表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/22

第十九章 朔弥の手

 十月になった。

 朝晩の空気が変わって、長屋の石畳が冷たくなり始めた。夏の終わりに片づけた風鈴の代わりに、久遠が軒先に小さな飾りをつけた。たま吉が縁側で丸くなる時間が増えた。雪丸は朝、台所に来る時間が早くなった。寒い季節の方が元気になる体質らしく、今は一番顔色がいい。

 保存建築物の申請は、三沢が言った通り少しずつ進んでいた。

 乃々花は合間を見て記録作業を続けていた。建物の各部の写真、状態の記述、久遠から聞いた建物の歴史。三沢との連絡は週に一度、メールと電話で確認している。行政の担当者との打診も続いていて、申請書類の骨格は三沢がほぼ仕上げていた。

 まだ確定ではない。でも、道は続いている。

 それで十分だと思っていた。


 おかしいと気づいたのは、十月の半ばに入ったころだった。

 朔弥の様子が、少し変だった。

 様子が変だ、というのは分かりにくい変化だった。表情はいつも通り乏しい。言葉はいつも通り少ない。行動もいつも通り淡々としている。

 でも、何かが違った。

 乃々花が話しかけたとき、反応が少し遅くなっていた。廊下を歩く足音が、ほんの少し軽かった。中庭を見ている時間が、以前より長くなった。

 気のせいかもしれない。長く一緒にいると、細かいことが気になりすぎることがある。

 でも、乃々花は他人の小さな変化に気づく、という自覚があった。それは長所でもあり、時として空回りの原因にもなる。

 だから一週間、黙って見ていた。


 お紺に聞いたのは、一週間後だった。

 台所でお茶を飲んでいるお紺の向かいに座って、直接聞いた。

「朔弥さんの様子がいつもと違うと思うんですが、気になりますか」

 お紺は湯呑みを置いた。

「気になってた」

「どういうふうに違うと思いますか」

「疲れてる。力を使いすぎてる」

「結界ですか」

「それもあると思う。でも、それだけじゃないと思う」

 お紺は少し考えた。

「あの人ね、距離を取り始めると疲れるのよ」

「距離を取るのに、疲れる?」

「感情に蓋をするのは体力がいる。特にあの人みたいに、蓋をしてることを自分でも気づいてないくらい深くやってると」

 乃々花は少し考えた。

「蓋をしている感情というのは」

「あなたに聞く?」

「教えてもらえますか」

 お紺は少し目を細めた。

「あなたがここにいてよかったと思ってる気持ちと、それを認めると怖くなる気持ちが、同時にある。それを両方押し込もうとしてる。だから疲れる」

「怖くなる、というのは」

「また大切にして、また失うことが」

 乃々花はお茶を一口飲んだ。

「あの部屋を整えてから、少し距離が縮まったと思っていました」

「縮まったわよ。だからこそ、今怖くなってる。縮まれば縮まるほど、失ったときが怖い」

「それで、先に距離を取ろうとしている」

「そういうこと」

 お紺は腕を組んだ。

「あの人のやり方はいつもそう。怖くなると、先に手放そうとする。先に手放せば、失う痛みが少ないと思って」

「でも、その分今が」

「辛くなる。そう、矛盾してるのよ。手放そうとすることで、今を辛くしてる」

 乃々花は窓の外を見た。

 中庭の石畳が、秋の光の中で光っていた。

「朔弥さんに、言うべきですか」

「あなたが決めること」

「お紺さんならどうしますか」

「あたしなら言う。でも、あたしとあなたは違う」

「違いますか」

「あなたが言うのは、もっと重い。あたしが言っても朔弥は聞き流せる。あなたが言うのは、聞き流せない」

 乃々花はその言葉を、しばらく手の中に持っていた。


 その日の夕方、乃々花は朔弥を探した。

 中庭にいた。

 いつもの場所ではなく、中庭の真ん中に立っていた。空を見上げている。空を見ている目が、少し遠かった。

「朔弥さん」

「何だ」

「少し話していいですか」

「作業の話か」

「違います」

 朔弥は乃々花を見た。

「あなたの話です」

 朔弥の目が少し動いた。

「……縁側に行く」

 縁側に移った。二人で並んで腰を下ろした。夕方の光が中庭に落ちていて、石畳が少し赤かった。

「最近、距離を取っていますね」

「何の話だ」

「朔弥さんが、少しずつ距離を取り始めています。私だけではなく、住人たちからも。返事が遅くなった、廊下を通る速さが変わった、台所に来る回数が減った」

「気のせいだ」

「気のせいではないと思います。一週間見ていました」

 朔弥は中庭を見た。

「そんなことを見ていたのか」

「見ていました」

「……余計なことを」

「余計かもしれません。でも、気になったので」

 朔弥は返事をしなかった。

 乃々花は続けた。

「先に手放そうとしているんですか」

「何を」

「また大切にして、また失うことが怖いから、先に距離を取っておこうとしているんですか」

 中庭で、枯れ葉が一枚落ちた。

 朔弥は答えなかった。

「朔弥さん」

「……おまえには関係ない」

「関係あります」

「なぜ」

「私が距離を取られている側だからです」

 朔弥がわずかに動いた。

「私がここにいることを、朔弥さんが少しずつ遠くに置こうとしている。それは私に関係あることです」

「……」

「勝手に諦めないでほしいです」

 声に力が入った。

 朔弥が乃々花を見た。

「諦める、とは言っていない」

「でも、そうしようとしています。まだ何も起きていないのに、先に手放そうとしています」

「何も起きていないからこそ、今のうちに」

「今のうちに、何ですか」

 朔弥は答えなかった。

「距離を取っておけば、私がいなくなっても傷が浅い、ということですか」

「……」

「でも朔弥さん、それは今を壊すことです」

 乃々花は少し間を置いた。

「まだ何も終わっていません。私は今ここにいます。来年の春に一緒に桜を見ると言いました。長屋の申請も続いています。何も終わっていないのに、終わったときのことを先に準備して、今を遠ざけている」

