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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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17/22

第十七章 空の部屋を整える

 三沢への返事を出したのは、翌朝だった。

 メールの文面は短かった。

 お話いただいた件ですが、今しばらくこちらでの仕事を続けることにしました。ご紹介いただいたお気持ちはありがたく受け取っています。またご縁があれば、よろしくお願いします。

 送信して、スマートフォンをしまった。

 迷いはなかった。昨夜、朔弥の部屋を出たときには、すでに決まっていた。来年の春を一緒に見ると言った。それを守るためには、ここにいなければならない。理由は単純だった。

 門をくぐると、中庭の朝の光がいつも通りだった。

 石畳、木の柱、古い瓦屋根。どれも変わっていない。でも今朝は、少し違って見えた。

 自分で選んだ場所に見えた。


 台所で湯を沸かしながら、乃々花はあの部屋のことを考えていた。

 以前、入ってしまった、閉じた部屋。ふじが住んでいた部屋。花柄の着物、読みかけの本、使いかけの紅、鼈甲の簪。整ったまま時間が止まった部屋。

 ふじさんの話を昨日聞いて、一つだけ気になっていることがあった。

 あの部屋は、今のままでいいのだろうか。

 閉じたままでいいのか。百年前の春で止まったまま、誰も入らず、触れず、時間だけが過ぎていく場所でいいのか。

 過去を消そうとしているのではない。ふじという人がここにいたことを、なかったことにしようというのではない。

 ただ、置き去りにされたまま時間が止まっている場所が、この長屋の中にあることが、少しだけ気になった。

 整える、というのは、捨てることでも消すことでもない。

 そこにあったものを、今の時間につなぐことができるかもしれない。

 乃々花はしばらく考えてから、今日一日かけて確かめてみようと思った。


 朔弥に言ったのは、午前中の早いうちだった。

 縁側で中庭を見ている朔弥に、真正面から向かった。

「朔弥さん、お願いがあります」

「何だ」

「あの部屋を、整えさせて下さい」

 朔弥が乃々花を見た。

「消すためじゃありません。捨てるためでもありません。ただ、あのままにしておくことが、あの部屋にとっていいことなのか、気になっています」

「……」

「ふじさんがいたことは、あの部屋がなくなっても消えません。朔弥さんの中に、住人たちの中に、この長屋の形の中に、残っています」

「俺に、あの部屋を片づけろと言っているのか」

「片づけるとは少し違います」

 乃々花は言葉を選んだ。

「閉じたままの時間を、今の長屋の時間につなぎたいんです。過去を閉じるのではなく、抱えたまま前へ進むために」

 朔弥は返事をしなかった。

 長い沈黙があった。

 中庭の石畳に、雀が一羽降りてきた。しばらくそこにいて、また飛んでいった。

「……好きにしろ」

 声が低かった。許可ではなく、諦めに近い言い方だった。でも、止めるとは言わなかった。

「ありがとうございます」

「ただし」

「はい」

「俺は手伝わない」

「分かりました」

 朔弥は中庭に視線を戻した。

 乃々花は縁側を離れた。


 まず、一人で部屋に入った。

 鍵は台所に戻してあった。それを使って、引き戸を開けた。

 前に入ったときと同じ、古い空気が流れ出てきた。

 でも今日は、戸惑いなく中に入った。

 窓を開けた。九月の朝の風が入ってきた。

 部屋を見回した。

 着物は傷んでいない。長年閉じていたが、湿気も黴もなかった。誰かが時々手を入れていたのか、それとも朔弥の結界がこの部屋を守っていたのか、どちらかは分からない。でも、状態はよかった。

