最終章 春を迎える長屋
桜が咲いたのは、四月の初めだった。
前日まで雨が続いていて、咲かないのではないかと思っていたら、雨が上がった翌朝に一気に開いた。
乃々花が台所で朝食の支度をしていると、雪丸が廊下を走ってきた。
走る雪丸を見るのは珍しい。
「ののかさん、咲いた」
「桜ですか」
「うん、咲いてる。いっぱい」
「今行きます」
火を弱めて、手を拭いて、廊下に出た。
中庭へ出ると、桜が咲いていた。
乃々花は少しの間、動けなかった。
中庭の端の、細い木だとずっと思っていた木が、今朝は全部違って見えた。枝が白くなっていた。薄いピンクが混じった白で、朝の光の中でほんのりと輝いていた。
これほど咲くとは思っていなかった。
小さな木だが、花の量は多かった。枝が見えないくらい、花がついていた。
「きれい」
「きれいですね」
「朔弥は?」
「まだ部屋にいると思います。呼んできます」
「ぼく呼んでくる」
雪丸が走って廊下に戻った。
乃々花は中庭に立ったまま、桜を見ていた。
来年の春に一緒に見よう、と言ったのは、秋の夜だった。
あの夜から半年近く経って、春が来た。
住人たちが中庭に出てきたのは、少しずつだった。
最初に雪丸が戻ってきた。朔弥を呼びに行ったはずが、自分が先に来た。
「朔弥は?」
「今来るって言ってた」
「どんな顔でしたか」
「……普通の顔。でも、ちょっと違った」
「どう違いましたか」
「なんか、急いでた」
朔弥が急ぐのは珍しい。
お紺が廊下から中庭に出てきた。桜を見て、目を丸くした。
「あら、すごい咲いてる」
「今朝一気に咲きました」
「毎年こんなに咲くの?」
「知らなかったんですか」
「あたし、毎年この時期は忙しくて、ちゃんと見たことなかったのよ」
お紺は桜の下に立って、花を見上げた。
「きれいね」
「そうですね」
「ふじも、これを見てたのかしら」
乃々花は少し考えた。
「見ていたと思います。朔弥さんと一緒に、毎年ここで」
「そうよね」
お紺は桜の花に手を伸ばした。一枝だけ、触れるか触れないかの距離に手を近づけて、そのまま離した。
「今年はあなたもいる」
「はい」
「来年も?」
「来年もいます」
お紺は振り返って、乃々花を見た。
何も言わなかったが、その顔に全部あった。
たま吉は縁側から中庭を見ていた。
出てこないのかと思ったが、縁側の端に座って、桜を眺めていた。
「たま吉くん、中庭に来ませんか」
「ここから見える」
「近くで見た方がいいですよ」
「ここでいい」
たま吉は言い張ったが、目は桜から離れていなかった。
「毎年見ていますか、この桜」
「まあな」
「きれいですね」
「そうだな」
珍しく素直に答えた。
しばらくして、たま吉が縁側から中庭に降りてきた。
何も言わずに、桜の下に立った。
花を見上げて、少し目を細めた。
乃々花は何も言わなかった。
たま吉はしばらくそこにいてから、縁側に戻った。
「いい桜だ」
「そうですね」
「毎年あるのに、ちゃんと見たことなかった」
「来年また見ましょう」
「うるさい」
でも、嫌そうではなかった。
久遠は部屋から出てこなかった。
でも昼前に、廊下の窓から中庭を見ていた。
乃々花が声をかけると、少し間を置いてから言った。
「毎年咲く」
「そうですね」
「当たり前のことが、当たり前にある」
「はい」
「それが続くのは、続けてきた者がいるからだ」
久遠は窓から中庭を見たまま、針仕事を続けていた。
「あなたもその一人になった」
「まだ一年経っていません」
「年数ではない」
久遠はそれだけ言って、部屋に戻った。
乃々花は廊下に立ったまま、その言葉を受け取った。
年数ではない。
一年経っていなくても、ここで続けてきたことがある。台所を整えて、廊下を拭いて、食事を作って、住人たちの話を聞いた。一つずつ、小さなことを続けてきた。
それが積み重なって、今がある。
朔弥が中庭に来たのは、朝食が終わってしばらく経ってからだった。
廊下から中庭に出て、桜を見た。
