第五章 針と糸と、言えないこと
梅雨の晴れ間が一日だけあって、その翌日からまた雨が続いた。
長屋の廊下は湿気を含んで、木がわずかに膨らんでいる。引き戸の滑りが悪くなるので、乃々花は朝一番に蝋を引いて回った。戸袋の溝に埃が溜まっていたついでにそちらも掃いて、廊下を雑巾がけして、台所の換気を確認する。梅雨の時期は見えないところに黴が出やすい。棚の裏、窓の桟、押し入れの角。一通り確認してから、乃々花は道具箱を持って廊下を歩いた。
久遠の部屋の前を通りかかったとき、中から小さな音がしていた。
規則正しい、細い音だった。しばらく聞いていると、それが針を布に通す音だと分かった。ちいさく、でも確かに刻まれる音。止まらない。乱れない。
乃々花はしばらくそこに立っていた。
邪魔をしてはいけない気がした。でも通り過ぎるのも、なんとなく惜しかった。
引き戸が開いた。
「立っているなら入りなさい」
久遠が言った。気配で分かっていたらしい。
久遠の部屋は、この長屋の中で一番整っていた。
余分な物がない。必要なものが、必要な場所にある。着物は畳んで棚に収まり、文机の上には硯と筆が揃えて置かれている。窓際に針仕事の道具一式が並んでいて、今しがたまで作業していたらしい布が膝掛けのように畳まれていた。
床の間には古い掛け軸が一幅。山と川を描いたものだが、どこか寂しい絵だった。
「散らかっていなくて助かります」
「散らかす理由がない」
久遠は文机の前に戻り、道具を手に取った。針仕事に戻るつもりかと思ったが、手を動かさずに乃々花を見た。
「何か用があったのか、ただ立っていただけか」
「引き戸の蝋を引いて回っていたので、こちらもと思ったんですが、作業中でしたし」
「構わない。どうせ今日は雨だ」
久遠が蝋を塗るための道具を自分で取り出した。乃々花が手を貸そうとすると「自分でできる」と返されたので、見ていることにした。
手つきが静かだった。無駄がない。布を扱うように、道具を扱う。
「久遠さんは、ずっと針仕事をされているんですか」
「ずっと、というのが何年のことを指すかによる」
「長屋に来てからで言えば」
「最初からだ。物心ついたときから、針と糸があった」
それは付喪神らしい答え方だ、と乃々花は思った。古い裁縫道具が化身したのなら、針と糸は自分の一部に近い。
「繕いの依頼は住人の方たちから来るんですか」
「たまに外からも来る。紹介で」
「商売をされているんですね」
「商売というほどのことではない。頼まれれば断らないというだけだ」
引き戸の作業が終わった。久遠は道具を元の場所に戻して、針仕事に手を戻した。
乃々花は帰るべき頃合いだったが、なんとなく腰が上がらなかった。
「見ていてもいいですか、少しだけ」
久遠は特に返事をしなかった。が、場所を動かなかったので、許可とみなして文机の横に腰を下ろした。
久遠が繕っているのは、古い着物だった。
背の部分に大きく裂けた箇所があって、布の色が褪せていた。かなり長く使われてきたものらしく、生地が薄くなっているところもある。
「ずいぶん傷んでいますね」
「長く着たものはそうなる」
「直せますか」
「着られなくはなくなる。元通りにはならないが」
針が布を通る。糸が引かれる。裂けた端が少しずつ、丁寧に寄せられていく。
乃々花はそれをしばらく黙って見ていた。
「元通りにはならない、というのは」
「縫い目が残る。生地の薄さは変わらない。破れる前と同じにはできない」
「でも直す」
「着たい人がいる。着られるようにできる。それで十分だ」
静かな言い方だった。十分だ、と言い切る声に迷いがなかった。
乃々花は少し考えた。
前の職場を辞めたとき、上司に言われたことを思い出した。あなたの仕事は正確です。でも、と続いた言葉が、今もどこかに引っかかっている。
言おうか言うまいか、少し迷って、言った。
「私、前の職場を辞めたんです」
「聞いた」
「朔弥さんから?」
「お紺から」
お紺か、と乃々花は思った。情報が早い。
「どういう経緯かも聞いたか」
「概略は」
概略で伝わっているなら、細かく話す必要はないかもしれない。でも久遠は針を止めなかった。続けていい、という意味か、続けなくていい、という意味か判断しかねたが、乃々花は少し続けることにした。
「私は間違ったことをしたつもりがないんです。依頼人に対しても、同僚に対しても、正しい対応をしていたと今でも思っている。でも」
「でも」
「あなたは正しいけど冷たい、と言われました。退職するとき」
久遠の針が、一度だけ止まった。
すぐに動き出したが、その一瞬の間を乃々花は見ていた。
「誰に言われた」
「一番長く組んでいた同僚に」
「その人はあなたに悪意があったか」
「……ないと思います。たぶん、本当のことを言ってくれたんだと思う」
「本当のことだと思うか、自分でも」
それが一番難しい問いだった。
乃々花は少し間を置いた。
