第二十章 家事代行人のいない朝
乃々花が長屋を離れたのは、十月の終わりだった。
理由は一つではなかった。
まず、保存建築物の申請に必要な書類の一部が、行政の窓口へ直接持ち込む必要があった。三沢が窓口の担当者との打ち合わせを設定してくれていて、乃々花も同席することになっていた。建物の状態について、現場を見ている人間の証言が必要だったからだ。
それから、前の職場の後輩から連絡が来ていた。退職してから初めての連絡で、会いたいという内容だった。断る理由がなかったし、会っておくべき気がした。
それから、自分の部屋の整理が必要だった。
長屋に泊まることが増えて、自分のアパートに戻る頻度が下がっていた。荷物の整理をして、必要なものと不要なものを分けて、月見荘へ持ち込むものを決める必要があった。
朔弥に言うと、「いつ戻る」と聞かれた。
「二日か、三日で戻ります」
「三日か」
「長いですか」
「長くはない」
長くはない、と言ったが、声が少しだけ間を置いた。
「用事が終わったら戻ります」
「分かった」
それだけだった。
門を出るとき、振り返ると、朔弥が縁側に立っていた。
乃々花を見ていた。
目が合って、朔弥は視線を逸らした。
それを見て、乃々花は早く戻ろうと思った。
行政の窓口での打ち合わせは、午前中に終わった。
三沢が書類を揃えていて、担当者への説明も的確だった。乃々花は建物の状態について聞かれたことに答えた。内部の構造がしっかりしていること、百年以上使われてきた形跡が残っていること、現在も複数の住人が暮らしていること。
担当者は書類を確認しながら、いくつか追加で必要な書類を示した。おおむね問題なく進んでいる、という印象だった。
打ち合わせが終わって、三沢と近くの喫茶店に入った。
「うまくいきそうですか」
「今のところは」
三沢はコーヒーを一口飲んだ。
「辰巳さん、あの長屋に住むことにしたんですか」
「正式にはまだですが、そういう方向です」
「そうですか」
三沢は窓の外を見た。
「私が最初に行ったとき、あなたは家事代行として通っていた。それが今は住む方向になっている」
「変わりました」
「どこで変わったんですか」
乃々花は少し考えた。
「どこで、というのは難しいですが、気づいたら変わっていました」
「気づいたら」
「放っておけない、という気持ちが、気づいたら居場所になっていました」
三沢は乃々花を見た。
「合理的な判断ではないですよね」
「合理的ではないと思います」
「でも後悔していない」
「していません」
三沢は少しの間黙っていた。
「私もそういう経験が一度あります。合理的ではないと分かっていて、それでも動いた」
「どんな経験ですか」
「この仕事を選んだときです。もっと条件のいい仕事があったのに、不動産を選んだ。理由は、場所と人をつなぐ仕事がしたかったから。それだけで、特に合理的な根拠はなかった」
「今は後悔していますか」
「していません」
三沢はコーヒーを置いた。
「申請が通れば、しばらくは取り壊しの問題は後退します。ただ、永続的な保証ではありません。定期的な状態確認と、メンテナンスの記録が必要になります」
「続けます」
「そうですか」
「それが私にできることなので」
三沢は少し笑った。仕事のときとは違う、個人の顔だった。
「あの長屋、変わった場所ですね。行くたびに、何か落ち着くんです。理由は分からないんですが」
「住人たちのせいかもしれません」
「あなたのせいもあると思います」
「私ですか」
「整えられた場所には、整えた人の気配が残る。あの長屋にはあなたの気配がある」
乃々花はその言葉を、少し意外に感じながら受け取った。
後輩と会ったのは、その日の夕方だった。
前の職場の後輩で、名前は佐々木といった。入社二年目で、乃々花が退職するまで一番長く組んでいた相手だ。
近くの定食屋に入って、向かいに座った。
