第四章 化け猫は魚を持ち逃げする
事件が起きたのは、乃々花が長屋に来て十日目の朝だった。
朝の買い出しから戻ってくると、長屋の門の前にたま吉が立っていた。いつもは昼近くまで縁側で寝ているのに、珍しく外にいる。しかも着物の前をきちんと合わせていて、どことなく姿勢がよかった。
それだけで嫌な予感がした。
「たま吉くん、どうしたんですか」
「……別に」
「外に立っていたんですか、ずっと」
「待ってたわけじゃない」
「そうですか」
乃々花が門をくぐろうとすると、たま吉がさっと先に入った。なぜか誘導するような歩き方で廊下を進んでいく。
台所に荷物を置こうとして、乃々花は気づいた。
棚の上に乗せておいた鯛が、ない。
昨日の夕方、明日の昼に煮付けにしようと思って買っておいた、立派な鯛が一尾。包んでおいた紙だけが、棚の端にしわくちゃになって残っていた。
乃々花はゆっくり振り返った。
たま吉が縁側の方へ歩きながら、さりげなく視線をそらしていた。
「たま吉くん」
「なに」
「鯛を知りませんか」
「知らない」
「そうですか。口の端に、鱗がついていますよ」
たま吉が口元を手で拭った。その瞬間に勝負はついた。
話を聞けば聞くほど、頭が痛くなる内容だった。
今朝の早い時間、たま吉は近所の市場へ出かけていた。目的は不明だが、魚の並んだ店の前を通りかかったとき、棚の鮭を一尾ちょろまかした。店主に見つかって追いかけられ、もみ合ううちに魚の入った桶を台ごとひっくり返した。店の前が水浸しになって、隣の乾物屋にまで水が流れ込んだ。
逃げ帰ってきて、台所の鯛を食べた。
「なぜ逃げ帰ってきて、人の鯛を食べるんですか」
「腹が減ってたから」
「追いかけられてなお、腹が減るんですか」
「運動したから余計に」
筋は通っている。通っているが、全く共感できない。
「謝りに行って下さい」
「やだ」
「やだ、で済む話じゃありません。弁償もしなければいけない」
「金ないし」
「私が立て替えます。後で返して下さい」
「……ののかさん、人がいいな」
「よくありません。ちゃんと返してもらいます」
たま吉はあからさまに嫌そうな顔をしたが、乃々花が荷物をまとめ始めると、しぶしぶ立ち上がった。
市場は長屋から十分ほど歩いた先にあった。
朝の時間帯で、まだ人が多い。野菜、豆腐、乾物、魚。それぞれの店が並んで、威勢のいい声が飛び交っている。
魚屋は通りの中ほどにあった。「三浦鮮魚」という古い看板が出ていて、店先には今朝水浸しになったとは思えない様子で魚が並んでいた。店主は五十がらみの男で、乃々花たちが近づくと気づいて眉を寄せた。
「また来やがったか、この化け……」
「大変ご迷惑をおかけしました」
乃々花が先に頭を下げた。店主が言葉を飲み込む。
「辰巳乃々花と申します。月見荘でお世話になっております。本日こちらを騒がせてしまいましたこと、代わりにお詫びに参りました。被害の状況をお聞かせいただけますか」
店主はたま吉を一度見てから、乃々花を見た。
「あんた、あそこの人間か」
「家事代行として通っております」
「……ご苦労なこって」
店主は疲れたような顔で、被害の状況を話してくれた。ひっくり返った桶の中の魚が数尾、隣の乾物屋に流れ込んだ水で商品の一部が濡れた。乾物屋の主人は顔見知りなので話はついているが、濡れた品物の代金は出してほしい。
金額を聞いて、乃々花は財布から出した。
「領収書はありますか」
「そんな大層なもんは……まあ、書いてやってもいいが」
「お願いします。後でこちらから返していただくので」
最後の言葉はたま吉に向けた。たま吉は店先の魚をぼんやり見ながら、聞こえているのかいないのか、尾ひれが一本縮れた鯵をじっと眺めていた。
「たま吉くん」
「……分かってる」
返事だけはした。
一連が済んで、市場を出たところで、乃々花は一息ついた。
となりでたま吉が「終わったか」と言った。
「終わりました。あとで返して下さい、ちゃんと」
「分かってる。……悪かったな」
「私にじゃなくて、お店の方に言って下さい」
「あっちには言えない」
「なぜ」
「あの店主、最近様子がおかしいから」
乃々花は足を止めた。
「どういう意味ですか」
たま吉は少し間を置いた。いつもの飄々とした顔が、わずかに真剣になっていた。
「三日くらい前から、あの店の裏口に何かいる。夜な夜な。あの店主、ここのところ目の下が黒いだろ。よく眠れてないんだと思う」
「何かって、何ですか」
「まだ分からない。でも悪い感じのやつ。小さいけど、しつこい」
乃々花は市場の方を振り返った。三浦鮮魚の店主は、確かに目の下に隈があった。声は元気そうだったが、言われてみれば顔色がよくなかった。
「だから市場に来たんですか、今朝」
「まあ……そういうことかもしれない」
まあ、で誤魔化している。でも、わざわざ朝に出かけて確認しに来たという事実は変わらない。
「鮭を盗んだのは」
「それは腹が減ったから」
「そこは本当にそれだけですか」
「そこはそれだけだ」
乃々花は少し考えた。
「分かりました。朔弥さんに話します」
「俺は関係ないからな」
「鮭を盗んで逃げる途中で気づいたんでしょう」
「……飯の話と、あっちの話は別だ」
「そうですね。でも教えてくれてありがとう」
