第十九章 朔弥の手
十月になった。
朝晩の空気が変わって、長屋の石畳が冷たくなり始めた。夏の終わりに片づけた風鈴の代わりに、久遠が軒先に小さな飾りをつけた。たま吉が縁側で丸くなる時間が増えた。雪丸は朝、台所に来る時間が早くなった。寒い季節の方が元気になる体質らしく、今は一番顔色がいい。
保存建築物の申請は、三沢が言った通り少しずつ進んでいた。
乃々花は合間を見て記録作業を続けていた。建物の各部の写真、状態の記述、久遠から聞いた建物の歴史。三沢との連絡は週に一度、メールと電話で確認している。行政の担当者との打診も続いていて、申請書類の骨格は三沢がほぼ仕上げていた。
まだ確定ではない。でも、道は続いている。
それで十分だと思っていた。
おかしいと気づいたのは、十月の半ばに入ったころだった。
朔弥の様子が、少し変だった。
様子が変だ、というのは分かりにくい変化だった。表情はいつも通り乏しい。言葉はいつも通り少ない。行動もいつも通り淡々としている。
でも、何かが違った。
乃々花が話しかけたとき、反応が少し遅くなっていた。廊下を歩く足音が、ほんの少し軽かった。中庭を見ている時間が、以前より長くなった。
気のせいかもしれない。長く一緒にいると、細かいことが気になりすぎることがある。
でも、乃々花は他人の小さな変化に気づく、という自覚があった。それは長所でもあり、時として空回りの原因にもなる。
だから一週間、黙って見ていた。
お紺に聞いたのは、一週間後だった。
台所でお茶を飲んでいるお紺の向かいに座って、直接聞いた。
「朔弥さんの様子がいつもと違うと思うんですが、気になりますか」
お紺は湯呑みを置いた。
「気になってた」
「どういうふうに違うと思いますか」
「疲れてる。力を使いすぎてる」
「結界ですか」
「それもあると思う。でも、それだけじゃないと思う」
お紺は少し考えた。
「あの人ね、距離を取り始めると疲れるのよ」
「距離を取るのに、疲れる?」
「感情に蓋をするのは体力がいる。特にあの人みたいに、蓋をしてることを自分でも気づいてないくらい深くやってると」
乃々花は少し考えた。
「蓋をしている感情というのは」
「あなたに聞く?」
「教えてもらえますか」
お紺は少し目を細めた。
「あなたがここにいてよかったと思ってる気持ちと、それを認めると怖くなる気持ちが、同時にある。それを両方押し込もうとしてる。だから疲れる」
「怖くなる、というのは」
「また大切にして、また失うことが」
乃々花はお茶を一口飲んだ。
「あの部屋を整えてから、少し距離が縮まったと思っていました」
「縮まったわよ。だからこそ、今怖くなってる。縮まれば縮まるほど、失ったときが怖い」
「それで、先に距離を取ろうとしている」
「そういうこと」
お紺は腕を組んだ。
「あの人のやり方はいつもそう。怖くなると、先に手放そうとする。先に手放せば、失う痛みが少ないと思って」
「でも、その分今が」
「辛くなる。そう、矛盾してるのよ。手放そうとすることで、今を辛くしてる」
乃々花は窓の外を見た。
中庭の石畳が、秋の光の中で光っていた。
「朔弥さんに、言うべきですか」
「あなたが決めること」
「お紺さんならどうしますか」
「あたしなら言う。でも、あたしとあなたは違う」
「違いますか」
「あなたが言うのは、もっと重い。あたしが言っても朔弥は聞き流せる。あなたが言うのは、聞き流せない」
乃々花はその言葉を、しばらく手の中に持っていた。
その日の夕方、乃々花は朔弥を探した。
中庭にいた。
いつもの場所ではなく、中庭の真ん中に立っていた。空を見上げている。空を見ている目が、少し遠かった。
「朔弥さん」
「何だ」
「少し話していいですか」
「作業の話か」
「違います」
朔弥は乃々花を見た。
「あなたの話です」
朔弥の目が少し動いた。
「……縁側に行く」
縁側に移った。二人で並んで腰を下ろした。夕方の光が中庭に落ちていて、石畳が少し赤かった。
「最近、距離を取っていますね」
「何の話だ」
「朔弥さんが、少しずつ距離を取り始めています。私だけではなく、住人たちからも。返事が遅くなった、廊下を通る速さが変わった、台所に来る回数が減った」
「気のせいだ」
「気のせいではないと思います。一週間見ていました」
朔弥は中庭を見た。
「そんなことを見ていたのか」
「見ていました」
「……余計なことを」
「余計かもしれません。でも、気になったので」