「久しぶりですね、先輩」
「そうですね。元気でしたか」
「はい。先輩は?」
「元気です」
「どこかで仕事してるんですか」
「ええ、今も家事代行を」
「そうですか」
佐々木は少し間を置いた。
「先輩が辞めた後、気になってたんです」
「何が」
「退職のとき、先輩に言ったこと」
乃々花は少し、身構えた。
「あなたは正しいけど、冷たい」と言ったのは、この佐々木だった。
「覚えていますか」
「覚えています」
「後悔しているんです、あの言い方を」
乃々花は少し驚いた。
「間違っていなかったと思います」
「言い方が悪かった。本当に言いたかったことは、もっと別のことで」
「何を言いたかったんですか」
佐々木は定食を少し食べてから、続けた。
「先輩は正しいことをする。それは本当のことです。でも、正しいことをするためのコストを、先輩自身が一番払っていた。それを誰も助けないまま、先輩だけが払い続けていた。それがおかしかったと、今なら思います」
「つまり」
「冷たかったのは先輩じゃなかった。周りの方が、先輩に対して冷たかったかもしれない。あの職場が、先輩に合っていなかっただけだと思います」
乃々花はしばらく黙った。
「そう言ってくれると、助かります」
「遅すぎましたが」
「いいえ、十分です」
乃々花は定食を一口食べた。
「私も、少し変わりました」
「変わったんですか」
「正しいことより先に、相手を見るということが、少しずつできるようになってきた気がします」
「どこで?」
「今の仕事先で」
佐々木は少し目を丸くした。
「家事代行先で、そういうことを?」
「変わった場所なんです」
「どう変わってるんですか」
乃々花は少し考えた。
「普通ではない人たちが住んでいます。でも、それぞれちゃんと暮らしていて、それぞれ事情を抱えていて、整えることが必要な場所でした」
「先輩がそこで変わったんですね」
「変えてもらった、という方が正確かもしれません」
佐々木は少し笑った。
「先輩が変えてもらった、というのは、なんか想像しにくいですが」
「私もそう思います。でも、本当のことです」
自分のアパートに戻ったのは、夜になってからだった。
二か月以上ほとんど使っていなかったアパートは、空気が止まっていた。
窓を開けて、空気を入れた。
月見荘と違って、何の音もしない。住人たちの気配がない。出汁の匂いがない。廊下を誰かが歩く音がない。
静かだった。
静かすぎた。
乃々花はアパートの床に座って、部屋を見回した。
最小限の家具。必要なものだけを置いた部屋。整っているが、何もない部屋。
ここで三か月暮らしていた。前の職場を辞めてから、次の仕事が決まらないまま、この部屋で過ごしていた。
今は、この部屋より月見荘の方が自分の場所に感じる。
それがいつからかは分からないが、気づいたらそうなっていた。
翌朝、月見荘で何が起きているか、乃々花には分からなかった。
でも、夕方に雪丸からメールが来た。
雪丸がスマートフォンを使えることを、乃々花は最近知った。お紺に教わったらしい。文字を打つのはまだ遅いが、短いメールなら送れる。
メールにはこう書いてあった。
「あさごはんがなかった」
それだけだった。
乃々花は少し笑って、返信した。
「明後日には戻ります。それまで台所の棚に干し芋がありますから、困ったらそれを」
しばらくして返信が来た。
「たまきちがぜんぶたべた」
乃々花はもう一度笑って、スマートフォンをしまった。
荷物の整理を始めたのは、二日目の朝だった。
持っていくものと、ここに残すもの、処分するものを分けた。
衣類は必要な分だけ。道具はほとんど持っていく。本は一部だけ。
整理しながら、乃々花は月見荘のことを考えた。
今、長屋はどんな様子だろう。
朔弥は縁側にいるだろうか。お紺は廊下を歩いているだろうか。雪丸は台所を覗いているだろうか。たま吉は縁側で丸くなっているだろうか。久遠は針仕事をしているだろうか。