「備えることの何が悪い」

「備えることは悪くありません。でも、備えるためにを捨てるのは、違います」

 朔弥は中庭を見た。

 秋の夕暮れが、少しずつ深くなっていく。

「……百年前もそうだった」

 低い声だった。

「ふじが病んでいると分かったとき、俺は少しずつ距離を取り始めた。終わりが来ることを知って、先に備えようとした」

「ふじさんはどうしましたか」

「怒った」

 朔弥が囁くような声で言った。

「今のおまえと同じことを言った。勝手に諦めるな、と」

 乃々花は少し息を飲んだ。

「それで、どうしたんですか」

「……分からなかった。備えることをやめたら、終わりが来たときに耐えられないと思っていた。でも、距離を取っている間は、ふじの側にいられなかった」

「どちらを選んだんですか」

「最後は、側にいた」

「終わりが来ることへの備えを捨てて、最後の時間を側にいることに使った。後悔はない。でも、その後が長かった」

「その後というのは」

「ふじがいなくなった後が、百年続いた」

 中庭が暗くなっていた。

 石畳に月の光が落ち始めていた。

「それでも、側にいてよかったと思っていますか」

 長い間があった。

 朔弥は中庭を見たまま、動かなかった。

「……思っている」

 声が少し変わっていた。

「ならば」

 乃々花は穏やかな声で声で言った。

「また同じことをして下さい」

 朔弥が乃々花を見た。

「備えることをやめて、今ここにいる私の側にいてほしいです。終わりがいつか来るかどうかは、まだ分かりません。でも今は、まだ何も終わっていません」

「おまえは」

「はい」

「分かっているか。俺がそうすれば、また同じことが来る可能性がある」

「分かっています」

「それでも」

「それでもです」

 朔弥は乃々花を見ていた。

 長い間、見ていた。

 百年前に同じ言葉を聞いた人が、百年後にまた同じ言葉を聞いている。でも同じではない。言っている人が違う。この時間が違う。

 乃々花はそれを口に出さなかった。

 ただ、朔弥が答えるのを待った。


 中庭に夜が来た。

 月が出て、石畳が白くなった。

 住人たちは部屋に戻っていた。長屋は静かだった。

 朔弥が、ゆっくりと手を動かした。

 縁側に並んで座っていた、その距離を、少し縮めた。

 言葉ではなかった。

 動作だけだった。

 でも乃々花には、その意味が分かった。

 朔弥の手が、乃々花の手の近くにあった。触れてはいない。でも、触れられる距離にあった。

 それが今夜の朔弥の答えだと、乃々花は思った。

 備えることをやめる、という言葉を出せない人が、代わりに距離を縮めた。

 乃々花は動かなかった。

 その距離のまま、中庭の月を見た。

 しばらくして、朔弥の手が動いた。

 乃々花の手に、触れた。

 そっと、確かめるように。

 冷たい手だった。夜の石畳くらい冷たかった。

 でも、触れていた。

 乃々花はそのまま動かなかった。

 朔弥も動かなかった。

 月が中庭の真上に来るまで、二人はそこにいた。


 月が少し傾いたころ、朔弥が口を開いた。

「おまえは」

 声が、いつもより少しだけ近かった。

「はい」

「ふじと、同じではない」

 乃々花は少し驚いた。

「同じではないと、思っていますか」

「似ている部分がある。それは分かっている。でも」

 朔弥は少し間を置いた。

「おまえは、おまえだ」

 その言葉が、静かに落ちた。

 百年前の人の話を何度も聞いて、比べられることを恐れていたわけではない。でも、朔弥の口からそれを聞けたことは、乃々花には思っていたより大きかった。

「……ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない」

「大切なことを言ってもらったので」

「何度も同じことを言うな」

「大切なことは何度言ってもいいと思っています」

 朔弥は少し黙った。

 それから、かすかに、息を吐いた。

 百年分の緊張が少しほぐれたような、そういう吐き方だった。

