第十七章 空の部屋を整える
三沢への返事を出したのは、翌朝だった。
メールの文面は短かった。
お話いただいた件ですが、今しばらくこちらでの仕事を続けることにしました。ご紹介いただいたお気持ちはありがたく受け取っています。またご縁があれば、よろしくお願いします。
送信して、スマートフォンをしまった。
迷いはなかった。昨夜、朔弥の部屋を出たときには、すでに決まっていた。来年の春を一緒に見ると言った。それを守るためには、ここにいなければならない。理由は単純だった。
門をくぐると、中庭の朝の光がいつも通りだった。
石畳、木の柱、古い瓦屋根。どれも変わっていない。でも今朝は、少し違って見えた。
自分で選んだ場所に見えた。
台所で湯を沸かしながら、乃々花はあの部屋のことを考えていた。
以前、入ってしまった、閉じた部屋。ふじが住んでいた部屋。花柄の着物、読みかけの本、使いかけの紅、鼈甲の簪。整ったまま時間が止まった部屋。
ふじさんの話を昨日聞いて、一つだけ気になっていることがあった。
あの部屋は、今のままでいいのだろうか。
閉じたままでいいのか。百年前の春で止まったまま、誰も入らず、触れず、時間だけが過ぎていく場所でいいのか。
過去を消そうとしているのではない。ふじという人がここにいたことを、なかったことにしようというのではない。
ただ、置き去りにされたまま時間が止まっている場所が、この長屋の中にあることが、少しだけ気になった。
整える、というのは、捨てることでも消すことでもない。
そこにあったものを、今の時間につなぐことができるかもしれない。
乃々花はしばらく考えてから、今日一日かけて確かめてみようと思った。
朔弥に言ったのは、午前中の早いうちだった。
縁側で中庭を見ている朔弥に、真正面から向かった。
「朔弥さん、お願いがあります」
「何だ」
「あの部屋を、整えさせて下さい」
朔弥が乃々花を見た。
「消すためじゃありません。捨てるためでもありません。ただ、あのままにしておくことが、あの部屋にとっていいことなのか、気になっています」
「……」
「ふじさんがいたことは、あの部屋がなくなっても消えません。朔弥さんの中に、住人たちの中に、この長屋の形の中に、残っています」
「俺に、あの部屋を片づけろと言っているのか」
「片づけるとは少し違います」
乃々花は言葉を選んだ。
「閉じたままの時間を、今の長屋の時間につなぎたいんです。過去を閉じるのではなく、抱えたまま前へ進むために」
朔弥は返事をしなかった。
長い沈黙があった。
中庭の石畳に、雀が一羽降りてきた。しばらくそこにいて、また飛んでいった。
「……好きにしろ」
声が低かった。許可ではなく、諦めに近い言い方だった。でも、止めるとは言わなかった。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「俺は手伝わない」
「分かりました」
朔弥は中庭に視線を戻した。
乃々花は縁側を離れた。
まず、一人で部屋に入った。
鍵は台所に戻してあった。それを使って、引き戸を開けた。
前に入ったときと同じ、古い空気が流れ出てきた。
でも今日は、戸惑いなく中に入った。
窓を開けた。九月の朝の風が入ってきた。
部屋を見回した。
着物は傷んでいない。長年閉じていたが、湿気も黴もなかった。誰かが時々手を入れていたのか、それとも朔弥の結界がこの部屋を守っていたのか、どちらかは分からない。でも、状態はよかった。
文机の上の本は、伏せたまま開いていた。あの和歌のページに。
乃々花はその本を手に取った。
和歌集だった。古い装丁で、何度も読まれた形跡があった。表紙が少し傷んでいるのは、よく触れていたからだろう。
栞代わりに、細い紙が挟んであった。文字が書いてある。くずし字で読みにくかったが、目を凝らすと分かった。
また春を。
二文字だけだった。
昨夜、朔弥が言った言葉と重なった。
また春を見せてくれ。ふじが最後に言った言葉。その言葉を、彼女自身がこの本に書き残していた。
乃々花はその紙を、本に戻した。抜かなかった。
部屋を整え始めて少し経ったころ、廊下で物音がした。
お紺だった。
引き戸の前に立って、中を覗いていた。
「……入っていい?」
「どうぞ」
お紺は部屋に入って、少しの間、立ったままでいた。
着物を見た。文机を見た。鏡台を見た。
「久しぶりに見た」
「入ったことがなかったと言っていましたね」
「入れなかった。でも今日は、なんか入れる気がした」
お紺は鏡台の前にしゃがんだ。
