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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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18/22

第十八章 契約の朝

 三沢から返信が来たのは、メールを送った翌日だった。

 承知しました、という一行と、もし気が変わったときはいつでもご連絡下さい、という一文。それだけだった。

 押しつけがましくない返し方だった。三沢という人は、仕事のできる人間だと改めて思った。

 それから三日後、三沢が月見荘に来た。

 今度は約束なしだった。午前中、乃々花が台所の棚を整理していると、門の外から声がした。

「辰巳さん、いますか」

 出てみると、三沢がいた。今日はスーツではなく、少し落ち着いた色のジャケットを着ていた。仕事の訪問というより、個人で来た、という雰囲気だった。

「三沢さん、どうしましたか」

「少し話があって。朔弥さんにも、できれば」

「中へどうぞ」

 三沢は門をくぐった。

 中庭に入ったとき、石畳を見た。前回来たときと同じ目だった。何かを思い出すような、少し遠い目。


 朔弥を呼ぶと、縁側に来た。

 三沢を見て、特に表情は変えなかった。

「先日はどうも」

「今日は契約の話ではありません」

 三沢は少し間を置いた。

「個人的な話です。聞いていただけますか」

 朔弥は縁側に腰を下ろした。聞く、という意味らしかった。

 乃々花は少し離れたところに立っていた。席を外すべきかと思ったが、三沢が「辰巳さんもいて下さい」と言ったので、縁側の端に腰を下ろした。

「先日ここに来たとき、子どもの頃に迷い込んだかもしれないという話をしました」

「聞いていた」

「その後、少し思い出すことがあって」

 三沢は中庭を見た。

「雨の日でした。七歳か八歳のころだったと思います。この路地に入り込んで、出られなくなって。怖くて、濡れて、どうすればいいか分からなくなったとき」

 朔弥は何も言わなかった。

「誰かに連れてきてもらいました。この長屋に。廊下に座らせてもらって、温かいものを飲んだ。それだけしか覚えていないんですが」

「それだけか」

「もう一つだけ、覚えていることがあります」

 三沢は朔弥を見た。

「白い髪の子どもがいました。最初は怖かったんですが、その子が隣に座ってくれた。それで少し落ち着いた」

 乃々花は少し動いた。

 白い髪の子ども。

 雪丸だ。

「そのことを確かめたくて来ました。夢だったかもしれないと思っていたんですが、この石畳を見たら、夢ではない気がして」

 朔弥は少しの間黙っていた。

「覚えていない」

「そうですか」

「だが、雨の日に迷い込んだ人間の子どもを、追い出したことはない」

 三沢は少し目を細めた。

「そういうことですか」

「それだけだ」

 三沢は中庭を見た。

「ありがとうございます。確かめられてよかった」

 それから少し間を置いて、三沢は続けた。

「本題はここからです」


 三沢がクリップボードを開いた。

 書類が入っていた。前回とは違う書類だった。

「長屋の件ですが、私の方で少し調べました」

「何を調べた」

「この建物を文化的価値のある建造物として申請する方法です」

 乃々花は少し身を乗り出した。

「文化的価値のある建造物、というのは」

「築年数が一定以上で、地域の歴史や文化と関わりのある建物は、保存建築物として登録できる場合があります。取り壊しに対して一定の制限がかかる。補修費用の一部に助成が出るケースもある」

「この長屋は対象になりますか」

「登記上の築年数は百年を超えています。建物の構造も当時の工法を保っている部分が多い。地域の歴史との関わりという点では、もう少し調べる必要がありますが、申請の余地はあると思います」