少しの間、動かなかった。
乃々花は離れたところに立って、朔弥を見ていた。
朔弥の横顔が、今朝は少し違った。
いつも無表情に近い顔が、今朝はそうではなかった。怒りでも警戒でもなく、何か別のものがあった。
悲しみとも違う。懐かしさとも少し違う。
強いて言えば、受け取っている、という顔だった。
春が来たことを、桜が咲いたことを、ただ受け取っている。
しばらくして、朔弥が乃々花の方を見た。
目が合った。
「咲きましたね」
「ああ」
「きれいです」
「毎年こうだ」
「毎年見ていたんですね」
「百年以上」
「一人で」
「ほとんどは」
乃々花は朔弥の隣に立った。
二人で桜を見た。
花びらが一枚、風に運ばれて中庭に落ちた。石畳の上に、薄いピンクが一点。
「約束を守れました」
乃々花が言った。
「ああ」
「朔弥さんは、約束できると思っていましたか。秋に私が言ったとき」
朔弥は少しの間黙った。
「分からなかった」
「信じていなかったですか」
「信じたかった。でも、信じることが怖かった」
「今は」
「今は、ここにいる」
それが答えだった。
信じたかどうかよりも、今ここに二人でいることが、答えだった。
乃々花は中庭の桜を見た。
花びらがまた一枚、石畳に落ちた。
「また来年も、一緒に見ましょう」
「来年も約束するのか」
「します」
「その次の年も?」
「します」
「その次も?」
「します」
朔弥は少しの間黙った。
「……おまえは約束が多い」
「大切なことは約束にしておく方が、形になるので」
「形にしなくても、ここにいるだろう」
「いますが、言葉にした方がいいと思っています」
「なぜ」
「言葉にしたことは、残るからです」
朔弥はその言葉を、しばらく持っていた。
「……ふじも、よく約束をした」
「そうですか」
「朝になったら一緒に茶を飲もうとか、雨が上がったら洗濯をしようとか、そういう小さなことを」
「小さな約束ですね」
「でも、覚えている。百年経っても」
乃々花はその言葉を聞いた。
「では、小さな約束もします。明日の朝も一緒に茶を飲みましょう」
「それは約束するまでもない」
「でも言います」
「……好きにしろ」
朔弥は桜を見た。
花びらが三枚、続けて石畳に落ちた。
「言葉にしたことは残る、と言ったな」
「はい」
「ふじが最後に言った言葉も、残っている」
「また春を、という言葉ですか」
「ああ」
「今日、また春が来ました」
「来た」
「ふじさんが見たかった春が、今日もここにあります」
朔弥は少しの間黙った。
「……そうだな」
声が、少し変わっていた。
百年分のものが、少しだけほぐれたような声だった。
乃々花は何も言わなかった。
隣にいた。それだけだった。
昼前になって、乃々花は台所に戻った。
今日の昼は、花見に合わせて少し良いものを作ろうと決めていた。朝のうちに材料を確認しておいた。
米を研ぎながら、中庭の様子が台所の窓から見えた。
お紺が桜の下に座っていた。雪丸が隣にいた。たま吉が少し離れたところに寝転がっていた。
朔弥は縁側に戻っていたが、中庭の方を向いていた。
全員が、同じ桜を見ていた。
それぞれの場所から、それぞれのやり方で。
乃々花は米を研ぐ手を続けながら、その光景を見た。
一年前、この場所に初めて来たとき、こういう光景を想像できただろうか。
できなかった。
雨の日の依頼を受けて、変な路地の奥に来て、白い水たまりを見て固まっていた自分には、想像できなかった。
でも今日、ここにいる。
台所で米を研ぎながら、中庭の桜を窓越しに見ている。住人たちが花の下にいて、朔弥が縁側にいる。
これが、当たり前の光景になっている。
当たり前のことが、当たり前にある。
久遠が言っていた言葉が、今日は体で分かった。
昼の食事は、中庭で食べることにした。
席を外に出して、桜の下に並べた。雪丸が嬉しそうに手伝った。たま吉は「椅子を運ぶのは嫌だ」と言いながら、一番重い箱を担いだ。お紺は敷物を広げながら鼻歌を歌っていた。