「この鏡台、ふじが大事にしてたのよ。毎朝ここで支度してた」
「きれいな鏡台ですね」
「ふじが磨いてたから。埃を被ってるけど、拭いたら戻ると思う」
お紺はそう言って、自分の袂から手拭いを取り出した。
鏡台を拭き始めた。丁寧に、少しずつ。
乃々花は何も言わなかった。
お紺が手伝うかどうかは、お紺が決めることだ。
しばらくして、鏡台の表面が現れてきた。古い木の色が、きれいだった。
「……きれい」
お紺が呟いた。
「そうですね」
「ふじが磨いてたから、木がいい色になってる」
使い込まれたものの美しさがあった。百年経っても、丁寧に使われた形跡が残っている。
昼前になって、雪丸が来た。
廊下から部屋を覗いて、中に乃々花とお紺がいるのを見て、少し驚いた。
「何してるの」
「部屋を整えています。入りますか」
雪丸はためらってから、部屋に入ってきた。
窓から差し込む光の中に立って、部屋を見回した。
「ここ、初めて入った」
「そうですか」
「朔弥が入るなって言ってたから」
「今日は朔弥さんが許可してくれました」
雪丸は部屋の中を静かに歩いた。畳の感触を確かめるように、ゆっくりと。
棚の前で止まって、花柄の着物を少し触れた。
「きれいな着物」
「そうですね」
「誰のもの?」
「ずっと前にここに住んでいた人のものです」
「もういないの?」
「はい」
雪丸は着物から手を離した。
「……さみしいね」
「そうですね」
「でも、ちゃんと残ってる」
子どもの言葉だったが、それが全てだった。
ちゃんと残っている。百年経っても、ちゃんとここに残っている。
雪丸は窓の外を見た。
「花、あったらよかったのに」
「花?」
「部屋に。きれいな部屋だから、花があったらもっとよかった」
乃々花は少し考えた。
「中庭に何か咲いていますか」
「ちょっと待って」
雪丸は部屋を出て、しばらくして戻ってきた。
手に、小さな野花を持っていた。白い小さな花で、中庭の隅に咲いていたらしい。
「これしかなかった」
「十分です」
花を入れる器を探した。使いかけの紅の入った小さな器を洗って、水を張った。雪丸の野花を挿した。
文机の端に置いた。
部屋に、小さな白い花が生まれた。
たま吉が来たのは、昼過ぎだった。
いつものようにのっそりと廊下を歩いてきて、部屋の前で立ち止まった。
中を覗いて、乃々花とお紺と雪丸がいるのを見た。
「何やってんだ」
「部屋を整えています」
「ふじの部屋か」
「そうです」
たま吉は少しの間、入り口に立っていた。
「俺は関係ない」
「別に来なくていいです」
「分かってる」
でも、立ち去らなかった。
しばらくして、ぼそりと言った。
「荷物が重そうだな」
部屋の隅に、使わない布団や箱が積まれていた。別の場所に移す必要があったものだ。
「一人では難しいと思っていました」
「俺は関係ないけど」
「そうですね」
「……どこに持っていけばいい」
乃々花は少し考えてから、倉の場所を伝えた。
たま吉は文句を言いながら、荷物を担いだ。
重い箱を一つ、肩に乗せて廊下を歩いていく。猫の体で、重い荷物を運ぶのは得意らしかった。
お紺が小声で乃々花に言った。
「ちゃっかり参加してる」
「関係ないと言っていましたが」
「あの子、関係ないって言うときは、たいてい関係あるのよ」
久遠が来たのは、午後の遅い時間だった。
静かに部屋に入ってきて、一通り見回した。
それから、乃々花に言った。
「座布団が」
「はい、一枚裂けていますね。気になっていました」
「直す」
久遠は座布団を持って部屋を出た。
しばらくして、繕われた座布団が戻ってきた。裂けていた部分が、きれいに縫われていた。久遠の縫い目は細かくて、言われなければ分からないくらいだった。
「ありがとうございます」
「座布団は使えるものを使えるようにするだけだ」
久遠は部屋の中を改めて見た。
鏡台はお紺が磨いていた。野花が文机の端にあった。荷物はたま吉が運んで整理されていた。座布団は久遠が繕った。
「あとは」
「着物を畳んで棚に入れます。それから床を拭いて、空気を入れ替えて」
「手伝う」
「ありがとうございます」
五人で、少しずつ、部屋を整えた。
誰かが指示したわけではない。それぞれが、できることを見つけてやった。お紺は鏡台を磨きながら、ふじの話をぽつりぽつりとした。昔ここで笑っていた話、怒っていた話、朔弥を困らせていた話。
雪丸は黙って聞きながら、床の拭き掃除を手伝った。
たま吉は荷物を運びながら、それとなく話の端に相槌を打った。
久遠は縫い物をしながら、時々短く言葉を足した。
賑やかだったり静かだったりしながら、午後の時間が過ぎていった。
