第二十一章 ただいまを言う場所
保存建築物の申請が正式に受理されたのは、十一月の初めだった。
三沢からメールが来た。正式受理の連絡と、これから審査に入るため結果が出るまで数か月かかること、その間は取り壊しの手続きが止まること、が書いてあった。
最後の一行に、おめでとうございます、とあった。
三沢がそういう言葉を書くのは珍しかった。仕事の連絡はいつも簡潔で、感情的な言葉が入ることはほとんどなかった。
乃々花はそのメールを、台所で一人で読んだ。
湯を沸かしながら、何度か読み返した。
受理された。まだ審査中で、結果は出ていない。でも、手続きが止まった。少なくとも今すぐ取り壊しになることはない。
それだけで、今日は十分だと思った。
住人たちに伝えたのは、昼の食事のときだった。
全員が台所と縁側に集まる時間は、今では珍しくなかった。乃々花が食事を作るようになってから、昼の時間に自然と集まる習慣ができていた。
全員の顔がそろったところで、乃々花は伝えた。
「申請が受理されました」
一瞬、静かになった。
お紺が最初に口を開いた。
「受理って、どういうことだっけ」
「申請書類が正式に受け付けられたということです。これから審査に入ります。結果が出るまでは、長屋の取り壊し手続きが止まります」
「止まるのね」
「はい、当面の間は」
お紺はしばらく何も言わなかった。
それから、静かに息を吐いた。
「よかった」
大きな声ではなかった。でも、その二文字に、長い時間が入っていた。
雪丸が乃々花を見た。
「ここ、なくならない?」
「今すぐはなくなりません。審査の結果が出るまで、しばらく時間があります」
「審査が通れば?」
「保存建築物として認められれば、取り壊しはずっと難しくなります」
「ずっと」
「はい」
雪丸はそれを聞いて、少し考えた。
「ずっとは、どのくらい?」
「朔弥さんがここにいる間は、少なくとも」
雪丸はそれを聞いて、また少し考えた。
それから、にこりとした。
「じゃあずっとだ」
乃々花は少し笑った。
雪丸の言う通りだった。
たま吉は縁側で魚の干物をかじりながら、聞いているのかいないのか分からない様子だったが、一言だけ言った。
「そうか」
それだけだった。でもたま吉にとっては、それで全部だった。
久遠は静かに頷いた。
「三沢という人間は、信用できる」
「私もそう思います」
「あの人間が動いてくれたことは、良かった」
久遠がそこまで言うのは珍しかった。それだけで、久遠が三沢のことを認めていることが分かった。
朔弥には、別に話した。
昼食の後、住人たちが部屋に戻ってから、縁側にいる朔弥のそばに行った。
「聞いていましたか」
「聞いていた」
「どう思いますか」
「止まった、ということか」
「当面の間は。審査の結果次第ですが」
朔弥は中庭を見た。
「百年以上、この長屋のことを誰かに手続きしてもらうとは思わなかった」
「頼んでよかったですか」
「……そういうことができるとは、思っていなかった」
「人間の世界の仕組みで、長屋を守れる可能性があったということです」
「人間の世界の仕組みか」
「朔弥さんが一人で結界を保つだけが、守り方ではない。外側から守る方法もある」
朔弥は少しの間黙った。
「俺にはそういう考え方がなかった」
「百年、一人でやってきたから、他のやり方が見えにくかっただけだと思います」
「……おまえが来てから、見えることが増えた」
乃々花は朔弥を見た。
「いい意味でですか」
「いい意味だ」
珍しく、はっきり言った。
乃々花は少しの間、その言葉を置いた。
「ありがとうございます」
「また礼か」
「言わずにいられません」
「……好きにしろ」
朔弥は中庭に視線を戻した。
秋の光が石畳に落ちていた。木の葉が一枚、風に運ばれて中庭に落ちた。
「来年の春まで、この長屋が残る」
「残ります」
「桜が咲く」
「咲くと思います。中庭の端に、木がありますね。あれは桜ですか」
「桜だ」
「知らなかったです」
「春になれば分かる」
「楽しみですね」
朔弥は答えなかった。
でも、中庭を見る目が、少しだけ和らいでいた。
その夜、乃々花はあの部屋に荷物を運んだ。
アパートから持ってきた荷物の袋を開けて、必要なものを棚に入れた。衣類を畳んで、道具を並べた。本を一冊、文机の上に置いた。
ふじの棚の隣に、乃々花の荷物が並んだ。