朔弥は何も手伝わなかったが、縁側から出てきて、中庭の席に腰を下ろした。
それで十分だった。
食事を並べた。炊いた米、焼き魚、根菜の煮物、豆腐の味噌汁。特別に手の込んだものではないが、今日は外で食べる分だけで十分だった。
「いただきます」
雪丸が最初に言った。
「いただきます」
全員が、それぞれのタイミングで言った。
朔弥も、小さい声で言った。
桜の花びらが、食事の上に一枚落ちた。
お紺が笑った。
「桜も食べたいのね」
「縁起がいいですよ」
「そうよね」
たま吉が魚を食べながら、桜を見上げた。
「来年も咲くかな」
「咲きます」
「どうして分かる」
「今年咲いたから」
「それだけの理由か」
「十分です」
たま吉は少し考えてから、また魚を食べた。
雪丸が乃々花を見た。
「来年も、一緒に見る?」
「見ます」
「約束?」
「約束です」
雪丸はそれを聞いて、ふわりと笑った。
乃々花は隣を見た。
朔弥が食事をしていた。桜を時々見ながら、静かに食べていた。
その横顔に、今朝と同じものがあった。
受け取っている、という顔。
今日の春を、今日の桜を、今日の食事を、今日の住人たちの声を、ただ受け取っている。
百年ぶりに、受け取ることができるようになった、という顔だった。
食事が終わって、片づけをしていると、朔弥が台所に来た。
珍しかった。食後に台所に来ることはあまりない。
「何か」
「いや」
「何かありますか」
「……うまかった」
乃々花は手を止めた。
「朝食ではなく昼の話ですか」
「昼の話だ」
「ありがとうございます」
「いつも言っていないが」
「いつもは」
「……いつもうまい」
朔弥は台所の棚を見た。
「こういうことを言うのは、俺には難しい」
「知っています」
「だが」
「はい」
「言えるようになってきた」
乃々花は少しの間、朔弥を見た。
「それは、変わったということですか」
「そうかもしれない」
「変わることは、いいことだと思いますか」
朔弥は少し考えた。
「百年、変わらなかった。変わることを恐れていた。でも」
「でも」
「おまえが来て、変わった。変わっても、長屋はここにある。住人たちはここにいる。桜は今日も咲いた」
「変わっても、続くものがある」
「そういうことになる」
乃々花は鍋を洗いながら、続けた。
「朔弥さんが変わったのではなく、変われるものが増えたんだと思います」
「違うか」
「変わったくないものは、変わっていないと思います。長屋を守ること、住人たちをそばに置くこと、桜を毎年見ること。それは変わっていない」
「……そうかもしれない」
「変わったのは、誰かと一緒にいることを、また選べるようになったことだと思います」
朔弥は返事をしなかった。
でも、台所に立ったまま、動かなかった。
出て行くでもなく、何かを言うでもなく、ただそこにいた。
それが今の朔弥の答えだと、乃々花は思った。
午後、桜の花びらが少しずつ散り始めた。
風が吹くたびに、石畳に花びらが落ちる。白とピンクが混じった色が、石畳の上に積もっていく。
お紺が縁側に座って、散る花びらを見ていた。
「きれいね、散るのも」
「そうですね」
「ふじも、こういうの好きだったと思う」
「散るのが好きだったんですか」
「散るまでが花、って言ってたのよ。朔弥に」
「朔弥さんが覚えていそうですね」
「覚えてると思う。百年分、全部覚えてそうだもの、あの人」
お紺は少し笑って、また散る花びらを見た。
「あたし、ここにいる理由が欲しかったのよ、ずっと」
「え?」
「長く生きてると、なんで生きてるのか分からなくなることがある。あやかしはみんなそうじゃないけど、あたしはなったのよ」
「今は」
「今はある」
お紺は乃々花を見た。
「あなたが来てから、ここが面白くなった。毎日何かある。それが理由になってる」
「私がいることで?」
「あなたがいることで、みんながちょっとずつ変わった。朔弥も、雪丸も、たま吉も、久遠も。そのみんなを見てるのが、あたしの理由になってる」