 朔弥は書類を受け取って、眺めた。

「手続きは」

「私が窓口になります。必要な書類の整理や、行政との調整は私がやります。ただ、建物の歴史についての証言や、内部の状態の確認が必要になります」

「なぜそこまでする」

 朔弥が三沢を見た。

「仕事の範囲を超えている」

「そうですね」

 三沢は少しの間、中庭を見た。

「子どもの頃にここに来たことがある、という話は本当です。確かめに来た、というのも本当です。ただ、もう一つ理由があります」

「何だ」

「この場所が、取り壊されることが、なんとなく嫌だと思ったんです」

 仕事ができて合理的な三沢が、なんとなく、と言った。

「理屈ではないんです。書類を調べていたとき、ここが消えることを考えて、それは違うと思った。なぜそう思うかは、うまく説明できません」

 朔弥は書類から目を上げて、三沢を見た。

「おまえは不動産の人間だ。建物を残すより売る方が、仕事として正しい場合が多いだろう」

「そうですね」

「なのに、こういう動き方をする」

「おかしいですか」

「おかしくはない。ただ」

 朔弥は少し間を置いた。

「……なぜここが嫌かが分かるか」

「分かりません」

「ここは、人ならぬものが多い場所だ。おまえには見えていないだろうが」

「見えていません。でも、来るたびに落ち着く気がします。理由は分からないんですが」

 朔弥は三沢をしばらく見ていた。

 それから、視線を書類に戻した。

「申請の手順を説明しろ」

 三沢の表情が少しだけ緩んだ。

「ありがとうございます」

「礼は後でいい。手順を説明しろ」


 三沢が書類を広げて、申請の流れを説明した。

 乃々花は隣で聞きながら、メモを取った。必要な書類のリスト、行政の窓口、スケジュール感。決して簡単な手続きではなかったが、不可能でもなかった。

 途中で、三沢が乃々花に言った。

「辰巳さんにも協力してもらえますか」

「何をすればいいですか」

「建物の内部の状態を記録したいんです。写真と、状態の記述。どこが傷んでいて、どこが残っているか。家事代行で隅々まで見ているあなたが適任だと思います」

「できます」

「それから、住人の方々のことも」

「住人の方々というのは」

「証人、というと大げさですが、ここに人が住んでいるという事実の確認が必要です。匿名でも構いません。ただ、この建物に人が暮らしているということは、書類に記載できます」

 乃々花は朔弥を見た。

 朔弥は少し考えてから、「構わない」と言った。

「詳細は後で詰める。今日はここまでにしろ」

「分かりました」

 三沢は書類をまとめた。

 立ち上がって、帰り支度をしながら、中庭を一度見た。

「雪丸さんという方は」

 乃々花は少し驚いた。

「名前を知っているんですか」

「子どもの頃に聞いた気がして。その名前の子どもだったかどうかは、確かではありませんが」

 朔弥が答えた。

「ここにいる」

「そうですか」

「会うか」

「いいえ」

 三沢は少し笑った。

「会えない気がします。もし向こうが来てくれるなら別ですが、私から会いに行くことじゃないと思うので」

 それは、この長屋の住人たちに対する正しい態度だと、乃々花は思った。

 こちらから踏み込まない。でも来るものは受け入れる。


 三沢が帰った後、乃々花は書類のコピーを手元に置いて、内容を整理した。

 申請に必要なものを一つずつ確認する。建物の図面、築年数の証明、内部の状態記録、地域との関わりの記述。

 図面は三沢が手配すると言っていた。築年数は登記書類から確認できる。内部の状態記録は乃々花が担当する。地域との関わりについては、もう少し調べる必要がある。

 できることとできないことを分けて、できることから順番に。

 それは乃々花の仕事の仕方だった。

 お紺が台所に入ってきた。

「三沢さん、何の話だったの」

「長屋を保存建築物として申請する話です。うまくいけば、取り壊しを防げるかもしれません」

 お紺は少しの間黙った。

「……本当に?」

「可能性が出てきた、という段階です。確定ではありません」

「でも、可能性がある」

「はい」

 お紺は椅子に腰を下ろした。

「あの人、なんで助けてくれるの」

「子どもの頃にここに来たことがある、と言っていました。それと、なんとなく嫌だと思った、とも」

「なんとなく、か」

「理屈では説明できないものが、あるみたいです」

 お紺は少し笑った。

「人間にも、そういうのがあるのね」

「そうみたいです」

「あたしたちだけじゃないのね、感覚で動くのは」

 乃々花は少し考えた。

「三沢さんは合理的な人です。でも今日の話は、合理的な動き方ではありませんでした」

「だから信用できる気がする」

「私もそう思います」


 午後から、乃々花は建物の状態の記録を始めた。

 スマートフォンで写真を撮りながら、ノートに状態を書き留める。廊下の板の状態、柱の傷み具合、雨戸の建て付け、屋根の状態、台所の配管。

 一つずつ丁寧に確認して、記録する。

 この長屋の全体が、少しずつ頭の中に入ってきた。

 傷んでいる部分はある。でも、構造はしっかりしていた。古い工法で作られた建物は、現代の建物とは違う種類の強さがある。特に柱の組み方が、長く使うことを前提に作られていた。