重なる部分もあった。使いやすい棚の位置、道具の置き方、文机の使い方。でも、並んでいても不自然ではなかった。百年前の時間と今の時間が、同じ棚の中にある。
それでいいと思った。
部屋を整えながら、乃々花は三か月前の自分を思い出した。
雨の日に路地の入り口で立ち止まった自分を。変な場所でも引き返すつもりはない、と思いながらためらっていた自分を。
あの日、踏み込んだ。
踏み込んで、白い水たまりに出会って、朔弥に追い出されそうになって、お紺の部屋を片づけて、雪丸にお茶を渡して、たま吉の後始末をして、久遠の話を聞いて。
一つずつ、少しずつ積み重なって、今夜この部屋に荷物を置いた。
遠くに来たものだと思った。
でも、自分の足で歩いてきた道だった。
荷物を整え終わったころ、廊下で足音がした。
朔弥だった。
引き戸の前で止まった。
「荷物は終わったか」
「はい、今終わりました」
「重いものはなかったか」
「大丈夫でした」
朔弥は少しの間、引き戸の前に立っていた。
「入りますか」
「いい」
「どうぞ」
「いいと言った」
入りたいが入りにくい、という空気だった。
乃々花は少し考えてから、立ち上がって引き戸を開けた。
廊下に朔弥が立っていた。
「部屋、どうですか」
「何が」
「整えた様子を見てほしかっただけです」
朔弥は少し渋い顔をしたが、引き戸から部屋の中を見た。
棚に並んだ荷物を見た。文机の上の本を見た。野花の代わりに置いた小さな松ぼっくりを見た。
「……片づいている」
「当然です」
「ふじの棚と並んでいる」
「はい。一緒にしても構わないですか」
朔弥は少しの間、棚を見た。
「構わない」
「ありがとうございます」
「また礼か」
「また言います」
朔弥はかすかに息を吐いた。
それから、廊下を歩き始めた。
自室の方へ向かって、二、三歩行って、また止まった。
「辰巳」
名前を呼ばれた。名前で呼ばれることは、あまりなかった。
「はい」
「今夜、縁側にいる」
「……分かりました。後で行きます」
朔弥は廊下を歩いていった。
乃々花は引き戸を閉めて、部屋の中に立った。
名前で呼ばれた、ということを、少し確かめた。
辰巳、と呼んだ。
それだけのことだったが、それだけのことが今夜は重かった。
縁側に行くと、朔弥がいた。
月が出ていた。十一月の月は明るく、冷たい。中庭の石畳が白く光っていた。
乃々花は朔弥の隣に腰を下ろした。
いつもより、距離が近かった。あの夜より、少しだけ近かった。
朔弥は何も言わなかった。
乃々花も何も言わなかった。
しばらく、二人で月を見た。
中庭の端に、木がある。
あれが桜だ、と今日初めて知った。今は葉が落ちかけていて、細い枝だけが月の光を受けている。
春になれば、あの枝に花が咲く。
「朔弥さん」
「何だ」
「伝えたいことがあると、前に言いました」
「覚えている」
「今夜、言ってもいいですか」
朔弥は中庭を見たまま、答えた。
「言え」
乃々花は少し間を置いた。
月が中庭を照らしていた。あの桜の木が、月の光の中に細く立っていた。
「私はここにいたいです」
言葉にすると、単純だった。
「仕事だからではなく、依頼だからではなく、誰かのためでもなく。私自身が、ここにいたい」
朔弥は返事をしなかった。
「朔弥さんが追い出そうとしても、またここへ来ます。申請が取り消されても、別の方法を考えます。長屋がどうなっても、できる間はここにいます」
「理由は何だ」
「ここが、私の場所だからです」
朔弥がゆっくりと乃々花を見た。
「放っておけない、という気持ちから始まりました。でも今は違います。放っておけないのではなく、ここにいたい。この長屋にいたい。住人たちのそばにいたい」
一息ついた。
「朔弥さんのそばにいたい」
中庭に静かな夜があった。
月が動かない。風が動かない。朔弥が動かない。
乃々花も動かなかった。
言ったことは全部本当だった。飾りも余分もなかった。ただ本当のことだけを、言えた気がした。
長い沈黙があった。
朔弥は中庭を見ていた。
乃々花は朔弥を見ていた。
月が少し傾いた。
やがて、朔弥が口を開いた。
「俺は」
「はい」
「長くここにいる。この先も、ここにいる」
「はい」
「おまえは人間だ。俺よりずっと短い時間しかない」
「分かっています」
「それでも、ここにいると言うか」
「言います」
朔弥は乃々花を見た。
「怖くないか」
「怖いです」
