第十八章 契約の朝
三沢から返信が来たのは、メールを送った翌日だった。
承知しました、という一行と、もし気が変わったときはいつでもご連絡下さい、という一文。それだけだった。
押しつけがましくない返し方だった。三沢という人は、仕事のできる人間だと改めて思った。
それから三日後、三沢が月見荘に来た。
今度は約束なしだった。午前中、乃々花が台所の棚を整理していると、門の外から声がした。
「辰巳さん、いますか」
出てみると、三沢がいた。今日はスーツではなく、少し落ち着いた色のジャケットを着ていた。仕事の訪問というより、個人で来た、という雰囲気だった。
「三沢さん、どうしましたか」
「少し話があって。朔弥さんにも、できれば」
「中へどうぞ」
三沢は門をくぐった。
中庭に入ったとき、石畳を見た。前回来たときと同じ目だった。何かを思い出すような、少し遠い目。
朔弥を呼ぶと、縁側に来た。
三沢を見て、特に表情は変えなかった。
「先日はどうも」
「今日は契約の話ではありません」
三沢は少し間を置いた。
「個人的な話です。聞いていただけますか」
朔弥は縁側に腰を下ろした。聞く、という意味らしかった。
乃々花は少し離れたところに立っていた。席を外すべきかと思ったが、三沢が「辰巳さんもいて下さい」と言ったので、縁側の端に腰を下ろした。
「先日ここに来たとき、子どもの頃に迷い込んだかもしれないという話をしました」
「聞いていた」
「その後、少し思い出すことがあって」
三沢は中庭を見た。
「雨の日でした。七歳か八歳のころだったと思います。この路地に入り込んで、出られなくなって。怖くて、濡れて、どうすればいいか分からなくなったとき」
朔弥は何も言わなかった。
「誰かに連れてきてもらいました。この長屋に。廊下に座らせてもらって、温かいものを飲んだ。それだけしか覚えていないんですが」
「それだけか」
「もう一つだけ、覚えていることがあります」
三沢は朔弥を見た。
「白い髪の子どもがいました。最初は怖かったんですが、その子が隣に座ってくれた。それで少し落ち着いた」
乃々花は少し動いた。
白い髪の子ども。
雪丸だ。
「そのことを確かめたくて来ました。夢だったかもしれないと思っていたんですが、この石畳を見たら、夢ではない気がして」
朔弥は少しの間黙っていた。
「覚えていない」
「そうですか」
「だが、雨の日に迷い込んだ人間の子どもを、追い出したことはない」
三沢は少し目を細めた。
「そういうことですか」
「それだけだ」
三沢は中庭を見た。
「ありがとうございます。確かめられてよかった」
それから少し間を置いて、三沢は続けた。
「本題はここからです」
三沢がクリップボードを開いた。
書類が入っていた。前回とは違う書類だった。
「長屋の件ですが、私の方で少し調べました」
「何を調べた」
「この建物を文化的価値のある建造物として申請する方法です」
乃々花は少し身を乗り出した。
「文化的価値のある建造物、というのは」
「築年数が一定以上で、地域の歴史や文化と関わりのある建物は、保存建築物として登録できる場合があります。取り壊しに対して一定の制限がかかる。補修費用の一部に助成が出るケースもある」
「この長屋は対象になりますか」
「登記上の築年数は百年を超えています。建物の構造も当時の工法を保っている部分が多い。地域の歴史との関わりという点では、もう少し調べる必要がありますが、申請の余地はあると思います」
朔弥は書類を受け取って、眺めた。
「手続きは」
「私が窓口になります。必要な書類の整理や、行政との調整は私がやります。ただ、建物の歴史についての証言や、内部の状態の確認が必要になります」
「なぜそこまでする」
朔弥が三沢を見た。
「仕事の範囲を超えている」
「そうですね」
三沢は少しの間、中庭を見た。
「子どもの頃にここに来たことがある、という話は本当です。確かめに来た、というのも本当です。ただ、もう一つ理由があります」
「何だ」
「この場所が、取り壊されることが、なんとなく嫌だと思ったんです」
仕事ができて合理的な三沢が、なんとなく、と言った。
「理屈ではないんです。書類を調べていたとき、ここが消えることを考えて、それは違うと思った。なぜそう思うかは、うまく説明できません」
朔弥は書類から目を上げて、三沢を見た。
「おまえは不動産の人間だ。建物を残すより売る方が、仕事として正しい場合が多いだろう」
「そうですね」
「なのに、こういう動き方をする」
「おかしいですか」
「おかしくはない。ただ」
朔弥は少し間を置いた。
「……なぜここが嫌かが分かるか」
「分かりません」
「ここは、人ならぬものが多い場所だ。おまえには見えていないだろうが」