 久遠の部屋の前を通ったとき、引き戸が開いていた。

「記録作業か」

「はい。建物の状態を確認しています」

「この建物の柱は、本来百年程度では傷まない工法で組んである」

「そうなんですか」

「当時の大工が丁寧に作った。材木の選び方から、組み方まで。簡単には壊れない」

「久遠さんは建物のことも詳しいんですね」

「長くここにいれば分かる」

 久遠は少し考えてから、続けた。

「記録に必要なら、私の知っていることを話す」

「助かります。後で詳しく聞かせていただけますか」

「構わない」

 久遠が知っている建物の歴史は、記録の助けになる。百年以上ここにいる存在の証言は、文書にはないものを含んでいる。


 夕方近く、雪丸が乃々花を見つけて廊下を走ってきた。

「ねえ、さっきの人のこと」

「三沢さんですか」

「うん。なんかあった?」

「長屋を残すための話をしてくれました」

「長屋が残るの?」

「可能性が出てきました。まだ確定ではありませんが」

 雪丸は少しの間考えた。

「さっきの人、子どもの頃にここに来たって言ってた?」

「どこで聞いたんですか」

「廊下で聞こえた」

 お紺と同じく、情報が早い。

「白い髪の子どもに会ったと言っていましたよ」

 雪丸の目が少し動いた。

「……覚えてない」

「覚えていなくていいです。でも、あなたが隣に座ってくれたから、三沢さんは落ち着いたと言っていました。子どもの頃に」

「ぼくが」

「はい」

 雪丸はしばらく黙っていた。

「ぼく、誰かを落ち着かせることができるの?」

「できます。雪丸くんが隣にいると、落ち着くことがあります」

「……凍らせたりするのに?」

「凍らせることもあるし、落ち着かせることもある。どちらも本当のことです」

 雪丸はその言葉を、ゆっくりと受け取った。

 それから、少しだけ背筋が伸びた。

「長屋が残るといいな」

「私もそう思います」

「ぼく、何か手伝える?」

「雪丸くんには、ここにいてほしいです。それだけで十分です」

 雪丸は少し考えてから、頷いた。

「分かった。ここにいる」

 それだけ言って、自室に戻っていった。

 乃々花はその背中を見ながら、久遠の言葉を思い出した。ここに在り続けることが、在り方だ、という言葉を。

 雪丸にとっても、ここにいることが、在り方なのかもしれない。


 夕方、朔弥が台所に来た。

 珍しかった。朔弥が台所に来るのは、用事があるときだけだ。

「記録は進んでいるか」

「今日の分は一通り終わりました。久遠さんから建物の歴史についても少し聞けました」

「三沢の話、本当に進めるつもりか」

「朔弥さんが決めることですが、私は進める価値があると思っています」

「手間がかかる」

「かかります。でも、やれることがある間は、やった方がいいと思います」

 朔弥は台所の棚を見た。

「おまえが来てから、この棚の使い方が変わった」

「使いやすくしました」

「ふじが整えた形を、おまえが少し変えた」

 乃々花は少し驚いた。

「気づいていたんですか」

「変わったことは分かる。ただ」

「ただ?」

「使いやすくなった」

 朔弥はそれだけ言って、台所を出ようとした。

「朔弥さん」

「何だ」

「棚の使い方を変えたことは、申し訳なかったです。確認すればよかった」

「謝ることではない」

「でも」

「ふじが整えたものが全て正しいわけではない。おまえがより使いやすくしたなら、それでいい」

 声のトーンは変わらなかった。でも、その言葉が何を意味するかを、乃々花はゆっくりと受け取った。

 ふじが作ったものを、変えていい、と言った。

 それは、今の長屋に今の時間が流れていることを、朔弥が認めた言葉だった。百年前に止まったままではなく、今も続いている場所だと。

「ありがとうございます」

「何度も礼を言うな」

「大切なことを言ってもらったので」

 朔弥は少し間を置いた。

「……三沢の申請の件、久遠の話も使え。百年以上の証言者がいる建物は、そう多くない」

「はい、そう思っています」

「手が必要なら言え」

 それだけ言って、廊下へ戻っていった。

 乃々花は台所に一人で残って、少しの間、棚を見た。

 ふじが整えて、乃々花が少し変えた棚。

 どちらの手も、今この棚の中にある。

 過去と今が、同じ場所にある。それでいいと思った。

 朔弥が受け入れたのは棚の並びだけではなく、乃々花がこの長屋の今に手を触れることそのもののように思えた。

整えるというのは、元に戻すことではなく、今ここで暮らせる形にすることなのかもしれなかった。 


 帰り道、三沢からメールが来ていた。

 行政の担当者に打診したところ、申請の余地があるという初期の確認が取れた、という内容だった。正式な申請には時間がかかるが、取り壊しの進行を一時止める手続きが先に取れる可能性がある、とも書いてあった。

 それを読んで、乃々花は石畳の上で立ち止まった。

 可能性、という言葉が、少し前より重くなっていた。

 長屋が残るかもしれない。

 まだ確定ではない。まだやることが多い。でも、道が一本、見えてきた。

 空を見上げた。

 九月の夜の空は高くて、星が多かった。

 来年の春、この長屋で桜を見る。

 その約束を守るための道が、少しずつ形を持ち始めていた。

 乃々花は鞄を持ち直して、歩き出した。

 やることがある。明日も、明後日も。記録を続けて、久遠の話を書き留めて、三沢と連絡を取りながら、申請の書類を整える。その合間に、台所の棚を整えて、廊下を拭いて、住人たちの食事を作る。

 全部、続ける。

 月見荘の灯りが、後ろで小さくなっていく。

 振り返らずに歩いた。

 振り返らなくても、あの灯りがそこにあることが分かったから。

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