 文机の上の本は、伏せたまま開いていた。あの和歌のページに。

 乃々花はその本を手に取った。

 和歌集だった。古い装丁で、何度も読まれた形跡があった。表紙が少し傷んでいるのは、よく触れていたからだろう。

 栞代わりに、細い紙が挟んであった。文字が書いてある。くずし字で読みにくかったが、目を凝らすと分かった。

 また春を。

 二文字だけだった。

 昨夜、朔弥が言った言葉と重なった。

 また春を見せてくれ。ふじが最後に言った言葉。その言葉を、彼女自身がこの本に書き残していた。

 乃々花はその紙を、本に戻した。抜かなかった。


 部屋を整え始めて少し経ったころ、廊下で物音がした。

 お紺だった。

 引き戸の前に立って、中を覗いていた。

「……入っていい?」

「どうぞ」

 お紺は部屋に入って、少しの間、立ったままでいた。

 着物を見た。文机を見た。鏡台を見た。

「久しぶりに見た」

「入ったことがなかったと言っていましたね」

「入れなかった。でも今日は、なんか入れる気がした」

 お紺は鏡台の前にしゃがんだ。

「この鏡台、ふじが大事にしてたのよ。毎朝ここで支度してた」

「きれいな鏡台ですね」

「ふじが磨いてたから。埃を被ってるけど、拭いたら戻ると思う」

 お紺はそう言って、自分の袂から手拭いを取り出した。

 鏡台を拭き始めた。丁寧に、少しずつ。

 乃々花は何も言わなかった。

 お紺が手伝うかどうかは、お紺が決めることだ。

 しばらくして、鏡台の表面が現れてきた。古い木の色が、きれいだった。

「……きれい」

 お紺が呟いた。

「そうですね」

「ふじが磨いてたから、木がいい色になってる」

 使い込まれたものの美しさがあった。百年経っても、丁寧に使われた形跡が残っている。


 昼前になって、雪丸が来た。

 廊下から部屋を覗いて、中に乃々花とお紺がいるのを見て、少し驚いた。

「何してるの」

「部屋を整えています。入りますか」

 雪丸はためらってから、部屋に入ってきた。

 窓から差し込む光の中に立って、部屋を見回した。

「ここ、初めて入った」

「そうですか」

「朔弥が入るなって言ってたから」

「今日は朔弥さんが許可してくれました」

 雪丸は部屋の中を静かに歩いた。畳の感触を確かめるように、ゆっくりと。

 棚の前で止まって、花柄の着物を少し触れた。

「きれいな着物」

「そうですね」

「誰のもの?」

「ずっと前にここに住んでいた人のものです」

「もういないの?」

「はい」

 雪丸は着物から手を離した。

「……さみしいね」

「そうですね」

「でも、ちゃんと残ってる」

 子どもの言葉だったが、それが全てだった。

 ちゃんと残っている。百年経っても、ちゃんとここに残っている。

 雪丸は窓の外を見た。

「花、あったらよかったのに」

「花?」

「部屋に。きれいな部屋だから、花があったらもっとよかった」

 乃々花は少し考えた。

「中庭に何か咲いていますか」

「ちょっと待って」

 雪丸は部屋を出て、しばらくして戻ってきた。

 手に、小さな野花を持っていた。白い小さな花で、中庭の隅に咲いていたらしい。

「これしかなかった」

「十分です」

 花を入れる器を探した。使いかけの紅の入った小さな器を洗って、水を張った。雪丸の野花を挿した。

 文机の端に置いた。

 部屋に、小さな白い花が生まれた。


 たま吉が来たのは、昼過ぎだった。

 いつものようにのっそりと廊下を歩いてきて、部屋の前で立ち止まった。

 中を覗いて、乃々花とお紺と雪丸がいるのを見た。

「何やってんだ」

「部屋を整えています」

「ふじの部屋か」

「そうです」

 たま吉は少しの間、入り口に立っていた。

「俺は関係ない」

「別に来なくていいです」

「分かってる」

 でも、立ち去らなかった。

 しばらくして、ぼそりと言った。

「荷物が重そうだな」

 部屋の隅に、使わない布団や箱が積まれていた。別の場所に移す必要があったものだ。

「一人では難しいと思っていました」

「俺は関係ないけど」

「そうですね」

「……どこに持っていけばいい」

 乃々花は少し考えてから、倉の場所を伝えた。

 たま吉は文句を言いながら、荷物を担いだ。

 重い箱を一つ、肩に乗せて廊下を歩いていく。猫の体で、重い荷物を運ぶのは得意らしかった。

 お紺が小声で乃々花に言った。

「ちゃっかり参加してる」

「関係ないと言っていましたが」

「あの子、関係ないって言うときは、たいてい関係あるのよ」


 久遠が来たのは、午後の遅い時間だった。

 静かに部屋に入ってきて、一通り見回した。

 それから、乃々花に言った。

「座布団が」

「はい、一枚裂けていますね。気になっていました」

「直す」

 久遠は座布団を持って部屋を出た。

 しばらくして、繕われた座布団が戻ってきた。裂けていた部分が、きれいに縫われていた。久遠の縫い目は細かくて、言われなければ分からないくらいだった。

「ありがとうございます」

「座布団は使えるものを使えるようにするだけだ」

 久遠は部屋の中を改めて見た。

 鏡台はお紺が磨いていた。野花が文机の端にあった。荷物はたま吉が運んで整理されていた。座布団は久遠が繕った。

「あとは」

「着物を畳んで棚に入れます。それから床を拭いて、空気を入れ替えて」

「手伝う」

「ありがとうございます」

 五人で、少しずつ、部屋を整えた。

 誰かが指示したわけではない。それぞれが、できることを見つけてやった。お紺は鏡台を磨きながら、ふじの話をぽつりぽつりとした。昔ここで笑っていた話、怒っていた話、朔弥を困らせていた話。

 雪丸は黙って聞きながら、床の拭き掃除を手伝った。

 たま吉は荷物を運びながら、それとなく話の端に相槌を打った。

 久遠は縫い物をしながら、時々短く言葉を足した。

 賑やかだったり静かだったりしながら、午後の時間が過ぎていった。


 部屋が整ったのは、日が傾き始めたころだった。

 余分なものが整理されて、使えるものは使えるようになった。鏡台は磨かれて、木の色が戻っていた。着物は畳まれて、棚に収まっていた。座布団は繕われていた。野花が文机の端にある。