「見えていません。でも、来るたびに落ち着く気がします。理由は分からないんですが」
朔弥は三沢をしばらく見ていた。
それから、視線を書類に戻した。
「申請の手順を説明しろ」
三沢の表情が少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
「礼は後でいい。手順を説明しろ」
三沢が書類を広げて、申請の流れを説明した。
乃々花は隣で聞きながら、メモを取った。必要な書類のリスト、行政の窓口、スケジュール感。決して簡単な手続きではなかったが、不可能でもなかった。
途中で、三沢が乃々花に言った。
「辰巳さんにも協力してもらえますか」
「何をすればいいですか」
「建物の内部の状態を記録したいんです。写真と、状態の記述。どこが傷んでいて、どこが残っているか。家事代行で隅々まで見ているあなたが適任だと思います」
「できます」
「それから、住人の方々のことも」
「住人の方々というのは」
「証人、というと大げさですが、ここに人が住んでいるという事実の確認が必要です。匿名でも構いません。ただ、この建物に人が暮らしているということは、書類に記載できます」
乃々花は朔弥を見た。
朔弥は少し考えてから、「構わない」と言った。
「詳細は後で詰める。今日はここまでにしろ」
「分かりました」
三沢は書類をまとめた。
立ち上がって、帰り支度をしながら、中庭を一度見た。
「雪丸さんという方は」
乃々花は少し驚いた。
「名前を知っているんですか」
「子どもの頃に聞いた気がして。その名前の子どもだったかどうかは、確かではありませんが」
朔弥が答えた。
「ここにいる」
「そうですか」
「会うか」
「いいえ」
三沢は少し笑った。
「会えない気がします。もし向こうが来てくれるなら別ですが、私から会いに行くことじゃないと思うので」
それは、この長屋の住人たちに対する正しい態度だと、乃々花は思った。
こちらから踏み込まない。でも来るものは受け入れる。
三沢が帰った後、乃々花は書類のコピーを手元に置いて、内容を整理した。
申請に必要なものを一つずつ確認する。建物の図面、築年数の証明、内部の状態記録、地域との関わりの記述。
図面は三沢が手配すると言っていた。築年数は登記書類から確認できる。内部の状態記録は乃々花が担当する。地域との関わりについては、もう少し調べる必要がある。
できることとできないことを分けて、できることから順番に。
それは乃々花の仕事の仕方だった。
お紺が台所に入ってきた。
「三沢さん、何の話だったの」
「長屋を保存建築物として申請する話です。うまくいけば、取り壊しを防げるかもしれません」
お紺は少しの間黙った。
「……本当に?」
「可能性が出てきた、という段階です。確定ではありません」
「でも、可能性がある」
「はい」
お紺は椅子に腰を下ろした。
「あの人、なんで助けてくれるの」
「子どもの頃にここに来たことがある、と言っていました。それと、なんとなく嫌だと思った、とも」
「なんとなく、か」
「理屈では説明できないものが、あるみたいです」
お紺は少し笑った。
「人間にも、そういうのがあるのね」
「そうみたいです」
「あたしたちだけじゃないのね、感覚で動くのは」
乃々花は少し考えた。
「三沢さんは合理的な人です。でも今日の話は、合理的な動き方ではありませんでした」
「だから信用できる気がする」
「私もそう思います」
午後から、乃々花は建物の状態の記録を始めた。
スマートフォンで写真を撮りながら、ノートに状態を書き留める。廊下の板の状態、柱の傷み具合、雨戸の建て付け、屋根の状態、台所の配管。
一つずつ丁寧に確認して、記録する。
この長屋の全体が、少しずつ頭の中に入ってきた。
傷んでいる部分はある。でも、構造はしっかりしていた。古い工法で作られた建物は、現代の建物とは違う種類の強さがある。特に柱の組み方が、長く使うことを前提に作られていた。
久遠の部屋の前を通ったとき、引き戸が開いていた。
「記録作業か」
「はい。建物の状態を確認しています」
「この建物の柱は、本来百年程度では傷まない工法で組んである」
「そうなんですか」
「当時の大工が丁寧に作った。材木の選び方から、組み方まで。簡単には壊れない」
「久遠さんは建物のことも詳しいんですね」
「長くここにいれば分かる」
久遠は少し考えてから、続けた。
「記録に必要なら、私の知っていることを話す」
「助かります。後で詳しく聞かせていただけますか」
「構わない」
久遠が知っている建物の歴史は、記録の助けになる。百年以上ここにいる存在の証言は、文書にはないものを含んでいる。
夕方近く、雪丸が乃々花を見つけて廊下を走ってきた。
「ねえ、さっきの人のこと」
「三沢さんですか」
「うん。なんかあった?」