乃々花はその言葉を、しばらく持っていた。
「お紺さんは、ここにいてくれて助かっています」
「あたしが?」
「最初に私を受け入れてくれたのはお紺さんでした。からかいながら、でも一番早く味方になってくれた」
「そうだったかしら」
「そうでした」
お紺は少し目を細めた。
「あたしはただ面白かったから近づいただけよ」
「それでいいです。動機が何であれ、助かりました」
お紺は笑って、また散る花びらを見た。
「来年も、こうして見られるといいわね」
「見られます」
「根拠は?」
「申請が通ればそれが根拠になります。通らなくても、別の方法を考えます」
「力強いわね」
「ここを守ることについては、強いです」
お紺はそれを聞いて、また笑った。
今度は、最初のころの軽い笑い方ではなかった。もっと深いところから来る、温かい笑い方だった。
夕方になって、住人たちが部屋に戻り始めた。
乃々花は中庭の片づけをした。席を戻して、敷物を畳んで、花びらを掃いた。
掃いても、また散ってくる。
それでいいと思った。
桜の花が散るのは、散るときが来たからだ。無理に散らすのでもなく、無理に止めるのでもなく、ただそういう季節があって、その季節が来た。
来年もまた咲く。
それだけのことが、確かにある。
片づけが終わって、台所に戻ると、夕食の支度をしなければならない時間だった。
米を研いで、野菜を切る。昼の残りで使えるものを確認して、今夜の献立を決める。
いつも通りの作業だった。
でも今日の夕食は、少し特別だった。
春の最初の日の、夕食だった。
夕食の後、縁側に出た。
朔弥がいた。
いつもの場所に、いつものように。
でも今夜は、隣が最初から空いていた。
以前は、乃々花が近づいていって、少し距離を置いて腰を下ろしていた。今夜は、最初から隣が開いていた。
乃々花は縁側に腰を下ろした。
中庭の桜が、夜の中にあった。月の光を受けて、花が白く浮かんでいた。
昼間とは違う桜だった。夜の桜は、静かで、少し遠かった。でも確かにそこにあった。
「きれいですね、夜も」
「ああ」
「昼と違いますね」
「昼は賑やかだ。夜はこうなる」
「どちらが好きですか」
朔弥は少し考えた。
「両方ある方がいい」
「なぜですか」
「昼だけでも、夜だけでも、半分しかない」
乃々花はその言葉を聞いた。
桜の話だったが、桜の話だけではなかった。
「両方あって、一日ですね」
「そうだ」
「では、また明日の昼も見ましょう」
「散るかもしれない」
「散り始めても、まだ残ります。明日も見られます」
「……そうだな」
朔弥は中庭を見た。
月の光の中で、花びらが一枚落ちた。石畳の上に、白く落ちた。
「辰巳」
「はい」
「春が来た」
「来ました」
「おまえが言った通りになった」
「約束しましたから」
「……次の約束は何だ」
乃々花は少し考えた。
「夏になったら、また祭りに行きます。雪丸くんと、今年は迷子にならないようにします」
「それだけか」
「秋になったら、紅葉を見ます。この長屋の庭で見られますか」
「一本だけ、紅葉する木がある」
「では秋も楽しみです。冬になったら、雪丸くんが一番元気になるので、その様子を見ます」
「それだけか」
「それだけですが、一年分あります」
朔弥は少しの間黙った。
「……一年は短い」
「私にとっては長い方です」
「俺にとっては短い」
「では、一年を何回も重ねましょう」
「何回も」
「重ねられる間は、重ねます」
朔弥は乃々花を見た。
目が、今夜は穏やかだった。
怒りも警戒も、あの日の戸惑いも、今夜はなかった。
ただ、穏やかな目で乃々花を見ていた。
「……好きにしろ」
「はい、そうします」
朔弥は中庭に視線を戻した。
乃々花も中庭を見た。
桜が、月の光の中に白く浮かんでいた。
来年もこの桜を見る。再来年も。その次の年も。重ねられる間は、重ねる。
それだけのことが、今夜は揺るぎない場所にあった。
翌朝、乃々花は誰より早く起きた。
台所で湯を沸かして、縁側に出た。
