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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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20/22

第二十章 家事代行人のいない朝

 乃々花が長屋を離れたのは、十月の終わりだった。

 理由は一つではなかった。

 まず、保存建築物の申請に必要な書類の一部が、行政の窓口へ直接持ち込む必要があった。三沢が窓口の担当者との打ち合わせを設定してくれていて、乃々花も同席することになっていた。建物の状態について、現場を見ている人間の証言が必要だったからだ。

 それから、前の職場の後輩から連絡が来ていた。退職してから初めての連絡で、会いたいという内容だった。断る理由がなかったし、会っておくべき気がした。

 それから、自分の部屋の整理が必要だった。

 長屋に泊まることが増えて、自分のアパートに戻る頻度が下がっていた。荷物の整理をして、必要なものと不要なものを分けて、月見荘へ持ち込むものを決める必要があった。

 朔弥に言うと、「いつ戻る」と聞かれた。

「二日か、三日で戻ります」

「三日か」

「長いですか」

「長くはない」

 長くはない、と言ったが、声が少しだけ間を置いた。

「用事が終わったら戻ります」

「分かった」

 それだけだった。

 門を出るとき、振り返ると、朔弥が縁側に立っていた。

 乃々花を見ていた。

 目が合って、朔弥は視線を逸らした。

 それを見て、乃々花は早く戻ろうと思った。


 行政の窓口での打ち合わせは、午前中に終わった。

 三沢が書類を揃えていて、担当者への説明も的確だった。乃々花は建物の状態について聞かれたことに答えた。内部の構造がしっかりしていること、百年以上使われてきた形跡が残っていること、現在も複数の住人が暮らしていること。

 担当者は書類を確認しながら、いくつか追加で必要な書類を示した。おおむね問題なく進んでいる、という印象だった。

 打ち合わせが終わって、三沢と近くの喫茶店に入った。

「うまくいきそうですか」

「今のところは」

 三沢はコーヒーを一口飲んだ。

「辰巳さん、あの長屋に住むことにしたんですか」

「正式にはまだですが、そういう方向です」

「そうですか」

 三沢は窓の外を見た。

「私が最初に行ったとき、あなたは家事代行として通っていた。それが今は住む方向になっている」

「変わりました」

「どこで変わったんですか」

 乃々花は少し考えた。

「どこで、というのは難しいですが、気づいたら変わっていました」

「気づいたら」

「放っておけない、という気持ちが、気づいたら居場所になっていました」

 三沢は乃々花を見た。

「合理的な判断ではないですよね」

「合理的ではないと思います」

「でも後悔していない」

「していません」

 三沢は少しの間黙っていた。

「私もそういう経験が一度あります。合理的ではないと分かっていて、それでも動いた」

「どんな経験ですか」

「この仕事を選んだときです。もっと条件のいい仕事があったのに、不動産を選んだ。理由は、場所と人をつなぐ仕事がしたかったから。それだけで、特に合理的な根拠はなかった」

