第六章 管理人は片づけられない
朔弥の部屋に初めて足を踏み入れたのは、長屋に来て十八日目のことだった。
それまで乃々花は、朔弥の部屋だけは後回しにしていた。理由を聞かれれば、共用部分を先に整えるのが段取りとして正しいからだ、と答えられる。それは本当のことだ。でも本当のことが全てではない、ということも、最近は少しずつ分かってきていた。
朔弥の部屋に入るのが、なんとなく怖かった。
怖い、というのも正確ではない。踏み込んではいけない気がする、という感覚に近かった。お紺の部屋は散らかっていたし、台所は凍ったし、久遠の部屋では込み入った話をした。それぞれに手間がかかったが、入ることへのためらいはなかった。
でも朔弥の部屋だけは違った。
廊下を通るたびに引き戸を見て、そのまま通り過ぎていた。
だから朔弥に「そろそろ俺の部屋をやれ」と言われたとき、乃々花は少し驚いた。
「いつでも構いません。今日でもいいですか」
「好きにしろ」
いつもの返し方だった。でも今日は、乃々花から聞く前に朔弥の方から言い出した。それだけで少し、空気が違った。
引き戸を開けた瞬間、乃々花は内心で息を飲んだ。
散らかっていた。
共用部分や他の住人の部屋とは、散らかり方の種類が違う。お紺の部屋は物が多すぎた。台所は管理が行き届いていなかった。でも朔弥の部屋は、意図的に放置された、という印象だった。
書物が積まれている。古い記録らしき束が床に置かれていて、その上にまた別の紙が重なっている。棚には器と道具が混在していて、分類の形跡がない。奥の押し入れは閉まっているが、襖の端からはみ出した布の端が見えている。
窓際の文机だけが、かろうじて整っていた。筆と硯が揃えてあって、そこだけ別の人間の場所みたいだった。
朔弥は部屋の隅に立って、腕を組んでいた。
「どこから手をつける」
「まず全体を見ます」
乃々花は部屋を一周した。床の書物、棚の器、窓の桟の埃、押し入れのはみ出した布。天井の隅に蜘蛛の巣が一つ。
それから文机の横に膝をついて、積まれた紙束の一番上を見た。
文字が細かい。日付が入っている。一番上のものは五十年ほど前の日付だった。
「これは、記録ですか」
「長屋の記録だ。住人の出入り、近隣の変事、季節の変わり目に確認すること」
「全部、朔弥さんが書いたんですか」
「俺と、前にいた者が」
前にいた者、という言葉が少しだけ空気に引っかかった。乃々花はそれを拾わなかった。
「記録は別の場所にまとめた方がいいですね。読めるように順番に。使いやすい場所に」
「場所は俺が決める」
「もちろんです。まとめるのを手伝います」
朔弥は何も言わなかった。否定ではないので、進めることにした。
棚の整理から始めた。
器を一つずつ出して、種類と状態を確認する。欠けているもの、ひびが入っているもの、使われた形跡のないもの。朔弥に確認しながら仕分けていくと、ほとんどが「置いておけ」という答えだった。
「これも?」
乃々花が持ったのは、小さな茶碗だった。底に細かいひびが入っていて、もう水を入れることはできない。
「置いておけ」
「使えませんが」
「分かっている」
それ以上言わなかった。捨てられないものがある、ということは、この長屋の住人たちに共通していた。朔弥も例外ではないらしい。
棚が半分ほど片づいたころ、乃々花は押し入れに手をかけた。
「押し入れも確認します」
「そこはいい」
「でも、布が引っかかっています。そのままだと傷みますし」
「いいと言った」
少し強い言い方だった。乃々花は手を止めた。
朔弥の声のトーンが変わったとき、理由がある、というのは今までの経験で分かっている。無視して開けるのは違う。
「分かりました。では他から先にやります」
書物の整理に移った。
日付順に並べながら、乃々花はちらちらと朔弥の様子を見た。押し入れの前を通るたびに、朔弥の視線が微妙に動く。引き戸を気にしている。
何かある。押し入れの中に、触れたくないものがある。
それが何かは分からなかったが、先日廊下から見えた漆の小箱を、乃々花は思い出した。
二時間ほどかけて、書物の整理がひと段落した。
床に積まれていた紙束は年代順に並んで、棚の一角に収まった。余っていた紐で束ねて、端に年代を書いた紙片を挟む。これで取り出しやすくなった。
部屋の空気が少し変わった。床が見えた。
乃々花は額の汗を拭いながら、棚を見た。まだ余分なものが混在しているが、今日中に全部は無理だ。次回に持ち越せばいい。
それよりも、一つだけ確認したいことがあった。
乃々花は鞄から桐箱を取り出した。
久遠から預かってから、ずっと持ち歩いていた。渡すタイミングを測っていたが、今日が適切かどうかはまだ判断がついていない。それでも、手に持ってしまった。
「朔弥さん」
「何だ」
「久遠さんから預かりました。朔弥さんに、と」
朔弥が振り返った。
桐箱を見た瞬間、表情が変わった。変わった、というより、固まった。いつも無表情に近い顔が、さらに動かなくなった。
「……久遠が」
「あなたの部屋を片づけるときに渡してほしい、と言われました」
朔弥は少しの間、動かなかった。
それから静かに歩いてきて、桐箱を受け取った。両手で持って、蓋を確認した。開けなかった。
「中を見たか」
「見ていません」
「そうか」