 一人の部屋だったものが、長屋みんなで手を入れた部屋になっていた。

 過去を閉じたのではなく、今の時間とつないだ。

 乃々花はそう感じた。

 ふじという人がここにいた。それは変わらない。でも、その場所が百年後の今も整えられて、誰かの手が入って、野花が飾られている。それは、過去が閉じていないということだ。

 お紺が窓の外を見て、言った。

「ふじも、こっちの方が好きだったと思う」

「そうですか」

「あの人、動いてる方が好きだったから。止まってるのより、誰かが使ってる方が」

 雪丸がお紺を見た。

「ここ、誰かが使えるの?」

「どうかしらね」

 お紺は乃々花を見た。

 乃々花は少し考えた。

「今すぐではないですが、この部屋が誰かの部屋になる日は、来るかもしれません」

「誰かって」

「分かりません。でも、閉じたままより、誰かが使える部屋の方がいいと思います」

 雪丸は部屋を見回した。

「ふじさんが使ってた」

「はい」

「だから、誰かが使ってもいい」

「そういうことだと思います」

 雪丸は少し頷いた。それで納得したらしかった。


 住人たちが部屋に戻って、廊下が静かになったころ、朔弥が現れた。

 乃々花は部屋の入り口で道具をまとめていた。

 朔弥は廊下に立って、部屋の中を見た。

 何も言わなかった。

 でも、立ったまま、部屋をゆっくりと見た。

 整えられた棚。磨かれた鏡台。繕われた座布団。文机の端の、小さな野花。

 窓から夕光が差し込んでいた。部屋が橙色に染まっていた。

 朔弥はしばらく、そこに立っていた。

 乃々花は道具をまとめる手を止めて、黙っていた。

 朔弥が部屋に入った。

 一歩だけ。敷居を越えて、一歩だけ中に入った。

 文机の前に立って、野花を見た。

 それから、本を見た。伏せてある和歌集。

 本には触れなかった。ただ、見た。

 長い時間だったかもしれないし、短い時間だったかもしれない。乃々花には測れなかった。

 やがて朔弥が、文机の前にゆっくりと膝をついた。

 座った。百年ぶりに、この部屋に座った。

 乃々花は廊下にいた。部屋には入らなかった。

 入る必要がなかった。

 朔弥に必要なのは、今この瞬間、一人でここにいることだと思ったから。


 どのくらい経ったか、朔弥が部屋から出てきた。

 乃々花の前に立った。

 目が違った。

 何かが、少しだけ軽くなったような目をしていた。百年分の重さが全部取れたわけではない。でも、少しだけ、風が通ったような。

「おまえが」

「はい」

「住人たちを連れてきたのか」

「それぞれが来ました。私が呼んだわけではありません」

「……そうか」

 朔弥は部屋を振り返った。

 夕光の中の、整えられた部屋。

「過去を消したのではないな」

「消せません。消すつもりもありません」

「……分かっている」

 朔弥はしばらく部屋を見ていた。

「ふじが」

「はい」

「こういう部屋が好きだった。誰かが使っている部屋が」

「お紺さんも同じことを言っていました」

「そうか」

 長い沈黙があった。

 夕光が少しずつ薄れていく。部屋の橙色が、少しずつ暗くなっていく。

「朔弥さん」

「何だ」

「私はまだ、あなたに伝えたいことがあります。でも今日ではなく、もう少し先に言います」

 朔弥が乃々花を見た。

「何を言うつもりだ」

「今はまだ言えません。でも、必ず言います」

 朔弥は少しの間、乃々花を見ていた。

 それから、かすかに、ほんのわずかに、表情が動いた。

 怒りでも警戒でもなかった。

 あえて言葉にするなら、待つ、という顔だった。

 百年ぶりに、何かを待つという顔をした人の顔だった。

「……好きにしろ」

 いつもの言葉だったが、今日は少し違って聞こえた。

 乃々花は深く礼をして、廊下を歩いた。


 門を出るとき、振り返った。

 月見荘の軒先に、灯りが一つともっていた。

 夕暮れの中で、橙色の光が揺れている。

 あの部屋の窓にも、うっすら光が見えた。

 誰かがいる。今は朔弥一人だが、あの部屋にまた灯りが入っている。

 百年前の春で止まっていた部屋が、今夜の時間の中に戻ってきた。

 それだけでいい、と乃々花は思った。

 過去が今につながった。それだけで、今日は十分だった。

 石畳を歩き始めた。

 空の端に、最初の星が一つ出ていた。

 来年の春、この長屋で桜を見る。

 その約束を、今夜は少しだけ確かなものとして持ち帰ることができた気がした。


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