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あやかし長屋の家事代行人―雨の路地裏、月見荘のお困りごと承ります―  作者: 明石竜


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22/22

最終章 春を迎える長屋

桜が咲いたのは、四月の初めだった。

 前日まで雨が続いていて、咲かないのではないかと思っていたら、雨が上がった翌朝に一気に開いた。

 乃々花が台所で朝食の支度をしていると、雪丸が廊下を走ってきた。

 走る雪丸を見るのは珍しい。

「ののかさん、咲いた」

「桜ですか」

「うん、咲いてる。いっぱい」

「今行きます」

 火を弱めて、手を拭いて、廊下に出た。

 中庭へ出ると、桜が咲いていた。

 乃々花は少しの間、動けなかった。

 中庭の端の、細い木だとずっと思っていた木が、今朝は全部違って見えた。枝が白くなっていた。薄いピンクが混じった白で、朝の光の中でほんのりと輝いていた。

 これほど咲くとは思っていなかった。

 小さな木だが、花の量は多かった。枝が見えないくらい、花がついていた。

「きれい」

「きれいですね」

「朔弥は?」

「まだ部屋にいると思います。呼んできます」

「ぼく呼んでくる」

 雪丸が走って廊下に戻った。

 乃々花は中庭に立ったまま、桜を見ていた。

 来年の春に一緒に見よう、と言ったのは、秋の夜だった。

 あの夜から半年近く経って、春が来た。


 住人たちが中庭に出てきたのは、少しずつだった。

 最初に雪丸が戻ってきた。朔弥を呼びに行ったはずが、自分が先に来た。

「朔弥は?」

「今来るって言ってた」

「どんな顔でしたか」

「……普通の顔。でも、ちょっと違った」

「どう違いましたか」

「なんか、急いでた」

 朔弥が急ぐのは珍しい。

 お紺が廊下から中庭に出てきた。桜を見て、目を丸くした。

「あら、すごい咲いてる」

「今朝一気に咲きました」

「毎年こんなに咲くの?」

「知らなかったんですか」

「あたし、毎年この時期は忙しくて、ちゃんと見たことなかったのよ」

 お紺は桜の下に立って、花を見上げた。

「きれいね」

「そうですね」

「ふじも、これを見てたのかしら」

 乃々花は少し考えた。

「見ていたと思います。朔弥さんと一緒に、毎年ここで」

「そうよね」

 お紺は桜の花に手を伸ばした。一枝だけ、触れるか触れないかの距離に手を近づけて、そのまま離した。

「今年はあなたもいる」

「はい」

「来年も?」

「来年もいます」

 お紺は振り返って、乃々花を見た。

 何も言わなかったが、その顔に全部あった。


 たま吉は縁側から中庭を見ていた。

 出てこないのかと思ったが、縁側の端に座って、桜を眺めていた。

「たま吉くん、中庭に来ませんか」

「ここから見える」

「近くで見た方がいいですよ」

「ここでいい」

 たま吉は言い張ったが、目は桜から離れていなかった。

「毎年見ていますか、この桜」

「まあな」

「きれいですね」

「そうだな」

 珍しく素直に答えた。

 しばらくして、たま吉が縁側から中庭に降りてきた。

 何も言わずに、桜の下に立った。

 花を見上げて、少し目を細めた。

 乃々花は何も言わなかった。

 たま吉はしばらくそこにいてから、縁側に戻った。

「いい桜だ」

「そうですね」

「毎年あるのに、ちゃんと見たことなかった」

「来年また見ましょう」

「うるさい」

 でも、嫌そうではなかった。


 久遠は部屋から出てこなかった。

 でも昼前に、廊下の窓から中庭を見ていた。

 乃々花が声をかけると、少し間を置いてから言った。

「毎年咲く」

「そうですね」

「当たり前のことが、当たり前にある」

「はい」

「それが続くのは、続けてきた者がいるからだ」

 久遠は窓から中庭を見たまま、針仕事を続けていた。

「あなたもその一人になった」

「まだ一年経っていません」

「年数ではない」

 久遠はそれだけ言って、部屋に戻った。

 乃々花は廊下に立ったまま、その言葉を受け取った。

 年数ではない。

 一年経っていなくても、ここで続けてきたことがある。台所を整えて、廊下を拭いて、食事を作って、住人たちの話を聞いた。一つずつ、小さなことを続けてきた。

