置いた。
朔弥は少しの間入り口に立っていたが、やがて台所に入ってきて、卓の前に腰を下ろした。
箸を持って、一口食べた。
それだけで、乃々花は十分だと思った。
住人たちが起き出してきたのは、朝の九時過ぎだった。
雪丸が一番先だった。台所を覗いて、朔弥が食事をしているのを見て、少し目を丸くした。それから乃々花を見て、小さく笑った。
何も言わなかったが、その笑い方に全部あった。
たま吉は昨夜の傷を確認しながら縁側に出た。晴れた朝の光を受けて、気持ちよさそうに目を細めた。猫の生き物らしかった。
お紺は部屋から出てきて、廊下を歩きながら乃々花に声をかけた。
「昨夜はありがとう」
「何もしていません」
「してたわよ。ちゃんと見てた」
お紺はそれだけ言って、縁側の方へ歩いた。
朔弥は食事を終えると、台所を出た。部屋に戻るかと思ったが、縁側に腰を下ろして、中庭を見始めた。
いつもの場所に、いつものように。
でも今朝は、どこか違って見えた。
昨夜のことが、空気に残っているような気がした。
午後になって、お紺が乃々花を縁側に呼んだ。
珍しく、久遠も来ていた。三人で縁側に並んで、中庭を見た。朔弥は昼前に部屋に戻っていて、今は廊下に誰もいなかった。
「話したいことがある」
お紺が言った。
いつもの軽い調子ではなかった。
「昨夜のこともあって、あなたに話しておいた方がいいと思った」
「朔弥さんのことですか」
「そう」
お紺は中庭を見たまま、少しの間黙った。
久遠が口を開いた。
「私が話す」
「お紺じゃ話がどこかへいくから」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
お紺が口を尖らせたが、反論しなかった。久遠が正しいと思っているらしかった。
久遠は膝の上に手を置いて、中庭を見た。
「以前、私が話した続きだ」
「ふじさんのことですか」
「そうだ。もう少し詳しく話す。あなたに知っておいてほしいことがある」
乃々花は姿勢を正した。
「ふじがこの長屋に来たのは、春の終わりだった」
久遠の声は、いつも通り静かだった。感情を乗せない話し方だったが、それがかえって重く聞こえた。
「迷い込んだ娘だと最初は言ったが、正確には少し違う。彼女は行き場をなくした娘だった。家を出て、頼る場所もなく、この路地に入り込んだ」
「家を出た理由は」
「詳しくは聞かなかった。彼女も話したがらなかった。ただ、戻るところがないことだけは分かっていた」
お紺が静かに続けた。
「朔弥は最初、追い出そうとした。人間を長屋に置くのは面倒だって。でもふじは出て行かなかったのよ。追い出されても、翌日また来て、勝手に掃除を始めて、住人たちと話して」
「朔弥さんが根負けしたんですか」
「根負けというか」
お紺は少し笑った。
「ふじがここの掃除を始めたとき、住人たちが変わったのよ。雰囲気が変わって、食事が整って、長屋の空気が変わった。朔弥もそれを見ていた」
「三年かかった、と久遠さんが言っていました」
「そう。あの頑固者が変わるのに三年かかった」
久遠が続けた。
「ふじは二十年ここにいた。朔弥にとってその二十年は、それまでの長い時間の中で、特別な二十年だったと思う」
「特別というのは」
「あの男が、初めて誰かのそばにいることを選んだ二十年だ」
乃々花は少しの間黙った。
百年以上生きてきて、初めて誰かのそばにいることを選んだ。それがふじという人だった。
「ふじさんは、どんな人でしたか」
お紺が答えた。
「明るい人だった。怖いものがあんまりなくて、住人たちのことも朔弥のことも、物怖じせずに関わった。でも芯が強くて、おかしいと思ったことはきちんと言った」
「家事が得意でしたか」
「得意だったわよ。この台所も、あの人が整えた。長屋の仕組みの半分はふじが作ったものよ」
乃々花は台所の方を見た。
あの棚の並び方、水の流し方、道具の置き場所。使いやすいと思っていたものが、百年前にふじという人が整えたものだったかもしれない。
「病で亡くなったんですね」
「そう」
お紺の声が少し変わった。
「最後の二年は床に伏せりがちだった。それでも、動ける日は台所に立った。朔弥が止めても聞かなかった」
「朔弥さんは」
「ずっとそばにいた。ああ見えて、いや、ああ見えてというか、あの人はそういう人なのよ。大切と決めたら、徹底的に」
久遠が穏やかな声で言った。