部屋が整ったのは、日が傾き始めたころだった。
余分なものが整理されて、使えるものは使えるようになった。鏡台は磨かれて、木の色が戻っていた。着物は畳まれて、棚に収まっていた。座布団は繕われていた。野花が文机の端にある。
一人の部屋だったものが、長屋みんなで手を入れた部屋になっていた。
過去を閉じたのではなく、今の時間とつないだ。
乃々花はそう感じた。
ふじという人がここにいた。それは変わらない。でも、その場所が百年後の今も整えられて、誰かの手が入って、野花が飾られている。それは、過去が閉じていないということだ。
お紺が窓の外を見て、言った。
「ふじも、こっちの方が好きだったと思う」
「そうですか」
「あの人、動いてる方が好きだったから。止まってるのより、誰かが使ってる方が」
雪丸がお紺を見た。
「ここ、誰かが使えるの?」
「どうかしらね」
お紺は乃々花を見た。
乃々花は少し考えた。
「今すぐではないですが、この部屋が誰かの部屋になる日は、来るかもしれません」
「誰かって」
「分かりません。でも、閉じたままより、誰かが使える部屋の方がいいと思います」
雪丸は部屋を見回した。
「ふじさんが使ってた」
「はい」
「だから、誰かが使ってもいい」
「そういうことだと思います」
雪丸は少し頷いた。それで納得したらしかった。
住人たちが部屋に戻って、廊下が静かになったころ、朔弥が現れた。
乃々花は部屋の入り口で道具をまとめていた。
朔弥は廊下に立って、部屋の中を見た。
何も言わなかった。
でも、立ったまま、部屋をゆっくりと見た。
整えられた棚。磨かれた鏡台。繕われた座布団。文机の端の、小さな野花。
窓から夕光が差し込んでいた。部屋が橙色に染まっていた。
朔弥はしばらく、そこに立っていた。
乃々花は道具をまとめる手を止めて、黙っていた。
朔弥が部屋に入った。
一歩だけ。敷居を越えて、一歩だけ中に入った。
文机の前に立って、野花を見た。
それから、本を見た。伏せてある和歌集。
本には触れなかった。ただ、見た。
長い時間だったかもしれないし、短い時間だったかもしれない。乃々花には測れなかった。
やがて朔弥が、文机の前にゆっくりと膝をついた。
座った。百年ぶりに、この部屋に座った。
乃々花は廊下にいた。部屋には入らなかった。
入る必要がなかった。
朔弥に必要なのは、今この瞬間、一人でここにいることだと思ったから。
どのくらい経ったか、朔弥が部屋から出てきた。
乃々花の前に立った。
目が違った。
何かが、少しだけ軽くなったような目をしていた。百年分の重さが全部取れたわけではない。でも、少しだけ、風が通ったような。
「おまえが」
「はい」
「住人たちを連れてきたのか」
「それぞれが来ました。私が呼んだわけではありません」
「……そうか」
朔弥は部屋を振り返った。
夕光の中の、整えられた部屋。
「過去を消したのではないな」
「消せません。消すつもりもありません」
「……分かっている」
朔弥はしばらく部屋を見ていた。
「ふじが」
「はい」
「こういう部屋が好きだった。誰かが使っている部屋が」
「お紺さんも同じことを言っていました」
「そうか」
長い沈黙があった。
夕光が少しずつ薄れていく。部屋の橙色が、少しずつ暗くなっていく。
「朔弥さん」
「何だ」
「私はまだ、あなたに伝えたいことがあります。でも今日ではなく、もう少し先に言います」
朔弥が乃々花を見た。
「何を言うつもりだ」
「今はまだ言えません。でも、必ず言います」
朔弥は少しの間、乃々花を見ていた。
それから、かすかに、ほんのわずかに、表情が動いた。
怒りでも警戒でもなかった。
あえて言葉にするなら、待つ、という顔だった。
百年ぶりに、何かを待つという顔をした人の顔だった。
「……好きにしろ」
いつもの言葉だったが、今日は少し違って聞こえた。
乃々花は深く礼をして、廊下を歩いた。
門を出るとき、振り返った。
月見荘の軒先に、灯りが一つともっていた。
夕暮れの中で、橙色の光が揺れている。
あの部屋の窓にも、うっすら光が見えた。
誰かがいる。今は朔弥一人だが、あの部屋にまた灯りが入っている。
百年前の春で止まっていた部屋が、今夜の時間の中に戻ってきた。
それだけでいい、と乃々花は思った。
過去が今につながった。それだけで、今日は十分だった。
石畳を歩き始めた。
空の端に、最初の星が一つ出ていた。
来年の春、この長屋で桜を見る。
その約束を、今夜は少しだけ確かなものとして持ち帰ることができた気がした。




