第七章 長屋の外の女
三沢倫子が月見荘に現れたのは、晴れた午前中のことだった。
その日の乃々花は台所の棚の裏を確認していた。梅雨の時期に見つけられなかった黴が、晴れた日に乾いて粉になって落ちていることがある。棚を動かして壁との隙間を覗いていると、廊下の方から聞いたことのない足音がした。
この長屋の住人たちの足音は、乃々花にはもう分かる。朔弥は静かで重い。お紺は軽くて速い。雪丸はほとんど音がしない。たま吉はだらだらと引きずるような歩き方だ。久遠は一定で、乱れない。
その足音は、誰でもなかった。
靴音だった。硬いヒールが石畳を打つ、迷いのない音。長屋の廊下ではなく、門から中庭へ向かってくる。
乃々花は棚を戻して、廊下へ出た。
中庭に立っていたのは、スーツ姿の女だった。
年は三十代半ばだろう。パンツスーツがよく似合っていて、髪はきっちりまとめてある。書類の挟まったクリップボードを脇に抱えて、長屋の建物を見上げていた。その目は、建物の古さや風合いを見ているのではなく、状態を確認しているような目だった。
乃々花を見ると、軽く会釈した。
「こんにちは。三沢と申します。不動産の管理の件で伺いました」
「辰巳です。こちらで家事代行をしています」
「管理人の方はいらっしゃいますか」
「呼んできます」
朔弥を探すと、縁側にいた。今日は珍しく外を見ていた。もしかしたら、三沢が来ることを知っていたのかもしれない。
「お客さんです。不動産の方が」
「知っている」
「それなら」
「行く」
朔弥は立ち上がって廊下を歩いた。乃々花は少し迷ってから、後に続いた。仕事の話なら自分には関係ないが、なんとなく離れがたかった。
三沢は中庭で待っていた。朔弥が現れると、深く会釈した。
「お時間いただきありがとうございます。三沢不動産、三沢倫子です。先日お送りした書類の件で、直接お話しさせていただきたく」
「聞く」
「ありがとうございます。まず現状の確認からなのですが」
三沢はクリップボードを開いて、書類を取り出した。図面と、数字の並んだ表。乃々花には何の書類かすぐには判断できなかったが、三沢の話を聞けば大体のことは分かった。
月見荘の建物は、登記上の築年数が百年を超えている。現行の建築基準法には適合していない箇所が複数ある。周辺の再開発計画に伴い、この土地の扱いについて確認が必要になってきた。
「具体的には、いくつかの選択肢をご提示できます。一つは現状維持のまま、必要な補修を行って使用を続けること。ただしこの場合、補修費用は相応にかかります。二つ目は、建物を取り壊して土地を売却すること。三つ目は、建物を残したまま土地の権利を一部整理すること」
三沢は淡々と話した。感情的な起伏がなく、数字と事実だけを並べる話し方だった。
朔弥は三沢の顔を見たまま、何も言わなかった。
乃々花は書類の数字を見た。補修費用の概算が書いてある。少なくない金額だった。
「取り壊しの場合、住人の方々には退去いただく必要があります。時期については協議次第ですが、再開発のスケジュールを考えると、早くて半年、遅くとも一年以内には結論を出していただきたい」
半年。
乃々花はその言葉を聞いて、雪丸の顔を思い浮かべた。お紺の部屋の一通だけ残った手紙を思い浮かべた。久遠が毎日動かす針と糸を思い浮かべた。たま吉が縁側で昼寝する姿を思い浮かべた。
「分かった」
朔弥が言った。
「返答はいつまでに」
「来月中にいただければ。詳細は書類に。ご不明な点があればいつでも」
三沢は書類を置いて、周囲を一度見回した。建物の壁、瓦屋根、中庭の石畳。それから乃々花を見た。
「失礼ですが、こちらで家事代行を?」
「はい」
「こういう状況の物件に通い続けるのは、ご自身にとってリスクもあるかと思います。立ち退きになった場合、仕事がなくなりますから」
的確な指摘だった。反論できなかった。
「それは分かっています」
「そうですか」
三沢は特にそれ以上言わなかった。書類を整えて、クリップボードに戻す。
「では失礼します。何かあればご連絡下さい」
踵を返して、石畳を歩いて門へ向かう。迷いのない歩き方だった。
三沢が出て行った後、中庭には朔弥と乃々花だけが残った。
朔弥は書類を手に持ったまま、動いていなかった。
乃々花は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
半年。建物の取り壊し。住人の退去。
雪丸は、どこへ行くのだろう。お紺は、久遠は、たま吉は。そもそも、あやかしが住める場所がどこかにあるのだろうか。
「朔弥さん」
「何だ」
「あの書類、見てもいいですか」
朔弥は少し間を置いて、書類を渡した。
数字を読み、図面を見た。補修費用の概算、土地の面積、周辺の再開発計画の概要。
分からないことが多いが、一つだけはっきりしたことがある。
「補修を選べば、続けられるんですね」
「金がかかる」
「費用の工面はできますか」
「今すぐには難しい」
「半年ではなく、もう少し時間があれば」
「三沢が言った通り、一年以内には答えを出せと言っている」
一年以内に補修費用を工面する。簡単ではないが、不可能でもないかもしれない。乃々花にはその方法が分からないが、少なくとも選択肢としては残っている。
「取り壊しを前提に考えているわけではないんですね」
「そんなことは言っていない」
「言っていませんが、書類を受け取っただけで返答していない」
朔弥は乃々花を見た。