 それが積み重なって、今がある。


 朔弥が中庭に来たのは、朝食が終わってしばらく経ってからだった。

 廊下から中庭に出て、桜を見た。

 少しの間、動かなかった。

 乃々花は離れたところに立って、朔弥を見ていた。

 朔弥の横顔が、今朝は少し違った。

 いつも無表情に近い顔が、今朝はそうではなかった。怒りでも警戒でもなく、何か別のものがあった。

 悲しみとも違う。懐かしさとも少し違う。

 強いて言えば、受け取っている、という顔だった。

 春が来たことを、桜が咲いたことを、ただ受け取っている。

 しばらくして、朔弥が乃々花の方を見た。

 目が合った。

「咲きましたね」

「ああ」

「きれいです」

「毎年こうだ」

「毎年見ていたんですね」

「百年以上」

「一人で」

「ほとんどは」

 乃々花は朔弥の隣に立った。

 二人で桜を見た。

 花びらが一枚、風に運ばれて中庭に落ちた。石畳の上に、薄いピンクが一点。

「約束を守れました」

 乃々花が言った。

「ああ」

「朔弥さんは、約束できると思っていましたか。秋に私が言ったとき」

 朔弥は少しの間黙った。

「分からなかった」

「信じていなかったですか」

「信じたかった。でも、信じることが怖かった」

「今は」

「今は、ここにいる」

 それが答えだった。

 信じたかどうかよりも、今ここに二人でいることが、答えだった。

 乃々花は中庭の桜を見た。

 花びらがまた一枚、石畳に落ちた。

「また来年も、一緒に見ましょう」

「来年も約束するのか」

「します」

「その次の年も?」

「します」

「その次も?」

「します」

 朔弥は少しの間黙った。

「……おまえは約束が多い」

「大切なことは約束にしておく方が、形になるので」

「形にしなくても、ここにいるだろう」

「いますが、言葉にした方がいいと思っています」

「なぜ」

「言葉にしたことは、残るからです」

 朔弥はその言葉を、しばらく持っていた。

「……ふじも、よく約束をした」

「そうですか」

「朝になったら一緒に茶を飲もうとか、雨が上がったら洗濯をしようとか、そういう小さなことを」

「小さな約束ですね」

「でも、覚えている。百年経っても」

 乃々花はその言葉を聞いた。

「では、小さな約束もします。明日の朝も一緒に茶を飲みましょう」

「それは約束するまでもない」

「でも言います」

「……好きにしろ」

 朔弥は桜を見た。

 花びらが三枚、続けて石畳に落ちた。

「言葉にしたことは残る、と言ったな」

「はい」

「ふじが最後に言った言葉も、残っている」

「また春を、という言葉ですか」

「ああ」

「今日、また春が来ました」

「来た」

「ふじさんが見たかった春が、今日もここにあります」

 朔弥は少しの間黙った。

「……そうだな」

 声が、少し変わっていた。

 百年分のものが、少しだけほぐれたような声だった。

 乃々花は何も言わなかった。

 隣にいた。それだけだった。


 昼前になって、乃々花は台所に戻った。

 今日の昼は、花見に合わせて少し良いものを作ろうと決めていた。朝のうちに材料を確認しておいた。

 米を研ぎながら、中庭の様子が台所の窓から見えた。

 お紺が桜の下に座っていた。雪丸が隣にいた。たま吉が少し離れたところに寝転がっていた。

 朔弥は縁側に戻っていたが、中庭の方を向いていた。

 全員が、同じ桜を見ていた。

 それぞれの場所から、それぞれのやり方で。

 乃々花は米を研ぐ手を続けながら、その光景を見た。

 一年前、この場所に初めて来たとき、こういう光景を想像できただろうか。

 できなかった。

 雨の日の依頼を受けて、変な路地の奥に来て、白い水たまりを見て固まっていた自分には、想像できなかった。

 でも今日、ここにいる。

 台所で米を研ぎながら、中庭の桜を窓越しに見ている。住人たちが花の下にいて、朔弥が縁側にいる。

 これが、当たり前の光景になっている。

 当たり前のことが、当たり前にある。

 久遠が言っていた言葉が、今日は体で分かった。


 昼の食事は、中庭で食べることにした。

 席を外に出して、桜の下に並べた。雪丸が嬉しそうに手伝った。たま吉は「椅子を運ぶのは嫌だ」と言いながら、一番重い箱を担いだ。お紺は敷物を広げながら鼻歌を歌っていた。