「怖いのに」
「怖くても、ここにいたいという気持ちの方が大きいです」
朔弥はしばらく乃々花を見ていた。
それから、ゆっくりと視線を中庭に戻した。
「俺も」
「はい」
「怖い」
「知っています」
「分かっているか」
「百年前のことがあるから、怖い。それは、ずっと分かっていました」
朔弥は少しの間黙った。
「それでも」
「それでもです」
また沈黙があった。
でも今度の沈黙は、さっきとは違った。答えを探している沈黙ではなく、答えが決まっている人の沈黙だった。
「ここにいろ」
朔弥は命令のような言い方だったが、命令ではなかった。
「追い出すつもりはない」
「追い出されても来ますよ」
「知っている」
「では」
「だから、ここにいろ」
乃々花は少し笑った。
「ただいまを言う場所が、ここになりました」
「……大げさなことを言う」
「大げさではありません」
「そうか」
「そうです」
朔弥は少しの間黙った。
それから、縁側の板の上に手を置いた。
乃々花の手の隣に。
触れる距離に。
あの夜と同じだったが、今夜は違った。
今夜は乃々花の方から、その手に触れた。
そっと、確かめるように。
朔弥の手は冷たかった。いつでも冷たい。でも、握り返してきた。
中庭の桜の木が、月の光の中に細く立っていた。
来春、あの木に花が咲く。
二人でその花を見る。
それだけのことが、今夜は揺るぎない約束として、月見荘の中庭にあった。
しばらくして、廊下の奥で物音がした。
お紺の部屋の引き戸が、少し開く音がした。
それから、すぐ閉まった。
気配が廊下を引っ込んでいった。
乃々花は気づいたが、振り返らなかった。
朔弥も気づいていたと思うが、何も言わなかった。
しばらくして、お紺の部屋の方からくすくすと笑い声がした。忍び笑いのつもりらしかったが、静かな夜の長屋ではよく聞こえた。
「お紺さん」
乃々花が言うと、笑い声が止まった。
「聞こえています」
しばらく間があって、またくすくすと笑い声がした。
今度は隠さなかった。
朔弥が小さく舌打ちをしたが、手は離さなかった。
それで、乃々花は声に出して笑った。
珍しいことだった。声を出して笑うのは、この長屋でもあまりなかった。
でも今夜は、笑えた。
翌朝、長屋の朝は賑やかだった。
お紺が昨夜のことをたま吉に話していて、たま吉が「知ってた」と言っていた。雪丸が台所に来て、乃々花を見て、何も聞かずにただ笑った。久遠は針仕事をしながら、廊下を通る乃々花に短く「良かった」と言った。
朔弥は縁側にいた。
いつもの場所に、いつものように。
でも今朝は、乃々花が台所から湯呑みを持っていくと、受け取ったまま少し間を置いて言った。
「おまえが作った朝食を、毎朝食べている」
「はい」
「それが当たり前になっている」
「当たり前になりましたね」
「当たり前になったものは、ある日突然なくなると困る」
「なくならないようにします」
「……そうしろ」
朔弥は湯呑みを口に運んだ。
番茶の香りが縁側に広がった。
乃々花はその隣に腰を下ろして、中庭を見た。
桜の木が、今日も細い枝を空に向けている。
春はまだ先だ。でも、春が来ることは分かっている。
この長屋で、あの木の花を見る。
その約束が、今朝は昨夜より少しだけ近い場所にあった。
昼の支度を始めようとして、台所に入ったとき、乃々花はふと立ち止まった。
台所を見回した。
整えられた棚。使いやすい位置に並んだ道具。鍋、包丁、まな板、調味料。一つずつ、乃々花が確認して置いたものたち。
その中に、ふじが整えた形が残っている。百年前に誰かが決めた棚の使い方が、今も生きている。
二つの手が、同じ台所の中にある。
乃々花は手を洗って、米を研いだ。
水の音が台所に響いた。
廊下を歩く足音がした。雪丸だった。入り口に立って、乃々花を見て、台所に入ってきた。
いつもの場所に腰を下ろす。
「何作るの」
「何がいいですか」
「ののかさんの決めたものがいい」
「では考えます」
「なんでもいい。ののかさんが作るものがいいから」
雪丸がそれを言う前と後で、台所の空気は変わらなかった。
でも乃々花の中で、何かが静かに確かまった。
ここにいる。
ここが、自分のいる場所だ。
米を研ぐ手が続いた。水の音が続いた。雪丸がそこにいた。廊下から住人たちの気配がした。朔弥が縁側にいた。
月見荘の昼が、今日も始まっていた。




