第八章 祭りの夜にほどけるもの
祭りがあると知ったのは、たま吉が縁側で団扇を使い始めた日だった。
梅雨が明けて、急に暑くなった。空の色が変わって、雨の匂いがなくなって、朝から蝉が鳴いている。長屋の石畳も、昼間は素足では歩けないくらいに熱を持つようになった。
「町内の夏祭りよ」
お紺が教えてくれた。この辺りでは毎年やっていて、近くの神社の境内に屋台が並んで、夜まで賑わう。住人たちも毎年出かけるらしい。
「乃々花も来るでしょ?」
「仕事の日ではないので」
「関係ない。来なさい」
断る間もなかった。
乃々花が長屋に来て、三週間が過ぎていた。
祭りの当日、夕方から長屋の空気が変わった。
お紺は朝から念入りに支度をしていた。濃い紫の着物に、橙色の帯。髪に花の簪を挿して、廊下を通るたびに香が漂ってきた。準備に時間がかかるらしく、雪丸を何度も呼んでは帯の具合を見せていた。
「どう? 似合う?」
「……うん」
「もっとちゃんと見て」
「……すごく、似合ってる」
「そうでしょ」
お紺は満足そうに笑った。雪丸は少し顔を赤くしていた。
たま吉はというと、着物の前をいつもよりは整えて、下駄を履いていた。それだけで随分まともに見えた。
「珍しいですね、ちゃんとしてる」
「余計なお世話だ」
「でも似合っています」
たま吉は黙った。耳のあたりが少し赤い。
久遠は来ないと言った。人の多い場所は好まない、というのがいつもの話らしい。でも乃々花が出かける前に台所を通ると、久遠が小さな袋を差し出した。
「守り袋だ。祭りの夜は人ならぬものも出やすい。持っておけ」
「ありがとうございます」
「返さなくていい。そのまま持っておきなさい」
久遠は部屋に戻っていった。袋は薄い水色の布で作られていて、端に細かい刺繍がしてあった。久遠が縫ったものだと分かった。
朔弥は来ないと思っていた。だから中庭で全員の支度を待っていると、廊下から朔弥が出てきたとき、乃々花は少し驚いた。
いつもと同じ白地の着物に薄墨の羽織だったが、今日は帯をきちんと締めていた。それだけで、随分と違って見えた。
「来るんですか」
「巡回だ」
「巡回?」
「祭りの夜は外が乱れる。見て回る必要がある」
そういう理由なら、確かに朔弥が動く必要がある。でも、巡回と言いながら住人たちと同じ時間に出てきたのは、偶然ではないかもしれない、と乃々花は思った。
思っただけで、口には出さなかった。
神社の境内は、思ったより賑わっていた。
提灯が連なって、参道に沿って屋台が並んでいる。焼き鳥、りんご飴、金魚すくい、射的。人の波が境内から道路まで溢れて、夏の夜の熱が空気全体にある。
お紺はすぐに人混みに溶け込んだ。
「あら、久しぶり」「元気だった?」と声をかけられながら、にこにこと進んでいく。顔が広いらしい。どこに行っても誰かに声をかけられて、立ち止まっては話して、また動く。
「お紺さん、知り合いが多いですね」
「毎年来てるから。ねえ、あっちに見世物があるって聞いたんだけど行かない?」
「私はここで雪丸くんを見ています」
「そう。じゃあまたあとで」
お紺は人混みの中へ消えた。
雪丸は乃々花の袖を少しだけ握っていた。人が多い場所が苦手らしく、目が落ち着かない。
「大丈夫ですか」
「……うん。でも多い」
「はぐれたら困るので、そのまま持っていて下さい」
「いいの?」
「いいです」
雪丸は袖をしっかり握った。少し安心したような顔をした。
たま吉はすでに屋台の前で何かを食べていた。金魚すくいの縁に肘をついて、器用に網を動かしている。
「うまいもんですね」
「猫だから」
確かに、という答えを飲み込んだ。
朔弥は人混みから少し離れたところにいた。
参道の端、提灯の届かない暗がりに立って、境内全体を見ている。巡回、という言葉は本当で、視線が定期的に動いていた。人を楽しんでいる目ではなく、確認している目だった。でも乃々花には、その横顔に別のものが見えた。
孤独、という言葉が浮かんで、すぐに違うかもしれないと思った。孤独というより、外側にいる、という感じだった。人の波の中にいない。灯りの中にいない。ずっとそこから眺めている。
百年以上、こうして眺めてきたのだろうか。
毎年の祭りを、毎年同じ場所から、外側で見てきたのだろうか。
「雪丸、あっちにりんご飴がありますよ」
「食べたい」
「行きましょう」
雪丸と一緒に屋台へ向かいながら、乃々花はもう一度朔弥の方を見た。
朔弥はまだ同じ場所に立っていた。
夜が深くなるにつれて、人混みはさらに増えた。
雪丸がりんご飴を両手で持ってかじっていると、どこからか太鼓の音がした。神輿の巡行が始まったらしく、参道の人波が動いた。
その混乱の中で、雪丸とはぐれた。
袖を握っていた手が、気づいたら離れていた。人が押し寄せてきた一瞬のことで、振り返ったときには白い頭が見えなくなっていた。
「雪丸くん」
呼んだが、太鼓と人の声で聞こえない。
乃々花は人混みをかき分けながら、白い頭を探した。子どもの背丈だから、人の波に隠れると見えない。参道の端へ出て、高い場所を探した。屋台の陰、石段の裏、手水舎の横。
いない。
「何を探している」
低い声がして、振り返ると朔弥が立っていた。
「雪丸くんとはぐれました」
「方向は」
「神輿が来たあたりで。人が動いて」