 朔弥は何も手伝わなかったが、縁側から出てきて、中庭の席に腰を下ろした。

 それで十分だった。

 食事を並べた。炊いた米、焼き魚、根菜の煮物、豆腐の味噌汁。特別に手の込んだものではないが、今日は外で食べる分だけで十分だった。

「いただきます」

 雪丸が最初に言った。

「いただきます」

 全員が、それぞれのタイミングで言った。

 朔弥も、小さい声で言った。

 桜の花びらが、食事の上に一枚落ちた。

 お紺が笑った。

「桜も食べたいのね」

「縁起がいいですよ」

「そうよね」

 たま吉が魚を食べながら、桜を見上げた。

「来年も咲くかな」

「咲きます」

「どうして分かる」

「今年咲いたから」

「それだけの理由か」

「十分です」

 たま吉は少し考えてから、また魚を食べた。

 雪丸が乃々花を見た。

「来年も、一緒に見る?」

「見ます」

「約束?」

「約束です」

 雪丸はそれを聞いて、ふわりと笑った。

 乃々花は隣を見た。

 朔弥が食事をしていた。桜を時々見ながら、静かに食べていた。

 その横顔に、今朝と同じものがあった。

 受け取っている、という顔。

 今日の春を、今日の桜を、今日の食事を、今日の住人たちの声を、ただ受け取っている。

 百年ぶりに、受け取ることができるようになった、という顔だった。


 食事が終わって、片づけをしていると、朔弥が台所に来た。

 珍しかった。食後に台所に来ることはあまりない。

「何か」

「いや」

「何かありますか」

「……うまかった」

 乃々花は手を止めた。

「朝食ではなく昼の話ですか」

「昼の話だ」

「ありがとうございます」

「いつも言っていないが」

「いつもは」

「……いつもうまい」

 朔弥は台所の棚を見た。

「こういうことを言うのは、俺には難しい」

「知っています」

「だが」

「はい」

「言えるようになってきた」

 乃々花は少しの間、朔弥を見た。

「それは、変わったということですか」

「そうかもしれない」

「変わることは、いいことだと思いますか」

 朔弥は少し考えた。

「百年、変わらなかった。変わることを恐れていた。でも」

「でも」

「おまえが来て、変わった。変わっても、長屋はここにある。住人たちはここにいる。桜は今日も咲いた」

「変わっても、続くものがある」

「そういうことになる」

 乃々花は鍋を洗いながら、続けた。

「朔弥さんが変わったのではなく、変われるものが増えたんだと思います」

「違うか」

「変わったくないものは、変わっていないと思います。長屋を守ること、住人たちをそばに置くこと、桜を毎年見ること。それは変わっていない」

「……そうかもしれない」

「変わったのは、誰かと一緒にいることを、また選べるようになったことだと思います」

 朔弥は返事をしなかった。

 でも、台所に立ったまま、動かなかった。

 出て行くでもなく、何かを言うでもなく、ただそこにいた。

 それが今の朔弥の答えだと、乃々花は思った。


 午後、桜の花びらが少しずつ散り始めた。

 風が吹くたびに、石畳に花びらが落ちる。白とピンクが混じった色が、石畳の上に積もっていく。

 お紺が縁側に座って、散る花びらを見ていた。

「きれいね、散るのも」

「そうですね」

「ふじも、こういうの好きだったと思う」

「散るのが好きだったんですか」

「散るまでが花、って言ってたのよ。朔弥に」

「朔弥さんが覚えていそうですね」

「覚えてると思う。百年分、全部覚えてそうだもの、あの人」

 お紺は少し笑って、また散る花びらを見た。

「あたし、ここにいる理由が欲しかったのよ、ずっと」

「え?」

「長く生きてると、なんで生きてるのか分からなくなることがある。あやかしはみんなそうじゃないけど、あたしはなったのよ」

「今は」

「今はある」

 お紺は乃々花を見た。

「あなたが来てから、ここが面白くなった。毎日何かある。それが理由になってる」

「私がいることで?」

「あなたがいることで、みんながちょっとずつ変わった。朔弥も、雪丸も、たま吉も、久遠も。そのみんなを見てるのが、あたしの理由になってる」

 乃々花はその言葉を、しばらく持っていた。