朔弥は返事をしなかった。
乃々花は続けた。
「先に手放そうとしているんですか」
「何を」
「また大切にして、また失うことが怖いから、先に距離を取っておこうとしているんですか」
中庭で、枯れ葉が一枚落ちた。
朔弥は答えなかった。
「朔弥さん」
「……おまえには関係ない」
「関係あります」
「なぜ」
「私が距離を取られている側だからです」
朔弥がわずかに動いた。
「私がここにいることを、朔弥さんが少しずつ遠くに置こうとしている。それは私に関係あることです」
「……」
「勝手に諦めないでほしいです」
声に力が入った。
朔弥が乃々花を見た。
「諦める、とは言っていない」
「でも、そうしようとしています。まだ何も起きていないのに、先に手放そうとしています」
「何も起きていないからこそ、今のうちに」
「今のうちに、何ですか」
朔弥は答えなかった。
「距離を取っておけば、私がいなくなっても傷が浅い、ということですか」
「……」
「でも朔弥さん、それは今を壊すことです」
乃々花は少し間を置いた。
「まだ何も終わっていません。私は今ここにいます。来年の春に一緒に桜を見ると言いました。長屋の申請も続いています。何も終わっていないのに、終わったときのことを先に準備して、今を遠ざけている」
「備えることの何が悪い」
「備えることは悪くありません。でも、備えるためにを捨てるのは、違います」
朔弥は中庭を見た。
秋の夕暮れが、少しずつ深くなっていく。
「……百年前もそうだった」
低い声だった。
「ふじが病んでいると分かったとき、俺は少しずつ距離を取り始めた。終わりが来ることを知って、先に備えようとした」
「ふじさんはどうしましたか」
「怒った」
朔弥が囁くような声で言った。
「今のおまえと同じことを言った。勝手に諦めるな、と」
乃々花は少し息を飲んだ。
「それで、どうしたんですか」
「……分からなかった。備えることをやめたら、終わりが来たときに耐えられないと思っていた。でも、距離を取っている間は、ふじの側にいられなかった」
「どちらを選んだんですか」
「最後は、側にいた」
「終わりが来ることへの備えを捨てて、最後の時間を側にいることに使った。後悔はない。でも、その後が長かった」
「その後というのは」
「ふじがいなくなった後が、百年続いた」
中庭が暗くなっていた。
石畳に月の光が落ち始めていた。
「それでも、側にいてよかったと思っていますか」
長い間があった。
朔弥は中庭を見たまま、動かなかった。
「……思っている」
声が少し変わっていた。
「ならば」
乃々花は穏やかな声で声で言った。
「また同じことをして下さい」
朔弥が乃々花を見た。
「備えることをやめて、今ここにいる私の側にいてほしいです。終わりがいつか来るかどうかは、まだ分かりません。でも今は、まだ何も終わっていません」
「おまえは」
「はい」
「分かっているか。俺がそうすれば、また同じことが来る可能性がある」
「分かっています」
「それでも」
「それでもです」
朔弥は乃々花を見ていた。
長い間、見ていた。
百年前に同じ言葉を聞いた人が、百年後にまた同じ言葉を聞いている。でも同じではない。言っている人が違う。この時間が違う。
乃々花はそれを口に出さなかった。
ただ、朔弥が答えるのを待った。
中庭に夜が来た。
月が出て、石畳が白くなった。
住人たちは部屋に戻っていた。長屋は静かだった。
朔弥が、ゆっくりと手を動かした。
縁側に並んで座っていた、その距離を、少し縮めた。
言葉ではなかった。
動作だけだった。
でも乃々花には、その意味が分かった。
朔弥の手が、乃々花の手の近くにあった。触れてはいない。でも、触れられる距離にあった。
それが今夜の朔弥の答えだと、乃々花は思った。
備えることをやめる、という言葉を出せない人が、代わりに距離を縮めた。
乃々花は動かなかった。
その距離のまま、中庭の月を見た。
しばらくして、朔弥の手が動いた。
乃々花の手に、触れた。
そっと、確かめるように。
冷たい手だった。夜の石畳くらい冷たかった。
でも、触れていた。
乃々花はそのまま動かなかった。
朔弥も動かなかった。
月が中庭の真上に来るまで、二人はそこにいた。
月が少し傾いたころ、朔弥が口を開いた。
「おまえは」
声が、いつもより少しだけ近かった。
「はい」
「ふじと、同じではない」
乃々花は少し驚いた。
「同じではないと、思っていますか」