朔弥は桐箱を文机の上に置いた。
それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。ぴんと張るような、息をしにくいような感触。
乃々花は次の作業に戻ろうとした。
そのとき、押し入れに目がいった。
さっきから気になっていた。でも朔弥が「いい」と言ったから触れていない。
ただ、布のはみ出した端が、長時間引っかかったままでいる。このままでは布が傷む。それだけは確認しておかないと、職業上の気持ち悪さが残る。
「押し入れの布だけ、中に仕舞い直してもいいですか。引っかかったままだと傷むので」
「いいと言った」
「でも、これは布の問題なので」
「触るな」
それは、今まで聞いた中で一番強い言い方だった。
乃々花は手を止めた。
でも、止めながら思った。職業上の問題だと思って言ったのに、この言い方は、布の心配をしているのではなく、何かを守ろうとしている。
そして、押し入れの隙間から見えているのが布だけではないことに、乃々花は気づいてしまった。
布の端の向こう、押し入れの奥に、あの漆の小箱があった。廊下から見えたときと同じ場所に、ある。
簪がはみ出していた。
鼈甲の、古い簪。
「それ、誰のものですか」
気づいたら、声に出していた。
朔弥が振り返った。その目が、今まで見たことのない種類の光をしていた。怒りではない。もっと底の方にある、何かだった。
「見たのか」
「廊下から、少しだけ」
「……」
「誰のものですか」
朔弥は答えなかった。
答えない、ということが答えだった。でも乃々花は、それで止められなかった。今日の久遠との話が頭にあった。縫い目は残る。着られなくなるとは限らない。ずっとではない、という言葉も。
「朔弥さんが、ずっと一人でこの長屋を守っていたわけじゃないんですよね」
「関係ない」
「でも」
「おまえには関係ない」
今度は怒りだった。静かな怒りで、声は荒げていないが、温度がなかった。
「出て行け」
「え」
「今日の作業はここまでだ。出て行け」
乃々花は立ったまま、少しの間動けなかった。
間違ったことを言ったつもりはない。でも踏み込みすぎた、ということは分かった。聞くべきではなかった、かどうかはまだ分からない。でも、今この人に聞くべきではなかった、というのは確かだ。
「……失礼しました」
道具をまとめた。丁寧に、素早く。鞄を持って立ち上がる。
部屋を出るとき、振り返らなかった。
引き戸を閉める音が、廊下に小さく響いた。
廊下に出ると、お紺が柱の陰に立っていた。
聞いていたらしい。でも茶化すような顔ではなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「……朔弥が怒鳴るのは珍しいのよ、一応」
「怒鳴ってはいませんでした」
「あの人の場合、声が低くなるのが怒鳴るのと同じよ」
乃々花は廊下の奥を見た。朔弥の部屋の引き戸は閉まっている。
「踏み込みすぎましたね、私」
「そうね」
お紺は素直に肯定した。慰めない分、正直だった。
「でも」
「でも?」
「踏み込まないと分からないこともある。あなたはそういう人だと思うから、悪いことだとは思わない。ただ、タイミングってあるのよね」
乃々花はそれを聞いて、少し苦く笑った。
「タイミングは、いつも後から分かります」
「みんなそうよ。あたしだってそう」
お紺は腕を組んで、朔弥の部屋の方を見た。
「あの人はね、傷つけたいんじゃないの。ただ、触れてほしくないところが、触れてほしいところと同じ場所にあるのよ」
「……どういう意味ですか」
「そのうち分かるわ」
それ以上は教えてくれなかった。
長屋を出るとき、夕暮れが始まっていた。
雨は上がっていて、空の端が薄く橙色に染まっている。石畳が乾いて、昼間とは別の色をしていた。
乃々花は歩きながら、今日のことを整理しようとした。
朔弥の部屋は半分しか片づかなかった。押し入れには触れていない。桐箱は渡せた。簪のことを聞いて、追い出された。
失敗した部分がある。でも全部が失敗だったとは思わない。
桐箱を渡したとき、朔弥の顔が変わった。固まった、あの表情。久遠が「あなたに見せる」と言ったのは、朔弥にとって何か意味のある渡し方だったのかもしれない。
簪を聞いたのは、やりすぎだった。それは認める。
でも踏み込んでしまったことで、この長屋の奥に、まだ乃々花の知らない何かがあることははっきりした。朔弥が百年以上この場所を守ってきたこと、「ずっとではない」時期があったこと、押し入れの奥の漆の箱と鼈甲の簪。
それらが一本の線でつながっている気がするが、今はまだ、つながり方が分からない。
路地を抜けると、町の音が戻ってきた。
夕飯の匂いがする。誰かの家の窓から、子どもの声がする。
乃々花は立ち止まって、少しだけ月見荘の方を振り返った。
路地の奥に、古い瓦屋根が見える。夕暮れの光の中で、濡れた黒から少しだけ茶色に見えていた。
また明日行く。そしてまた、少しずつ整えていく。
部屋だけではなく、もっと別の何かも含めて。
それが正しいやり方かどうかは、まだ分からない。でも、放っておけないという気持ちだけは確かだった。
乃々花は鞄を持ち直して、歩き出した。空の橙が、少しずつ紺色に変わっていくのを見ながら。