「お紺さんは、ここにいてくれて助かっています」

「あたしが?」

「最初に私を受け入れてくれたのはお紺さんでした。からかいながら、でも一番早く味方になってくれた」

「そうだったかしら」

「そうでした」

 お紺は少し目を細めた。

「あたしはただ面白かったから近づいただけよ」

「それでいいです。動機が何であれ、助かりました」

 お紺は笑って、また散る花びらを見た。

「来年も、こうして見られるといいわね」

「見られます」

「根拠は?」

「申請が通ればそれが根拠になります。通らなくても、別の方法を考えます」

「力強いわね」

「ここを守ることについては、強いです」

 お紺はそれを聞いて、また笑った。

 今度は、最初のころの軽い笑い方ではなかった。もっと深いところから来る、温かい笑い方だった。


 夕方になって、住人たちが部屋に戻り始めた。

 乃々花は中庭の片づけをした。席を戻して、敷物を畳んで、花びらを掃いた。

 掃いても、また散ってくる。

 それでいいと思った。

 桜の花が散るのは、散るときが来たからだ。無理に散らすのでもなく、無理に止めるのでもなく、ただそういう季節があって、その季節が来た。

 来年もまた咲く。

 それだけのことが、確かにある。

 片づけが終わって、台所に戻ると、夕食の支度をしなければならない時間だった。

 米を研いで、野菜を切る。昼の残りで使えるものを確認して、今夜の献立を決める。

 いつも通りの作業だった。

 でも今日の夕食は、少し特別だった。

 春の最初の日の、夕食だった。


 夕食の後、縁側に出た。

 朔弥がいた。

 いつもの場所に、いつものように。

 でも今夜は、隣が最初から空いていた。

 以前は、乃々花が近づいていって、少し距離を置いて腰を下ろしていた。今夜は、最初から隣が開いていた。

 乃々花は縁側に腰を下ろした。

 中庭の桜が、夜の中にあった。月の光を受けて、花が白く浮かんでいた。

 昼間とは違う桜だった。夜の桜は、静かで、少し遠かった。でも確かにそこにあった。

「きれいですね、夜も」

「ああ」

「昼と違いますね」

「昼は賑やかだ。夜はこうなる」

「どちらが好きですか」

 朔弥は少し考えた。

「両方ある方がいい」

「なぜですか」

「昼だけでも、夜だけでも、半分しかない」

 乃々花はその言葉を聞いた。

 桜の話だったが、桜の話だけではなかった。

「両方あって、一日ですね」

「そうだ」

「では、また明日の昼も見ましょう」

「散るかもしれない」

「散り始めても、まだ残ります。明日も見られます」

「……そうだな」

 朔弥は中庭を見た。

 月の光の中で、花びらが一枚落ちた。石畳の上に、白く落ちた。

「辰巳」

「はい」

「春が来た」

「来ました」

「おまえが言った通りになった」

「約束しましたから」

「……次の約束は何だ」

 乃々花は少し考えた。

「夏になったら、また祭りに行きます。雪丸くんと、今年は迷子にならないようにします」

「それだけか」

「秋になったら、紅葉を見ます。この長屋の庭で見られますか」

「一本だけ、紅葉する木がある」

「では秋も楽しみです。冬になったら、雪丸くんが一番元気になるので、その様子を見ます」

「それだけか」

「それだけですが、一年分あります」

 朔弥は少しの間黙った。

「……一年は短い」

「私にとっては長い方です」

「俺にとっては短い」

「では、一年を何回も重ねましょう」

「何回も」

「重ねられる間は、重ねます」

 朔弥は乃々花を見た。

 目が、今夜は穏やかだった。

 怒りも警戒も、あの日の戸惑いも、今夜はなかった。

 ただ、穏やかな目で乃々花を見ていた。

「……好きにしろ」

「はい、そうします」

 朔弥は中庭に視線を戻した。

 乃々花も中庭を見た。

 桜が、月の光の中に白く浮かんでいた。

 来年もこの桜を見る。再来年も。その次の年も。重ねられる間は、重ねる。

 それだけのことが、今夜は揺るぎない場所にあった。


 翌朝、乃々花は誰より早く起きた。

 台所で湯を沸かして、縁側に出た。

 中庭の桜が、朝の光の中にあった。

 昨夜より花びらが散っていたが、まだ十分に咲いていた。石畳に花びらが積もって、薄いピンクの絨毯のようになっていた。