「来年の春」

「はい」

「一緒に見るのか」

「見ます。約束しました」

「……約束は、人間にとって重いものか」

「重いです。だから言いました」

「俺にとっても重い」

 乃々花はその言葉を受け取った。

「では、一緒に重く持ちましょう」

 朔弥は返事をしなかった。

 でも、乃々花の手に触れた手が、少し力を持った。

 握った、というほどではない。ただ、触れた手が、離れなかった。

 それだけだった。

 でも今夜は、それだけで十分だった。


 長屋の夜が深くなった。

 虫の声が遠くなって、月が中庭に長い影を落としていた。

 乃々花はそろそろ帰る時間だと分かっていたが、立ち上がれなかった。

 立ち上がりたくなかった、というのが正確かもしれない。

 やがて朔弥が言った。

「今夜は遅い」

「そうですね」

「泊まっていけ」

 乃々花は少し驚いた。

「部屋があるか」

「……あの部屋が空いています」

 少しの間があった。

「あの部屋、か」

「整えましたから。使えます」

 朔弥は中庭を見た。

「……おまえが使うのなら、構わない」

「いいんですか」

「おまえが整えた部屋だ」

 私が整えた、でも、ふじさんの部屋でもある、と乃々花は思った。

 でも、朔弥がそう言ったなら、今夜はそう受け取ることにした。

「では、今夜だけ」

「今夜だけでなくていい」

 乃々花は少し驚いて、朔弥を見た。

「泊まり込む必要があるときは、あの部屋を使え。通うだけでなくていい」

「それは」

「住人たちに馴染んでいるなら、いつ来てもいい」

 乃々花はしばらく朔弥を見ていた。

「それは、ここにいていいということですか」

「そういうことになる」

 言い方はいつも通りそっけなかった。でも内容は、今まで朔弥が言った中で一番踏み込んだ言葉だった。

 乃々花は少し目を閉じた。

 来年の春を約束した。あの部屋を整えた。今夜、勝手に諦めないでほしいと言った。そして朔弥が手に触れた。

 一つずつ、少しずつ、積み重なってきたものが、今夜少し形になった気がした。

「ありがとうございます」

「また礼か」

「言わずにいられません」

「……好きにしろ」

 朔弥は縁側から立ち上がった。

「部屋に布団を出しておく」

「自分で出せます」

「倉の場所は分かるか」

「分かります」

「なら自分で出せ」

 矛盾した会話だったが、朔弥は縁側を離れた。

 廊下の奥へ歩いていく背中を見ながら、乃々花は少し笑った。

 声を出してではなく、口の端だけで、静かに。


 あの部屋に布団を敷いて、窓を少し開けた。

 夜の空気が入ってきた。秋の、少し冷たい空気。

 文机の上に、野花はもうなかった。雪丸が替えると言って、今は小さな松ぼっくりが置いてあった。

 布団に入って、天井を見た。

 古い木の天井だった。節が一つある。百年以上、この天井がここにある。

 ふじという人も、この天井を見ながら眠ったのかもしれない。

 乃々花はその思いを、追いかけなかった。

 ただ、今夜ここで眠るのが自分だということを、静かに確かめた。

 廊下から、朔弥の足音がした。

 部屋の前を通る。

 止まった。

 引き戸の前で、少し止まった。

 それから、また歩き始めた。

 自室へ向かう足音が、遠くなっていく。

 乃々花はそれを聞きながら、目を閉じた。

 今夜の朔弥の手の冷たさを、まだ覚えていた。

 触れた手が、離れなかったことを、まだ覚えていた。

 来年の春、一緒に桜を見る。

 その約束が、今夜は昨日より少しだけ、確かな場所にあった。

 目を閉じると、月見荘の夜が静かに続いていた。

 虫の声が遠くにあって、石畳が月を受けて光っていて、長屋のどこかで誰かの息遣いがあって。

 ここが、自分の場所だと思った。

 仕事で来た場所ではなく、依頼で来た場所ではなく、自分が選んで、自分がいると決めた場所。

 乃々花はそのまま、静かに眠りについた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