「分かりません。でも、正しいことをしても人が離れていくなら、何かが足りなかったんだと思う。何が足りなかったのかが、まだよく分からない」
久遠は布を手の上で返した。裏側から縫い目を確認している。
「壊れたものを直すとき」
「はい」
「元通りにしようとすると、たいてい上手くいかない。生地は元の強さではないし、糸の色も完全には合わない。無理に元通りにしようとすれば、かえって布を傷める」
「……はい」
「でも、着られなくなるとは限らない。縫い目が残っていても、色が少し変わっていても、着られる着物は着られる」
乃々花はその言葉を、ゆっくり受け取った。
急いで何かに当てはめようとしなかった。ただ、聞いた。
「縫い目は残る」
「残る。それを恥ずかしいと思うかどうかは、着る人が決めることだ」
久遠が布を膝に置いた。針を持ったまま、少し遠くを見るような目をした。
「あなたは間違ったことをしたわけではないだろう。ただ、布の裂け方によって、必要な縫い方が違う。同じ縫い方がすべての布に合うわけではない」
「それは……私が相手によって対応を変えるべきだった、ということですか」
「変えるというより、見る、ということかもしれない」
乃々花はしばらく黙った。
正しいことを言うのは得意だ。でも、相手の布の裂け方を見ていたか。縫い方を変えていたか。
答えは、おそらく出ない。でも問いだけが、静かに残った。
しばらく二人で黙って、久遠は針仕事を続け、乃々花はそれを見ていた。
雨の音が廊下まで響いている。時々、遠くでお紺の笑い声がした。たま吉が縁側で何かを言う声も聞こえる。
「久遠さんは、長屋にずっといるんですか」
「ここの道具が長屋に来た時からいる」
「それはいつ頃ですか」
「朔弥がここを守り始めてしばらく後だ」
ということは、百年以上いることになる。乃々花は中庭の方を見た。
「朔弥さんのことをよく知っているんですね」
「よく知っているとは言えない。長く見ているというだけだ」
「長く見ていれば、分かることもあるんじゃないですか」
「分かることもある。分からないままのこともある」
久遠の言い方は慎重だった。朔弥の話になると、何かを測るような間が入る。
乃々花は押し込まないことにした。でも、一つだけ聞いた。
「朔弥さんは、ここに来てずっと一人で管理してきたんですか」
「ずっとではない」
「そうじゃない時期があった?」
「あった」
それだけ言って、久遠は針に戻った。続きを話す気はないらしい。
乃々花もそれ以上聞かなかった。
でも、ずっとではない、という言葉が頭の隅に残った。
夕方近くなって、乃々花が道具をまとめていると、久遠が着物を畳みながら言った。
「一つ頼んでいいか」
「はい」
「押し入れの奥に、桐箱が一つある。出してもらえるか」
押し入れを開けると、奥の方に古い桐箱があった。小さめの箱で、蓋に何も書いていない。軽かった。
久遠に渡すと、受け取って膝に置いたが、すぐには開けなかった。
「これは朔弥に頼まれて預かっているものだ」
「そうですか」
「中身を確認したい。あなたに見てもらった方がいい気がした」
乃々花は少し戸惑った。
「私が見てもいいんですか」
「あなたに見せるかどうかは、朔弥が決めることだ。私が言えるのはここまでだ」
久遠は箱を乃々花に返した。
「朔弥の部屋を片づけるとき、これを渡してほしい。私から、と言えば分かる」
「……承知しました」
乃々花は桐箱を受け取った。軽い。中で何かが、かすかに動く気配がした。
いや、気配ではなく音だったかもしれない。
かちり、と小さく、何かが揺れるような音。
帰り支度をしながら、乃々花は朔弥の部屋の前を通った。
引き戸は閉まっている。中に気配はあった。
桐箱を持ったまま少し立ったが、今日渡すのは違う気がした。久遠は「片づけるとき」と言った。まだその時ではない。
廊下を進もうとして、ふと足が止まった。
朔弥の部屋の引き戸のわずかな隙間から、押し入れの中が見えていた。
きちんと閉まっていない引き戸の向こう、開きかけた押し入れの奥。
そこに、古い箱が見えた。
桐の箱ではなく、漆塗りの小箱だった。蓋の端から、細いものが一本、はみ出していた。
簪だった。
古い、鼈甲の簪。金具が一部欠けているのか、蓋の隙間からぎこちなくはみ出している。
それだけ見えて、乃々花は視線を引き剥がした。
見てはいけないものを見た気がした。理由は分からない。でも、確かにそう思った。
廊下を歩いて、玄関を出た。
外はまだ雨が降っていた。乃々花は傘を開きながら、手の中の桐箱を見た。
久遠が言っていた。ずっとではない、と。
押し入れの簪が、誰のものだったのか。
聞いてはいないのに、なんとなく、分かるような気がした。分かりたくないような気もした。
石畳を歩きながら、雨音の中で、乃々花はしばらくそのことを考えていた。
答えを出すより先に、月見荘の灯りが遠くなった。