 湯呑みを二つ持ってきていた。

 縁側に腰を下ろして、番茶を飲んだ。

 春の朝の空気は、少し冷たかった。でも、冬ほど冷たくはなかった。季節の境目の空気だった。

 廊下から足音がした。

 朔弥だった。

 縁側に出てきて、乃々花の隣に腰を下ろした。

 もう一つの湯呑みを、朔弥の前に置いた。

「小さな約束の話でしたね」

「何が」

「朝になったら一緒に茶を飲む、という約束」

 朔弥は少し間を置いた。

「秋に言ったことを覚えているのか」

「ふじさんの話から来た約束ですから」

「……そうか」

 朔弥は湯呑みを手に取った。

 番茶の香りが、朝の空気に広がった。

 二人で、桜を見た。

 花びらが一枚、風に運ばれて縁側の近くに落ちた。

 遠くで鳥が鳴いた。

 雪丸が台所を覗く音がした。

 お紺が部屋で鼻歌を歌い始めた。

 たま吉がどこかで大きなあくびをした。

 久遠の部屋から、針を通す細い音がした。

 月見荘の朝が、今日も始まっていた。

「朔弥さん」

「何だ」

「いい朝ですね」

「……そうだな」

 それだけだった。

 でも今日は、それだけで十分だった。

 いい朝だった。

 春の最初の朝に、番茶の香りがあって、桜が咲いていて、住人たちの気配があって、朔弥が隣にいた。

 乃々花は湯呑みを持ったまま、桜を見た。

 花びらがまた一枚、石畳に落ちた。

 この花が全部散っても、また来年咲く。

 そのことが、今日は当たり前のこととして、ここにあった。


 昼前、乃々花は廊下を拭いていた。

 いつもの作業だった。雑巾を絞って、板の継ぎ目まで丁寧に拭く。

 廊下の端まで来て、戸袋の溝を確認した。

 埃が少し溜まっていた。掃き出して、もう一度拭く。

 引き戸の蝋を確認する。少し足りないところがある。後で引き直す。

 台所の換気を確認する。問題ない。

 棚の裏を確認する。春になって湿気が戻り始める時期だ。黴が出やすくなる。

 一つずつ、順番にやっていく。

 これがいつもの仕事だった。

 特別なことではない。でも、これを続けることが、この長屋の毎日を支えている。

 廊下を戻りながら、乃々花は月見荘を見回した。

 古い木の柱、雨に磨かれた石畳、住人たちの引き戸、中庭の桜、縁側に座る朔弥。

 全部が、今日もここにある。

 当たり前のことが、当たり前にある。

 それが続いていくことを、今日は当たり前に信じることができた。


 夕方、洗いたての布を縁側で干した。

 春の風が、布をゆっくりと揺らした。

 朔弥が縁側に来て、その隣に立った。

 並んで、揺れる布を見た。

 何も言わなかった。

 でも、並んで立っていた。

 風が来るたびに布が揺れて、桜の花びらが一緒に飛んで、夕方の光の中で白く光った。

 乃々花はそれを見ながら、思った。

 ここが、自分の場所だ。

 仕事として来た場所が、居場所になった。居場所になった場所が、今日は帰る場所になっている。

 帰る場所があるということは、出かけることができるということだ。

 明日も出かけて、戻ってくる。来年の春も、その次の春も。

 そのたびに、ここに戻ってくる。

 ただいまを言う場所が、ここにある。

 布が風に揺れた。

 朔弥が、ごくかすかに、肩の力を抜いた。

 それだけだった。

 でも乃々花には、その小さな変化が分かった。

 百年ぶりに、誰かと並んで夕方の縁側に立っている人が、少しだけ力を抜いた。

 

 月見荘の春の夕方が、ゆっくりと暮れていった。

 どこかで新しい足音がした。

 路地の方から、誰かが近づいてくる気配がした。

 乃々花は縁側に立ったまま、門の方を見た。

 新しい誰かが来るかもしれない。また迷い込んでくる誰かが。

 この長屋はそういう場所だから。

 来たら、お茶を出す。話を聞く。困っていることがあれば、一緒に考える。

 それだけのことを、続けていく。

 朔弥も縁側に立っていた。

 門の方を見ていた。

 二人で、並んで。

 月見荘の春は、まだ続いていた。

(了)


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