「おまえには関係ない」
「でも、ここにいる方たちに関係あります」
「それはこちらで考える」
「私も考えていいですか」
朔弥の目が少し変わった。追い出したときとは違う、別の種類の変化だった。
「おまえが考えても、どうにもならない」
「どうにかなるかどうかは、考えてみないと分かりません」
朔弥は何も言わなかった。
書類を受け取って、廊下へ戻っていった。
乃々花はその背中を見ながら、少しだけ息を吐いた。
午後、乃々花が廊下の雑巾がけをしていると、門の方からまた足音がした。
三沢だった。
書類を忘れていったのかと思ったが、手には何も持っていない。上着を腕にかけて、少し表情が柔らかくなっていた。午前中とは、どこか雰囲気が違う。
「先ほどはどうも」
「何か忘れ物ですか」
「いいえ」
三沢は中庭を見回した。午前中に見たときとは違う目だった。確認する目ではなく、何かを思い出すような目。
「少しだけ、いいですか」
「はい」
「こちらの長屋、前に来たことがあるかもしれないんです」
乃々花は手を止めた。
「前に?」
「子どもの頃の話なので、はっきりとは覚えていないんですが」
三沢は石畳を見た。濡れた石の色、継ぎ目の苔。
「迷子になったんです。この辺りで。雨の日で、一人で、どこへ行けばいいか分からなくなって」
「それで」
「気づいたら、雨が当たらない場所にいました。誰かに連れてきてもらったのか、自分で入ったのか、よく覚えていない。でも、温かい場所だったことは覚えています。出汁のような匂いがして」
乃々花は何も言わなかった。
「子どもだったから夢だと思っていたんです。でも今日、この石畳を見たら」
三沢は言葉を止めた。
それから少し苦く笑った。仕事のときとは違う、個人の顔だった。
「おかしな話をしました。忘れて下さい」
「いいえ」
「え」
「忘れません」
三沢が乃々花を見た。
「出汁の匂いがするのは、今もここです。石畳も、あの頃のままだと思います」
三沢はしばらく乃々花を見ていた。何かを確かめるような目だった。
「……あなたは、変わった家事代行さんですね」
「よく言われます」
「こういう場所が好きなんですか」
乃々花は少し考えた。
「好きかどうかより、放っておけないんだと思います」
三沢はそれを聞いて、もう一度石畳を見た。
「そうですか」
それだけ言って、踵を返した。
門を出るとき、少しだけ振り返った。
「辰巳さん」
「はい」
「仕事の話ですが、私の会社で人を探しています。条件はよくします。もし気が向いたら」
名刺を差し出した。乃々花は受け取った。
「ご連絡します」
「急ぎません。ただ、こういう場所にいつまでもいられるとは限りませんから」
三沢は今度こそ、振り返らずに歩いて行った。
夕方、乃々花が帰り支度をしていると、お紺が廊下に現れた。
「あの人、何だったの」
「不動産の方です。長屋の管理の件で」
「管理って、取り壊しとかそういう話?」
「選択肢の一つとして、という段階です」
お紺の表情が少し固くなった。いつもの明るさが引っ込んで、奥にある別の顔が見えた。
「朔弥は何か言ってた?」
「今は考えている段階だと思います」
「そう」
お紺は廊下の先を見た。
「ここ、なくなることあるのかな」
「分かりません。でも、今すぐそうなるわけでは」
「でも可能性はあるんでしょ」
乃々花は答えなかった。答えは、ある、だった。でも今それを言うことに意味があるかどうか判断がつかなかった。
「お紺さん」
「なに」
「もしそういうことになったとき、どこへ行くか、考えたことありますか」
お紺は少しの間黙った。
「ないわね。だって、ここ以外に行く場所がないんだもの」
冗談っぽく言ったが、冗談ではなかった。
乃々花は廊下の奥を見た。雪丸の部屋、たま吉の部屋、久遠の部屋、朔弥の部屋。それぞれの引き戸が並んでいる。
長屋を残す方法を、自分が考える立場にあるかどうかは分からない。朔弥には「関係ない」と言われた。三沢には「リスクがある」と言われた。どちらも間違っていない。
でも、放っておけない。
それだけは変わらなかった。
帰り道、名刺を見た。
三沢倫子、とある。電話番号とメールアドレス。会社名は知らない会社だったが、構えのしっかりしたところらしいことは社名から分かった。
条件はよくする、と言っていた。安定した仕事、人間の世界で生きていくための、まともな足がかり。
三か月前の乃々花なら、迷わず連絡していたかもしれない。
でも今は、名刺をそのまま鞄にしまった。
石畳を歩きながら、今日のことを順番に考えた。三沢が来た。書類を置いていった。半年か一年、答えを出すまでの時間がある。三沢が子どものころにここへ来たことがある、かもしれない。再就職の話を持ってきた。
それらが全部、今日一日の出来事だった。
空は夕暮れで、雲が薄く広がっている。風がある。明日は晴れるかもしれない。
乃々花は立ち止まって、月見荘の方を振り返った。
路地の奥に、古い屋根が見える。夕光の中で、瓦が少しだけ赤く染まっていた。
人間の論理からすれば、老朽化した建物に義理立てする必要はない。三沢の言ったことは正しい。仕事を失うリスクを取って、先の見えない場所に留まり続けることに、合理的な理由はない。
でも合理的な理由がないことと、理由がないことは違う。
乃々花は鞄を持ち直して、歩き出した。名刺は鞄の中にある。使うかどうかは、まだ決めていない。
ただ、今夜答えを出すことではないとは、はっきりと思った。