たま吉は鼻を鳴らして歩き出した。耳のあたりがわずかに赤い。照れているのかどうかは判断がつかなかったが、乃々花はそれ以上言わないことにした。
長屋に戻って、朔弥を探した。
縁側にいた。一人で中庭を見ている。何をするでもなく、ただそこにいるというような座り方だった。
「朔弥さん、少しよろしいですか」
「何だ」
「市場の魚屋の件で、たま吉から聞いたことがあります」
朔弥は振り返った。
乃々花がたま吉から聞いた話をそのまま伝えると、朔弥は途中で手を止めて最後まで聞いた。
「三日前から、か」
「たま吉くんはそう言っていました」
「店主の様子は」
「目の下に隈がありました。眠れていないのかもしれません」
朔弥は少し考えてから立ち上がった。
「今夜、見てくる」
「一人でですか」
「それ以外に誰がいる」
乃々花は一瞬迷って、言った。
「私も行きます」
朔弥が見た。
「人間には見えないものもある」
「見えなくてもできることがあります。店の様子の確認とか、何かあったときの連絡とか」
「足手まといだ」
「ならないように気をつけます」
朔弥はしばらく乃々花を見ていた。断る言葉を探しているような間だったが、やがて「好きにしろ」とだけ言って縁側を離れた。
許可が出た、と判断することにした。
夜の市場は昼間とまるで違う顔をしていた。
店はとうに閉まっていて、通りには人がいない。石畳の濡れた光と、遠くの民家から漏れる灯りだけが頼りだった。
乃々花と朔弥は市場の外れから三浦鮮魚の裏口へ回った。
裏口は古い板塀で囲われていて、ゴミ箱と水桶が並んでいる。昼間に魚を捌く場所らしく、まな板と包丁が板の上に伏せてあった。
何もいない、ように見えた。
「何もいませんね」
「いる」
朔弥が低く言った。
乃々花は目を凝らした。ゴミ箱の陰、板塀の根元、水桶の横。どこにも何も見えない。
でも、確かに空気が変だった。
冷たいのではない。じめじめした、重い感触。市場に漂っていた魚の匂いとも違う、何か腐ったような臭気がごく薄く、でも確実にある。
「見えますか」
「いる場所は分かる」
朔弥は板塀の根元を見ていた。
「小さい。でも執念深いやつだ。店主が気にする限り離れない」
「何をしているんですか、そいつは」
「夢を食っている。悪い夢を見させて、疲弊させる。直接害をなすほどの力はないが、しつこい」
乃々花は板塀の根元を見た。何も見えない。でも、確かにそこに何かいる気がした。
「なぜここに来たんでしょう」
「縁があったか、隙があったかだ。こういうものはそれだけで取り憑く」
朔弥は一歩踏み出した。
特別なことは何もしていない。ただ一歩、板塀の根元へ向かって歩いただけだ。でも空気が変わった。重い感触が、さっとほつれる。
水桶の横で、何かが音もなく消えた。
朔弥が戻ってきた。
「終わったか」
「もう来ない。あの程度は払えば済む」
「店主の夢は」
「今夜から楽になる」
それだけだった。あっけないくらい短い時間だった。
乃々花は板塀の根元を見た。もう何も感じない。ただの板塀だ。
「……朔弥さん、いつもこういうことをしているんですか」
「この辺りのことは俺の範囲だ」
「長屋の外も守っているんですね」
「守っているというより、管理している」
「同じようなものじゃないですか」
朔弥は答えなかった。でも否定もしなかった。
帰り道、二人は並んで石畳を歩いた。
月が出ていた。さっきより空が澄んで、星もいくつか見える。
「たま吉くんは、最初から気づいていたと思いますか」
「気づいていただろう」
「あの鮭は」
「腹が減ったからだろう」
「そこは本当にそれだけですか」
朔弥は少し間を置いた。
「あいつは理由をひとつにまとめない。腹が減っていたのも本当、様子を見に来たのも本当だ。どちらが先でもいい」
「格好つけないんですね」
「格好をつけない方が生きやすい生き物なんだろう」
乃々花はそれを聞きながら、今朝門の前に立っていたたま吉を思い出した。姿勢のいい、どこかばつの悪そうな顔で待っていた、あのたま吉を。
「私、今日まで長屋の住人の方たちのことをよく分かっていませんでした」
「今もたいして分かっていない」
「そうですね。でも少しずつ、分かってきています」
朔弥は返事をしなかった。
月見荘の門が見えてきた。古い木の表札が、月の光を受けて薄く光っている。
「朔弥さん」
「何だ」
「今夜ありがとうございました。連れてきてくれて」
朔弥は門をくぐりながら、ほんのわずかに間を置いた。
「足手まといではなかった」
それだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。
乃々花はしばらく門の前に立っていた。
朔弥なりの褒め言葉だと解釈することにした。そうでないとしても、悪い言葉ではなかった。
空を見上げると、月が丸く、はっきりと出ていた。こんな夜に市場の裏で何かを払っている人が、この長屋の管理人なのだと思うと、少し不思議な気持ちになった。
そして同時に、それがごく当然のことのように感じている自分にも気づいた。
十日前には、この路地の入り口でためらっていたのに。
乃々花は門をくぐって、石畳を歩いた。月見荘の軒先から、かすかに出汁の名残のような匂いがした。もう夜なのに、どこからか漂ってくる。
それが妙に、落ち着いた。