「今は後悔していますか」

「していません」

 三沢はコーヒーを置いた。

「申請が通れば、しばらくは取り壊しの問題は後退します。ただ、永続的な保証ではありません。定期的な状態確認と、メンテナンスの記録が必要になります」

「続けます」

「そうですか」

「それが私にできることなので」

 三沢は少し笑った。仕事のときとは違う、個人の顔だった。

「あの長屋、変わった場所ですね。行くたびに、何か落ち着くんです。理由は分からないんですが」

「住人たちのせいかもしれません」

「あなたのせいもあると思います」

「私ですか」

「整えられた場所には、整えた人の気配が残る。あの長屋にはあなたの気配がある」

 乃々花はその言葉を、少し意外に感じながら受け取った。


 後輩と会ったのは、その日の夕方だった。

 前の職場の後輩で、名前は佐々木といった。入社二年目で、乃々花が退職するまで一番長く組んでいた相手だ。

 近くの定食屋に入って、向かいに座った。

「久しぶりですね、先輩」

「そうですね。元気でしたか」

「はい。先輩は?」

「元気です」

「どこかで仕事してるんですか」

「ええ、今も家事代行を」

「そうですか」

 佐々木は少し間を置いた。

「先輩が辞めた後、気になってたんです」

「何が」

「退職のとき、先輩に言ったこと」

 乃々花は少し、身構えた。

「あなたは正しいけど、冷たい」と言ったのは、この佐々木だった。

「覚えていますか」

「覚えています」

「後悔しているんです、あの言い方を」

 乃々花は少し驚いた。

「間違っていなかったと思います」

「言い方が悪かった。本当に言いたかったことは、もっと別のことで」

「何を言いたかったんですか」

 佐々木は定食を少し食べてから、続けた。

「先輩は正しいことをする。それは本当のことです。でも、正しいことをするためのコストを、先輩自身が一番払っていた。それを誰も助けないまま、先輩だけが払い続けていた。それがおかしかったと、今なら思います」

「つまり」

「冷たかったのは先輩じゃなかった。周りの方が、先輩に対して冷たかったかもしれない。あの職場が、先輩に合っていなかっただけだと思います」

 乃々花はしばらく黙った。

「そう言ってくれると、助かります」

「遅すぎましたが」

「いいえ、十分です」

 乃々花は定食を一口食べた。

「私も、少し変わりました」

「変わったんですか」

「正しいことより先に、相手を見るということが、少しずつできるようになってきた気がします」

「どこで?」

「今の仕事先で」

 佐々木は少し目を丸くした。

「家事代行先で、そういうことを?」

「変わった場所なんです」

「どう変わってるんですか」

 乃々花は少し考えた。

「普通ではない人たちが住んでいます。でも、それぞれちゃんと暮らしていて、それぞれ事情を抱えていて、整えることが必要な場所でした」

「先輩がそこで変わったんですね」

「変えてもらった、という方が正確かもしれません」

 佐々木は少し笑った。

「先輩が変えてもらった、というのは、なんか想像しにくいですが」

「私もそう思います。でも、本当のことです」


 自分のアパートに戻ったのは、夜になってからだった。

 二か月以上ほとんど使っていなかったアパートは、空気が止まっていた。

 窓を開けて、空気を入れた。

 月見荘と違って、何の音もしない。住人たちの気配がない。出汁の匂いがない。廊下を誰かが歩く音がない。

 静かだった。

 静かすぎた。

 乃々花はアパートの床に座って、部屋を見回した。

 最小限の家具。必要なものだけを置いた部屋。整っているが、何もない部屋。

 ここで三か月暮らしていた。前の職場を辞めてから、次の仕事が決まらないまま、この部屋で過ごしていた。

 今は、この部屋より月見荘の方が自分の場所に感じる。

 それがいつからかは分からないが、気づいたらそうなっていた。


 翌朝、月見荘で何が起きているか、乃々花には分からなかった。

 でも、夕方に雪丸からメールが来た。

 雪丸がスマートフォンを使えることを、乃々花は最近知った。お紺に教わったらしい。文字を打つのはまだ遅いが、短いメールなら送れる。

 メールにはこう書いてあった。

「あさごはんがなかった」

 それだけだった。

 乃々花は少し笑って、返信した。

「明後日には戻ります。それまで台所の棚に干し芋がありますから、困ったらそれを」

 しばらくして返信が来た。

「たまきちがぜんぶたべた」

 乃々花はもう一度笑って、スマートフォンをしまった。


 荷物の整理を始めたのは、二日目の朝だった。

 持っていくものと、ここに残すもの、処分するものを分けた。

 衣類は必要な分だけ。道具はほとんど持っていく。本は一部だけ。

 整理しながら、乃々花は月見荘のことを考えた。

 今、長屋はどんな様子だろう。

 朔弥は縁側にいるだろうか。お紺は廊下を歩いているだろうか。雪丸は台所を覗いているだろうか。たま吉は縁側で丸くなっているだろうか。久遠は針仕事をしているだろうか。

 考えると、早く戻りたくなった。

 三日と言ったが、二日で終わるかもしれない。

 夕方、お紺からも連絡が来た。お紺はスマートフォンの扱いが慣れていて、長い文章を送ってくる。

「朔弥が今日、台所で何かを探してたけど何も見つからなかったみたいで、そのまま縁側に座ってた。たぶん番茶の場所が分からなかったんだと思う。棚のどこにあるか教えといて」