「ふじが逝ったのは、春だった。桜の咲くころだった。朔弥はその後、長くここを離れなかった。ふじの部屋を閉めて、一人で結界を保ち続けた」
「人間に深く関わることをやめた」
「そうだ」
三人で少しの間、黙った。
中庭の石畳に、午後の光が落ちていた。
乃々花は少しの間考えてから、聞いた。
「一つ、聞いていいですか」
「何」
「ふじさんと私は、似ていますか?」
お紺が少し目を丸くした。
久遠は静かに乃々花を見た。
「似ていると思うか、自分では」
「分かりません。でも、家事が得意で、追い出されても出て行かなくて、住人たちに関わる、というところは」
「似ているわね」
「朔弥もそれを感じていると思う。だから最初から、あなたに対して他の人間より慎重だった」
「それは、迷惑だということですか」
「違う」
お紺は首を振った。
「また同じ痛みを繰り返すことを、恐れているのよ。大切にして、見送る痛みを。もう一度あの痛みがくることを」
乃々花はその言葉を受け取った。
以前、自分が考えていたことが、今確認された。朔弥が人間に距離を置くのは、冷たいからではない。もう一度失うことを、恐れているからだ。
「だから、私に戻れと言ったんですか。先に」
「たぶん」
「先に手放せば、また見送る痛みを繰り返さずに済む」
「そういうことだと思う」
久遠が口を開いた。
「ただ」
「はい」
「ふじと同じだから、あなたに距離を置いている。でも同時に、ふじと同じだから、そばにいることを許している部分もある」
「どういう意味ですか」
「あなたが来てから、朔弥は変わった。少しずつ、でも確かに。それは朔弥自身も感じていると思う」
お紺が続けた。
「百年、変わらなかった人が、変わり始めてる。それはね、あなたがふじと同じだからだけじゃない。あなたがあなただからよ」
乃々花は中庭を見た。朔弥の部屋の引き戸は閉まっている。中に気配はある。昨夜の疲れを回復しているのかもしれない。
「私が同じ痛みを繰り返させてしまうかもしれない、ということは分かります」
「そうね」
「でも、同じだからこそ、繰り返さない方法があるかもしれない、とも思っています」
お紺が少し目を細めた。
「どういうこと?」
「ふじさんは人間だった。人間はいつか死ぬ。それは変わらない。でも、見送られる側が何かを残して、見送る側がその後どう生きるかは、変わるかもしれない」
久遠が穏やかな声で言った。
「縫い目の話だ」
「そうかもしれません。縫い目は残る。でも、着られなくなるとは限らない」
「あなたはふじと同じ痛みを朔弥に与えるかもしれない。でも、その先が同じになるとは限らない」
「はい」
お紺はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「難しいこと言うわね」
「分かりにくかったですか」
「分かるわよ。分かるから、難しいって言ってるの」
久遠が立ち上がった。
「一つだけ言う」
「はい」
「ふじが最後に朔弥に言った言葉を、私は知っている」
乃々花は久遠を見た。
「何と言ったんですか」
「ここにいて、と言った」
短い言葉だった。
でも、その四文字が、中庭の空気に静かに落ちた。
「ふじが逝く前に、朔弥に言った。あなたはここにいて、と。この長屋にいて、住人たちと一緒にいて、と」
「……」
「だから朔弥は百年、ここにいた。ふじの言葉を守って、ここにいた」
乃々花は少しの間、目を閉じた。
百年前の春に言われた言葉が、今もこの長屋を支えていた。
ふじという人が、最後に残したものが、百年後の今もここに在り続けていた。
夕方になって、お紺と久遠が部屋に戻った後、乃々花は縁側に一人で残った。
中庭の石畳が、夕光を受けていた。
長い影が伸びて、古い木の柱に重なっている。
閉じた部屋のことを思った。花柄の着物、読みかけの本、使いかけの紅、鼈甲の簪。整ったまま時間の止まった部屋。
ふじという人が、二十年ここで生きた。
台所を整えて、住人たちの世話を焼いて、追い出されても出て行かなかった。そして最後に、朔弥にここにいて、と言った。
その言葉が、百年後にも生きている。
乃々花は自分のことを考えた。
自分はこれからどうするか。三沢への返事はまだ出していない。でも今夜の段階で、答えの輪郭は見えていた。
見えていたが、まだ言葉にしていなかった。
言葉にする前に、確かめたいことがあった。
朔弥の部屋の前に立ったのは、夕暮れが終わって、夜が始まるころだった。
引き戸をノックした。
「朔弥さん」
「何だ」
「少し話していいですか」