「似ている部分がある。それは分かっている。でも」
朔弥は少し間を置いた。
「おまえは、おまえだ」
その言葉が、静かに落ちた。
百年前の人の話を何度も聞いて、比べられることを恐れていたわけではない。でも、朔弥の口からそれを聞けたことは、乃々花には思っていたより大きかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
「大切なことを言ってもらったので」
「何度も同じことを言うな」
「大切なことは何度言ってもいいと思っています」
朔弥は少し黙った。
それから、かすかに、息を吐いた。
百年分の緊張が少しほぐれたような、そういう吐き方だった。
「来年の春」
「はい」
「一緒に見るのか」
「見ます。約束しました」
「……約束は、人間にとって重いものか」
「重いです。だから言いました」
「俺にとっても重い」
乃々花はその言葉を受け取った。
「では、一緒に重く持ちましょう」
朔弥は返事をしなかった。
でも、乃々花の手に触れた手が、少し力を持った。
握った、というほどではない。ただ、触れた手が、離れなかった。
それだけだった。
でも今夜は、それだけで十分だった。
長屋の夜が深くなった。
虫の声が遠くなって、月が中庭に長い影を落としていた。
乃々花はそろそろ帰る時間だと分かっていたが、立ち上がれなかった。
立ち上がりたくなかった、というのが正確かもしれない。
やがて朔弥が言った。
「今夜は遅い」
「そうですね」
「泊まっていけ」
乃々花は少し驚いた。
「部屋があるか」
「……あの部屋が空いています」
少しの間があった。
「あの部屋、か」
「整えましたから。使えます」
朔弥は中庭を見た。
「……おまえが使うのなら、構わない」
「いいんですか」
「おまえが整えた部屋だ」
私が整えた、でも、ふじさんの部屋でもある、と乃々花は思った。
でも、朔弥がそう言ったなら、今夜はそう受け取ることにした。
「では、今夜だけ」
「今夜だけでなくていい」
乃々花は少し驚いて、朔弥を見た。
「泊まり込む必要があるときは、あの部屋を使え。通うだけでなくていい」
「それは」
「住人たちに馴染んでいるなら、いつ来てもいい」
乃々花はしばらく朔弥を見ていた。
「それは、ここにいていいということですか」
「そういうことになる」
言い方はいつも通りそっけなかった。でも内容は、今まで朔弥が言った中で一番踏み込んだ言葉だった。
乃々花は少し目を閉じた。
来年の春を約束した。あの部屋を整えた。今夜、勝手に諦めないでほしいと言った。そして朔弥が手に触れた。
一つずつ、少しずつ、積み重なってきたものが、今夜少し形になった気がした。
「ありがとうございます」
「また礼か」
「言わずにいられません」
「……好きにしろ」
朔弥は縁側から立ち上がった。
「部屋に布団を出しておく」
「自分で出せます」
「倉の場所は分かるか」
「分かります」
「なら自分で出せ」
矛盾した会話だったが、朔弥は縁側を離れた。
廊下の奥へ歩いていく背中を見ながら、乃々花は少し笑った。
声を出してではなく、口の端だけで、静かに。
あの部屋に布団を敷いて、窓を少し開けた。
夜の空気が入ってきた。秋の、少し冷たい空気。
文机の上に、野花はもうなかった。雪丸が替えると言って、今は小さな松ぼっくりが置いてあった。
布団に入って、天井を見た。
古い木の天井だった。節が一つある。百年以上、この天井がここにある。
ふじという人も、この天井を見ながら眠ったのかもしれない。
乃々花はその思いを、追いかけなかった。
ただ、今夜ここで眠るのが自分だということを、静かに確かめた。
廊下から、朔弥の足音がした。
部屋の前を通る。
止まった。
引き戸の前で、少し止まった。
それから、また歩き始めた。
自室へ向かう足音が、遠くなっていく。
乃々花はそれを聞きながら、目を閉じた。
今夜の朔弥の手の冷たさを、まだ覚えていた。
触れた手が、離れなかったことを、まだ覚えていた。
来年の春、一緒に桜を見る。
その約束が、今夜は昨日より少しだけ、確かな場所にあった。
目を閉じると、月見荘の夜が静かに続いていた。
虫の声が遠くにあって、石畳が月を受けて光っていて、長屋のどこかで誰かの息遣いがあって。
ここが、自分の場所だと思った。
仕事で来た場所ではなく、依頼で来た場所ではなく、自分が選んで、自分がいると決めた場所。
乃々花はそのまま、静かに眠りについた。