 乃々花は棚の配置をテキストで送った。

「それと」とお紺は続けた。「朔弥が今日、廊下の端まで行って戻ってきて、また行って戻ってきてた。あなたが来る方向を見てたと思う。言わなくていいけど、一応」

 乃々花はその文章を、二度読んだ。

 三度読んだ。

 それからスマートフォンをしまって、荷物の整理を続けた。でも手が早くなっていた。


 夕方、久遠からも短い連絡が来た。

 久遠がスマートフォンを使えることを、乃々花は知らなかった。でも、短いメールが一通届いた。

「台所の火の始末を誰がするか、住人たちで揉めた。たま吉が鍋を焦がした。問題はない」

 問題はない、と書いてあるが、問題はあったのだと思う。

 乃々花は苦笑いして、久遠に返信した。

「鍋は明後日確認します。申し訳ありません」

 すぐに返信が来た。

「謝ることではない。ただ、早めに戻ると良い」


 二日目の夜、荷物の整理がほぼ終わった。

 月見荘へ持っていく荷物が一袋。アパートに残す荷物が少し。処分するものが一箱。

 アパートは随分と軽くなった。

 もともと少なかったが、さらに少なくなった。

 乃々花は空になった棚を見た。

 三か月前、ここで次の仕事が決まらないまま過ごしていた。財布にも気持ちにも余裕がなかった。雨の日の依頼を受けて、変な路地の奥の長屋に行った。

 あのとき引き返さなくてよかったと、今は思う。

 引き返していたら、何も変わらなかった。

 変わったのは、踏み込んだからだ。踏み込んで、追い出されて、それでも戻って、少しずつ居場所になっていった。

 アパートを見回した。

 ここには、乃々花の時間があまりなかった。三か月分の時間があるはずだが、薄い。生活した跡があまりない。

 月見荘には、もう乃々花の時間がある。台所の棚の配置に、廊下の拭き方に、雪丸が毎朝来る習慣に、たま吉が縁側から台所を覗く癖に。

 自分の時間が、あの場所に根を張り始めていた。


 三日目の朝、予定より一日早く荷物をまとめた。

 アパートを出て、荷物を持って、月見荘へ向かった。

 路地に入ると、いつもの変化があった。雨音が遠のくような、一枚膜を隔てるような感覚。でも今日は雨が降っていないので、ただ空気が変わる感覚だけがあった。

 それが今は、帰ってきた、という感覚に近かった。

 門をくぐった。

 中庭に入ったとき、縁側に朔弥がいた。

 いつもの場所に、いつものように座っている。中庭を見ている。

 乃々花が入ってきたことに気づいて、朔弥が振り返った。

 目が合った。

 朔弥の目が、一瞬だけ変わった。

 何か、ほんの少し、力が抜けたような変わり方をした。

「戻った」

「予定より一日早いですが」

「……そうか」

「ご迷惑でしたか」

「迷惑ではない」

 朔弥は縁側を立った。

 そのまま廊下に入っていこうとして、乃々花の前で止まった。

「番茶の場所が変わっていた」

「先月整理したときに移しました。一番取りやすい位置に」

「メールに書いてあった」

「読んでくれたんですね」

「読んだ」

 朔弥は少し間を置いた。

「台所の棚は、全部おまえが分かる位置に置け」

「私がいないときも、住人の皆さんが使えるようにした方が」

「どこに何があるか、おまえが分かる位置にしろ」

 それは、乃々花がここにいることを前提にした言い方だった。

 乃々花がここにいて、台所を管理して、住人たちの食事を作ることを、当たり前のこととして言っていた。

「……分かりました」

「鍋は確認しろ。たま吉が焦がした」

「承知しています。久遠さんから連絡がありました」

「久遠が連絡を」

「短いメールでした。問題はないが早めに戻ると良い、と」

 朔弥は少し間を置いた。

「余計なことを」

「ありがたかったです」

 朔弥は廊下へ歩いた。

 二歩ほど行って、止まった。

 振り返らずに言った。