中庭の桜が、朝の光の中にあった。
昨夜より花びらが散っていたが、まだ十分に咲いていた。石畳に花びらが積もって、薄いピンクの絨毯のようになっていた。
湯呑みを二つ持ってきていた。
縁側に腰を下ろして、番茶を飲んだ。
春の朝の空気は、少し冷たかった。でも、冬ほど冷たくはなかった。季節の境目の空気だった。
廊下から足音がした。
朔弥だった。
縁側に出てきて、乃々花の隣に腰を下ろした。
もう一つの湯呑みを、朔弥の前に置いた。
「小さな約束の話でしたね」
「何が」
「朝になったら一緒に茶を飲む、という約束」
朔弥は少し間を置いた。
「秋に言ったことを覚えているのか」
「ふじさんの話から来た約束ですから」
「……そうか」
朔弥は湯呑みを手に取った。
番茶の香りが、朝の空気に広がった。
二人で、桜を見た。
花びらが一枚、風に運ばれて縁側の近くに落ちた。
遠くで鳥が鳴いた。
雪丸が台所を覗く音がした。
お紺が部屋で鼻歌を歌い始めた。
たま吉がどこかで大きなあくびをした。
久遠の部屋から、針を通す細い音がした。
月見荘の朝が、今日も始まっていた。
「朔弥さん」
「何だ」
「いい朝ですね」
「……そうだな」
それだけだった。
でも今日は、それだけで十分だった。
いい朝だった。
春の最初の朝に、番茶の香りがあって、桜が咲いていて、住人たちの気配があって、朔弥が隣にいた。
乃々花は湯呑みを持ったまま、桜を見た。
花びらがまた一枚、石畳に落ちた。
この花が全部散っても、また来年咲く。
そのことが、今日は当たり前のこととして、ここにあった。
昼前、乃々花は廊下を拭いていた。
いつもの作業だった。雑巾を絞って、板の継ぎ目まで丁寧に拭く。
廊下の端まで来て、戸袋の溝を確認した。
埃が少し溜まっていた。掃き出して、もう一度拭く。
引き戸の蝋を確認する。少し足りないところがある。後で引き直す。
台所の換気を確認する。問題ない。
棚の裏を確認する。春になって湿気が戻り始める時期だ。黴が出やすくなる。
一つずつ、順番にやっていく。
これがいつもの仕事だった。
特別なことではない。でも、これを続けることが、この長屋の毎日を支えている。
廊下を戻りながら、乃々花は月見荘を見回した。
古い木の柱、雨に磨かれた石畳、住人たちの引き戸、中庭の桜、縁側に座る朔弥。
全部が、今日もここにある。
当たり前のことが、当たり前にある。
それが続いていくことを、今日は当たり前に信じることができた。
夕方、洗いたての布を縁側で干した。
春の風が、布をゆっくりと揺らした。
朔弥が縁側に来て、その隣に立った。
並んで、揺れる布を見た。
何も言わなかった。
でも、並んで立っていた。
風が来るたびに布が揺れて、桜の花びらが一緒に飛んで、夕方の光の中で白く光った。
乃々花はそれを見ながら、思った。
ここが、自分の場所だ。
仕事として来た場所が、居場所になった。居場所になった場所が、今日は帰る場所になっている。
帰る場所があるということは、出かけることができるということだ。
明日も出かけて、戻ってくる。来年の春も、その次の春も。
そのたびに、ここに戻ってくる。
ただいまを言う場所が、ここにある。
布が風に揺れた。
朔弥が、ごくかすかに、肩の力を抜いた。
それだけだった。
でも乃々花には、その小さな変化が分かった。
百年ぶりに、誰かと並んで夕方の縁側に立っている人が、少しだけ力を抜いた。
月見荘の春の夕方が、ゆっくりと暮れていった。
どこかで新しい足音がした。
路地の方から、誰かが近づいてくる気配がした。
乃々花は縁側に立ったまま、門の方を見た。
新しい誰かが来るかもしれない。また迷い込んでくる誰かが。
この長屋はそういう場所だから。
来たら、お茶を出す。話を聞く。困っていることがあれば、一緒に考える。
それだけのことを、続けていく。
朔弥も縁側に立っていた。
門の方を見ていた。
二人で、並んで。
月見荘の春は、まだ続いていた。
(了)