朔弥はすぐに歩き出した。迷いがなかった。人混みの中を、人を避けながら進んでいく。乃々花は後を追った。
境内の裏手、社の陰に回ると、雪丸がいた。
石段の端にしゃがんで、膝を抱えていた。周囲の空気が少し白くなっていた。りんご飴は、どこかに落としてきたらしい。
「雪丸」
朔弥が呼ぶと、雪丸が顔を上げた。目が赤かった。
「……さくや」
「どこにいる、ちゃんと伝えろ」
「ごめん。人が、多くて」
「分かった。立てるか」
朔弥が手を差し出した。雪丸はその手を取って立ち上がった。周囲の白さが、少しずつ引いていった。
乃々花は少し離れたところからそれを見ていた。
朔弥が雪丸に手を差し出す。雪丸がその手を取る。それだけのことだが、二人の間に長い時間があった。百年以上の時間が、その小さな動作の中に収まっているような気がした。
帰り道、四人で並んで歩いた。
たま吉は金魚を三匹すくっていた。袋に入れてぶら下げながら歩いている。お紺は知り合いに土産の菓子をもらっていた。雪丸は朔弥の隣を歩いて、少し眠そうにしていた。
提灯の灯りが遠くなるにつれて、人の声も遠ざかっていく。石畳に足音が戻ってきた。
乃々花は朔弥の横顔を、少しだけ見た。
祭りの間、あの暗がりで何を見ていたのだろう。巡回ではなく、その奥で何を思っていたのだろう。
聞けなかった。でも聞きたかった。
月見荘まであと少しという場所で、朔弥が口を開いた。
突然だったので、乃々花は少し驚いた。
「この辺りは、昔と随分変わった」
「そうですか」
「百年前は、この道に屋台なんてなかった。神社もあったが、今より小さかった。提灯もなかった」
淡々とした言い方だった。感慨を込めているのか、ただ事実を言っているのか、判断しにくい。
「百年前から、ここで祭りを見ていたんですか」
「毎年、こうして見ている」
「一人で?」
少しの間があった。
「……一人ではなかった時期もある」
声のトーンが変わった。わずかに、でも確かに変わった。
乃々花は何も聞かなかった。朔弥が続けるかどうか、待った。
「長くここにいると、町が変わる。人が変わる。毎年同じ祭りがあって、毎年違う顔がいる。それが積み重なって、今になっている」
「それは、寂しいですか」
また間があった。
今度は少し長かった。
「寂しいという感覚が正しいのかどうか、もう分からない」
朔弥はそれだけ言って、前を向いた。
乃々花はその言葉を、すぐに何かに変換しようとしなかった。ただ受け取った。
寂しいかどうか分からない、という言葉は、寂しくない、という意味ではない。それほど長く、その感覚と一緒にいたということだ。
月見荘の門が見えてきた。
門をくぐると、久遠が縁側に座っていた。
読みかけの本を閉じて、戻ってきた全員を順番に見た。
「無事か」
「全員無事です」
「雪丸は」
「眠そうです。でも大丈夫でした」
久遠はそれを聞いて、小さく頷いた。
たま吉が金魚の袋を久遠に見せた。
「もらうか?」
「いらない」
「そうか」
たま吉は特に傷ついた様子もなく、縁側に腰を下ろして金魚を眺め始めた。お紺が久遠の隣に座って、今日の話をし始めた。誰に会ったとか、何を食べたとか、軽快に話す声が夜の長屋に広がった。
雪丸は部屋に戻る前に、乃々花の前で立ち止まった。
「……今日、ありがとう」
「一緒に行けてよかったです」
「また来年も行ける?」
乃々花は少し考えた。
一か月の約束で来た。一か月はもうすぐ終わる。その先のことは、まだ決まっていない。気づけば、その約束を改めて口にする者は誰もいなくなっていた。
「来年のことは、来年考えましょう」
「……そっか」
雪丸は少し考えてから、また頷いた。
「来年も来てほしいな」
それだけ言って、部屋に入っていった。
乃々花はしばらくそこに立っていた。
帰り支度をしていると、廊下に朔弥が立っていた。
今日は何も言わずに通り過ぎるかと思ったが、立ち止まった。
「今夜は助かった」
「雪丸くんが無事でよかったです」
「おまえが気づくのが早かった」
「はぐれたのは私の不注意です」
「そうだが、探すのも早かった」
朔弥は言い方を変えながら、同じことを言っていた。助かった、ということを、別の言葉で繰り返していた。
乃々花は少し可笑しくなったが、笑わなかった。
「ありがとうございます」
「何が」
「言ってくださったことに対して」
朔弥は少しの間、乃々花を見た。
「おまえはよく礼を言う」
「言うべきときに言うようにしています」
「そうか」
また短い沈黙があった。
朔弥は廊下の奥へ行きかけて、止まった。
「今夜俺が話したことは」
「忘れません」
「忘れろとは言っていない」
「では覚えておきます」
朔弥はそれを聞いて、何も言わなかった。
廊下を歩いて、自室へ戻っていった。
乃々花は玄関で靴を履きながら、今夜の朔弥を思い返した。暗がりに立っていた横顔。雪丸に差し出した手。百年前から毎年見てきた祭りの話。寂しいかどうか分からない、という言葉。
少しずつ、何かが見えてきている気がした。
でもまだ、全体の形は分からない。
それでいいと思った。今夜分かったことを、今夜の分だけ持って帰る。
門を出ると、夜風が涼しかった。祭りの太鼓の音が、遠くからまだかすかに聞こえていた。
乃々花は空を見上げた。
夏の星が、湿気の取れた夜空に、くっきりと出ていた。