「……朝食がなかった」

「二日分ですか」

「三日分だ」

 三日分。でも乃々花がいなくなったのは今朝で三日目の朝、つまり二日間しか経っていない。

「今日の分は、これから作ります」

「そうしろ」

 朔弥は廊下を歩いていった。

 その背中を見ながら、乃々花は少し笑った。

 三日分、という言葉の意味を考えた。

 二日間いなかっただけなのに、三日分だと言った。

 今日乃々花がいない朝も、カウントしていた。

 まだ終わっていない今日の朝も、乃々花がいない朝として数えていた。

 それだけのことだったが、それだけのことが、乃々花には十分だった。


 台所に入ると、お紺が入り口で待っていた。

「おかえり」

「ただいまです」

「早かったわね」

「荷物の整理が終わりました」

「ここに持ってきたの?」

「少し」

 お紺は乃々花の荷物を見た。

「増えてきたわね、あなたのもの」

「増やしすぎましたか」

「ちょうどいいわよ。ここはもともと物が少ない長屋だから」

 お紺は台所の方を顎で示した。

「鍋、見てあげて。たま吉が昨日やらかした。本人は全然反省してない」

「見ます」

「あと、雪丸がずっとそわそわしてた。あなたが戻ったら教えてあげて」

「分かりました」

 お紺は廊下へ戻っていった。

 乃々花は台所に入って、鍋の状態を確認した。

 焦がした跡があった。でも素材は大丈夫だった。丁寧に洗えば使える。

 焦がした跡をながめながら、乃々花は少し考えた。

 二日間いなかっただけで、台所は少し荒れた。朔弥は番茶の場所が分からなかった。たま吉が鍋を焦がした。雪丸がそわそわしていた。朔弥が廊下の端まで行って戻ってくることを繰り返した。

 いなくなって、初めて見えるものがある。

 自分がここにいることが、この長屋の時間の中に入り込んでいた。

 誰かの生活の中に入り込む、ということは、こういうことだった。

 代わりがいない、ということではない。でも、いることとの違いが、いなくなったときに分かる。

 それは、家事代行として初めてここに来たときには、なかったものだった。

 仕事として来て、いつの間にか、この長屋の時間の一部になっていた。


 昼の支度を始めると、雪丸が台所に飛び込んできた。

 いつもの静かな雪丸ではなく、少し走り足で来た。

「ののかさん!」

「おかえりなさいは私が言う側ですが」

「おかえり!」

「ただいまです」

 雪丸は台所の入り口で少し息を整えた。白い髪が少し乱れていた。

「昨日、一昨日、今日の朝、ごはんがなかった」

「それは申し訳なかったです。でも、昨日は棚に干し芋を」

「たまきちが食べた」

「そうですね。干し芋の場所を変えておきます」

「来年も、また祭りに行ける?」

 突然の話題の転換だった。

「来年の話は」

「来年考えましょうって言ったのは知ってる。でも、聞きたかった」

 乃々花は雪丸を見た。

「ののかさんがここにいれば、行けるよね」

「いれば、行けます」

「じゃあ、ここにいる?」

「はい。いる予定です」

 雪丸は少しの間乃々花を見ていた。

 それから、ふわりと笑った。

 声を出さない、静かな笑いだった。でも、全部がそこにあった。

「よかった」

 それだけ言って、台所の隅にいつもの場所に腰を下ろした。

 乃々花は米を研ぎながら、その様子を横目で見た。

 雪丸がそこにいる。いつもの場所に。

 それが、この台所の当たり前の光景になっていた。

 当たり前の光景が、当たり前にある場所に、自分がいる。

 乃々花は米を研ぐ手を続けながら、窓の外の秋の空を見た。

 高くて、青くて、少し風がある空。

 この空の下に、月見荘がある。

 帰ってきた、という感覚が、今日は言葉より先にあった。


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