考えると、早く戻りたくなった。
三日と言ったが、二日で終わるかもしれない。
夕方、お紺からも連絡が来た。お紺はスマートフォンの扱いが慣れていて、長い文章を送ってくる。
「朔弥が今日、台所で何かを探してたけど何も見つからなかったみたいで、そのまま縁側に座ってた。たぶん番茶の場所が分からなかったんだと思う。棚のどこにあるか教えといて」
乃々花は棚の配置をテキストで送った。
「それと」とお紺は続けた。「朔弥が今日、廊下の端まで行って戻ってきて、また行って戻ってきてた。あなたが来る方向を見てたと思う。言わなくていいけど、一応」
乃々花はその文章を、二度読んだ。
三度読んだ。
それからスマートフォンをしまって、荷物の整理を続けた。でも手が早くなっていた。
夕方、久遠からも短い連絡が来た。
久遠がスマートフォンを使えることを、乃々花は知らなかった。でも、短いメールが一通届いた。
「台所の火の始末を誰がするか、住人たちで揉めた。たま吉が鍋を焦がした。問題はない」
問題はない、と書いてあるが、問題はあったのだと思う。
乃々花は苦笑いして、久遠に返信した。
「鍋は明後日確認します。申し訳ありません」
すぐに返信が来た。
「謝ることではない。ただ、早めに戻ると良い」
二日目の夜、荷物の整理がほぼ終わった。
月見荘へ持っていく荷物が一袋。アパートに残す荷物が少し。処分するものが一箱。
アパートは随分と軽くなった。
もともと少なかったが、さらに少なくなった。
乃々花は空になった棚を見た。
三か月前、ここで次の仕事が決まらないまま過ごしていた。財布にも気持ちにも余裕がなかった。雨の日の依頼を受けて、変な路地の奥の長屋に行った。
あのとき引き返さなくてよかったと、今は思う。
引き返していたら、何も変わらなかった。
変わったのは、踏み込んだからだ。踏み込んで、追い出されて、それでも戻って、少しずつ居場所になっていった。
アパートを見回した。
ここには、乃々花の時間があまりなかった。三か月分の時間があるはずだが、薄い。生活した跡があまりない。
月見荘には、もう乃々花の時間がある。台所の棚の配置に、廊下の拭き方に、雪丸が毎朝来る習慣に、たま吉が縁側から台所を覗く癖に。
自分の時間が、あの場所に根を張り始めていた。
三日目の朝、予定より一日早く荷物をまとめた。
アパートを出て、荷物を持って、月見荘へ向かった。
路地に入ると、いつもの変化があった。雨音が遠のくような、一枚膜を隔てるような感覚。でも今日は雨が降っていないので、ただ空気が変わる感覚だけがあった。
それが今は、帰ってきた、という感覚に近かった。
門をくぐった。
中庭に入ったとき、縁側に朔弥がいた。
いつもの場所に、いつものように座っている。中庭を見ている。
乃々花が入ってきたことに気づいて、朔弥が振り返った。
目が合った。
朔弥の目が、一瞬だけ変わった。
何か、ほんの少し、力が抜けたような変わり方をした。
「戻った」
「予定より一日早いですが」
「……そうか」
「ご迷惑でしたか」
「迷惑ではない」
朔弥は縁側を立った。
そのまま廊下に入っていこうとして、乃々花の前で止まった。
「番茶の場所が変わっていた」
「先月整理したときに移しました。一番取りやすい位置に」
「メールに書いてあった」
「読んでくれたんですね」
「読んだ」
朔弥は少し間を置いた。
「台所の棚は、全部おまえが分かる位置に置け」
「私がいないときも、住人の皆さんが使えるようにした方が」
「どこに何があるか、おまえが分かる位置にしろ」
それは、乃々花がここにいることを前提にした言い方だった。
乃々花がここにいて、台所を管理して、住人たちの食事を作ることを、当たり前のこととして言っていた。
「……分かりました」
「鍋は確認しろ。たま吉が焦がした」
「承知しています。久遠さんから連絡がありました」