間があった。
「入れ」
部屋に入った。朔弥は文机の前に座っていた。書物を広げているが、読んでいるのかどうかは分からなかった。
乃々花は部屋の入り口近くに腰を下ろした。
「今日、お紺さんと久遠さんからふじさんのことを聞きました」
朔弥の手が止まった。
「久遠が話したのか」
「話してくれました。あなたに知っておいてほしいことがある、と言って」
「……余計なことを」
「余計だとは思いません」
朔弥は書物を見ていた。乃々花を見なかった。
「ふじさんの台所の整え方が、今も残っているんですね」
「……」
「使いやすいと思っていました。百年前に整えられたものが、今も使いやすい。それはふじさんがよく考えて整えたからだと思います」
「おまえには関係のない話だ」
「私には関係あると思っています」
朔弥がようやく、乃々花を見た。
「なぜ」
「同じ台所を使っているから。同じ長屋にいるから」
「それだけか」
「それだけではないかもしれません」
乃々花は少し間を置いた。
「朔弥さんが私に距離を置く理由が、今日少し分かりました」
「……」
「また大切にして、また見送ることになるかもしれない。その痛みを繰り返すことを、恐れているんだと思います」
朔弥は返事をしなかった。
「でも私は、同じにはしたくないと思っています」
「同じにならないとは言えない。おまえも人間だ」
「そうです。人間なので、いつか死にます。それは変えられない」
「ならば」
「でも、その先が同じになるかどうかは、今決まっていません」
朔弥は乃々花を見ていた。
「ふじさんは最後に、ここにいて、と言ったそうです」
朔弥の目が、かすかに動いた。
「久遠が言ったのか」
「はい。その言葉を守って、朔弥さんは百年ここにいた」
「……」
「だから今も長屋がある。住人たちがいる。私が来ることができた」
朔弥は視線を外した。
「何が言いたい」
「ふじさんが残したものは、この長屋です。百年後も在り続けているものです。それは、見送られた後のことが、見送る人の生き方によって変わるということだと思います」
長い沈黙があった。
外で虫が鳴いていた。夏の終わりの、細い声で。
「おまえは、何を言おうとしている」
「今すぐ答えを出せということではありません。ただ、朔弥さんに知っておいてほしかっただけです。私は、同じにはしたくないと思っている、ということを」
朔弥は乃々花を見た。
今まで見たことのない目だった。怒りでも警戒でもなく、何か別のものがあった。
名前をつけるとしたら、戸惑い、に近かった。百年間、答えを持っていた人が、初めて問いを受け取ったときのような顔だった。
乃々花は立ち上がった。
「今日はここまでにします。昨夜のお疲れがあるので、ゆっくり休んで下さい」
「……待て」
朔弥が呼ぶと、乃々花は止まった。
「ふじが最後に言ったことは」
「はい」
「久遠が全部話したか」
「ここにいて、という言葉だけ聞きました」
朔弥は少しの間、黙っていた。
「……もう一つあった」
「何ですか」
「また春を見せてくれ、と言った」
乃々花はまだ動かなかった。
「桜が好きだった。毎年、この中庭で一緒に見ていた。最後の春が終わるとき、来年の春も見たい、と言った」
「……」
「来年の春は来なかった」
朔弥の声は変わらなかった。でも、その言葉の中に、百年分のものがあった。
乃々花はしばらく何も言えなかった。
言葉を探したが、見つからなかった。
見つからなかったので、見つかった言葉だけを言った。
「来年の春、一緒に見ましょう」
朔弥が乃々花を見た。
「おまえが」
「私がここにいれば、一緒に見られます。来年の春を」
「……人間がそう簡単に約束できることではない」
「簡単だとは思っていません。でも、約束します」
朔弥は少しの間、乃々花を見ていた。
答えなかった。
でも、目が変わった。
戸惑いの奥に、百年ぶりに何かが動いたような、そういう変わり方をした。
乃々花は深く礼をして、部屋を出た。
廊下に出て、引き戸を閉めた。
しばらく、そこに立っていた。
来年の春、と言った。軽くはない約束だ。自分がここにいるかどうかも、まだ確定していない。でも、言った。
言ったことは、守る。
そのためには、ここにいなければならない。
答えが、言葉より先に体の中に決まっていた。
乃々花は廊下を歩いた。
夜の長屋は静かで、虫の声が遠くから来ていた。
来年の春まで、ここにいる。
それだけが、今夜の答えだった。