「長屋を残すための話をしてくれました」
「長屋が残るの?」
「可能性が出てきました。まだ確定ではありませんが」
雪丸は少しの間考えた。
「さっきの人、子どもの頃にここに来たって言ってた?」
「どこで聞いたんですか」
「廊下で聞こえた」
お紺と同じく、情報が早い。
「白い髪の子どもに会ったと言っていましたよ」
雪丸の目が少し動いた。
「……覚えてない」
「覚えていなくていいです。でも、あなたが隣に座ってくれたから、三沢さんは落ち着いたと言っていました。子どもの頃に」
「ぼくが」
「はい」
雪丸はしばらく黙っていた。
「ぼく、誰かを落ち着かせることができるの?」
「できます。雪丸くんが隣にいると、落ち着くことがあります」
「……凍らせたりするのに?」
「凍らせることもあるし、落ち着かせることもある。どちらも本当のことです」
雪丸はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
それから、少しだけ背筋が伸びた。
「長屋が残るといいな」
「私もそう思います」
「ぼく、何か手伝える?」
「雪丸くんには、ここにいてほしいです。それだけで十分です」
雪丸は少し考えてから、頷いた。
「分かった。ここにいる」
それだけ言って、自室に戻っていった。
乃々花はその背中を見ながら、久遠の言葉を思い出した。ここに在り続けることが、在り方だ、という言葉を。
雪丸にとっても、ここにいることが、在り方なのかもしれない。
夕方、朔弥が台所に来た。
珍しかった。朔弥が台所に来るのは、用事があるときだけだ。
「記録は進んでいるか」
「今日の分は一通り終わりました。久遠さんから建物の歴史についても少し聞けました」
「三沢の話、本当に進めるつもりか」
「朔弥さんが決めることですが、私は進める価値があると思っています」
「手間がかかる」
「かかります。でも、やれることがある間は、やった方がいいと思います」
朔弥は台所の棚を見た。
「おまえが来てから、この棚の使い方が変わった」
「使いやすくしました」
「ふじが整えた形を、おまえが少し変えた」
乃々花は少し驚いた。
「気づいていたんですか」
「変わったことは分かる。ただ」
「ただ?」
「使いやすくなった」
朔弥はそれだけ言って、台所を出ようとした。
「朔弥さん」
「何だ」
「棚の使い方を変えたことは、申し訳なかったです。確認すればよかった」
「謝ることではない」
「でも」
「ふじが整えたものが全て正しいわけではない。おまえがより使いやすくしたなら、それでいい」
声のトーンは変わらなかった。でも、その言葉が何を意味するかを、乃々花はゆっくりと受け取った。
ふじが作ったものを、変えていい、と言った。
それは、今の長屋に今の時間が流れていることを、朔弥が認めた言葉だった。百年前に止まったままではなく、今も続いている場所だと。
「ありがとうございます」
「何度も礼を言うな」
「大切なことを言ってもらったので」
朔弥は少し間を置いた。
「……三沢の申請の件、久遠の話も使え。百年以上の証言者がいる建物は、そう多くない」
「はい、そう思っています」
「手が必要なら言え」
それだけ言って、廊下へ戻っていった。
乃々花は台所に一人で残って、少しの間、棚を見た。
ふじが整えて、乃々花が少し変えた棚。
どちらの手も、今この棚の中にある。
過去と今が、同じ場所にある。それでいいと思った。
朔弥が受け入れたのは棚の並びだけではなく、乃々花がこの長屋の今に手を触れることそのもののように思えた。
整えるというのは、元に戻すことではなく、今ここで暮らせる形にすることなのかもしれなかった。
帰り道、三沢からメールが来ていた。
行政の担当者に打診したところ、申請の余地があるという初期の確認が取れた、という内容だった。正式な申請には時間がかかるが、取り壊しの進行を一時止める手続きが先に取れる可能性がある、とも書いてあった。
それを読んで、乃々花は石畳の上で立ち止まった。
可能性、という言葉が、少し前より重くなっていた。
長屋が残るかもしれない。
まだ確定ではない。まだやることが多い。でも、道が一本、見えてきた。
空を見上げた。
九月の夜の空は高くて、星が多かった。
来年の春、この長屋で桜を見る。
その約束を守るための道が、少しずつ形を持ち始めていた。
乃々花は鞄を持ち直して、歩き出した。
やることがある。明日も、明後日も。記録を続けて、久遠の話を書き留めて、三沢と連絡を取りながら、申請の書類を整える。その合間に、台所の棚を整えて、廊下を拭いて、住人たちの食事を作る。
全部、続ける。
月見荘の灯りが、後ろで小さくなっていく。
振り返らずに歩いた。
振り返らなくても、あの灯りがそこにあることが分かったから。