「久遠が連絡を」
「短いメールでした。問題はないが早めに戻ると良い、と」
朔弥は少し間を置いた。
「余計なことを」
「ありがたかったです」
朔弥は廊下へ歩いた。
二歩ほど行って、止まった。
振り返らずに言った。
「……朝食がなかった」
「二日分ですか」
「三日分だ」
三日分。でも乃々花がいなくなったのは今朝で三日目の朝、つまり二日間しか経っていない。
「今日の分は、これから作ります」
「そうしろ」
朔弥は廊下を歩いていった。
その背中を見ながら、乃々花は少し笑った。
三日分、という言葉の意味を考えた。
二日間いなかっただけなのに、三日分だと言った。
今日乃々花がいない朝も、カウントしていた。
まだ終わっていない今日の朝も、乃々花がいない朝として数えていた。
それだけのことだったが、それだけのことが、乃々花には十分だった。
台所に入ると、お紺が入り口で待っていた。
「おかえり」
「ただいまです」
「早かったわね」
「荷物の整理が終わりました」
「ここに持ってきたの?」
「少し」
お紺は乃々花の荷物を見た。
「増えてきたわね、あなたのもの」
「増やしすぎましたか」
「ちょうどいいわよ。ここはもともと物が少ない長屋だから」
お紺は台所の方を顎で示した。
「鍋、見てあげて。たま吉が昨日やらかした。本人は全然反省してない」
「見ます」
「あと、雪丸がずっとそわそわしてた。あなたが戻ったら教えてあげて」
「分かりました」
お紺は廊下へ戻っていった。
乃々花は台所に入って、鍋の状態を確認した。
焦がした跡があった。でも素材は大丈夫だった。丁寧に洗えば使える。
焦がした跡をながめながら、乃々花は少し考えた。
二日間いなかっただけで、台所は少し荒れた。朔弥は番茶の場所が分からなかった。たま吉が鍋を焦がした。雪丸がそわそわしていた。朔弥が廊下の端まで行って戻ってくることを繰り返した。
いなくなって、初めて見えるものがある。
自分がここにいることが、この長屋の時間の中に入り込んでいた。
誰かの生活の中に入り込む、ということは、こういうことだった。
代わりがいない、ということではない。でも、いることとの違いが、いなくなったときに分かる。
それは、家事代行として初めてここに来たときには、なかったものだった。
仕事として来て、いつの間にか、この長屋の時間の一部になっていた。
昼の支度を始めると、雪丸が台所に飛び込んできた。
いつもの静かな雪丸ではなく、少し走り足で来た。
「ののかさん!」
「おかえりなさいは私が言う側ですが」
「おかえり!」
「ただいまです」
雪丸は台所の入り口で少し息を整えた。白い髪が少し乱れていた。
「昨日、一昨日、今日の朝、ごはんがなかった」
「それは申し訳なかったです。でも、昨日は棚に干し芋を」
「たまきちが食べた」
「そうですね。干し芋の場所を変えておきます」
「来年も、また祭りに行ける?」
突然の話題の転換だった。
「来年の話は」
「来年考えましょうって言ったのは知ってる。でも、聞きたかった」
乃々花は雪丸を見た。
「ののかさんがここにいれば、行けるよね」
「いれば、行けます」
「じゃあ、ここにいる?」
「はい。いる予定です」
雪丸は少しの間乃々花を見ていた。
それから、ふわりと笑った。
声を出さない、静かな笑いだった。でも、全部がそこにあった。
「よかった」
それだけ言って、台所の隅にいつもの場所に腰を下ろした。
乃々花は米を研ぎながら、その様子を横目で見た。
雪丸がそこにいる。いつもの場所に。
それが、この台所の当たり前の光景になっていた。
当たり前の光景が、当たり前にある場所に、自分がいる。
乃々花は米を研ぐ手を続けながら、窓の外の秋の空を見た。
高くて、青くて、少し風がある空。
この空の下に、月見荘がある。
帰ってきた、という感覚が、今日は言葉より先にあった。




