第三章 冷たい台所、あたたかい湯気
朝、台所へ入ろうとして、乃々花は廊下で足を止めた。
引き戸の隙間から、白い息が漏れていた。
冬ではない。梅雨の盛りで、外はじっとりと湿っている。なのに台所の引き戸の周囲だけ、空気がまるで違った。隙間に手を近づけると、指先がじんと痛んだ。
開けたら、台所の中は白かった。
シンクが凍っている。蛇口に氷柱が下がっている。棚の引き出しは霜で開かなくなっていて、床には薄く氷が張っていた。昨日の夕方に整理したばかりの食材は、野菜も豆腐も何もかもが、そのまま凍りついていた。
「……雪丸くん」
乃々花は静かに呼んだ。
返事はなかった。でも廊下の奥、雪丸の部屋の方向で、小さな物音がした。
事情はお紺から聞いた。
今朝の早い時間に、たま吉が雪丸の大切にしていた器を割ったらしい。
「あの猫、うっかりじゃなくてわざとだと思うのよね。面白がって棚から落としたって感じ」
「雪丸くんは」
「部屋に閉じこもってる。謝っても出てこないし、朔弥が声をかけても駄目で。そのうちにこれよ」
お紺が台所の方を指差した。
「たま吉を怒ればいいのに、自分が拗ねちゃうのよね、あの子。自分がいるとみんな迷惑するって、すぐそう思うの」
「どうしてそう思うようになったんですか」
「さあ。でも昔からそうよ。雪が降ると謝るし、寒くなると謝るし。自分がいるせいだって」
乃々花は廊下の奥を見た。雪丸の部屋の引き戸は閉まっていた。
「台所、今日中に使えるようにしないといけませんね」
「そうなのよ。困ってたところ。どうするの、あんな状態で」
「考えます」
まず状況を整理した。
台所全体が使えないのは困る。でも無理に解凍しようとすれば、雪丸の状態が悪化するかもしれない。子どもが感情を抑えきれずにいる状態で、周囲が慌てて動くのは逆効果だ。
乃々花は長屋の中を一通り見て回った。
中庭の片隅に、古い火鉢が二つあった。使っていないらしく、錆が出ていたが、構造は生きている。倉に炭があることも確認した。
台所は今日は使わない。代わりに、廊下の端に場所を作る。
火鉢を運び、炭を熾した。煙が出ないよう丁寧に、時間をかけて火を育てる。それから倉を漁って、底の浅い鍋と、小さな土鍋を見つけた。土鍋の蓋が一つ欠けていたが、問題ない。
食材は台所からは使えない。でも長屋の勝手口の外に、野菜を入れていた竹籠があった。大根が一本と、干し椎茸、昆布の切れ端。それから自分の鞄に、今日の昼用にと持ってきた握り飯が二つある。
少ない。でも何かを作るには足りる。
「お紺さん、味噌はありますか」
廊下でこちらを見ていたお紺が「ちょっと待って」と自室へ消えた。しばらくして、小さな味噌の入った器を持ってきた。
「非常用に取ってあったのよ。あと、これも」
出汁昆布の端切れと、乾燥させた小魚が少し。
「助かります」
「何作るの」
「汁物を」
大根を薄く切った。廊下で火鉢を挟んで、土鍋を乗せる。水を張って、昆布と小魚で出汁を引く。時間をかけてゆっくりと。
長屋の廊下に、出汁の匂いが漂い始めた。
たま吉が縁側でそれに気づいて鼻をひくつかせるのが見えた。声はかけなかった。朔弥が廊下を通りかかって、一瞬足を止めた。それも何も言わなかった。
乃々花はただ鍋の前に座って、火加減を見ていた。
出汁が取れたら昆布と小魚を引き上げて、大根を入れる。弱火でゆっくり煮る。柔らかくなるまでに少し時間がかかるが、急ぐ必要はない。今日の目的は食事を作ることではなく、この匂いと湯気を廊下に満たすことだ。
干し椎茸は水で戻しながら、薄く切って加える。味噌はまだ入れない。
十五分ほど経ったころ、雪丸の部屋の引き戸が、ほんのわずかに開いた。
乃々花は気づいたが、振り返らなかった。
また大根をひっくり返して、土鍋の蓋を少しずらす。湯気が廊下へ流れ出した。
引き戸の隙間が、少しだけ大きくなった。
「……なに、してるの」
小さな声だった。
乃々花は火鉢の前から振り返った。雪丸が引き戸を半分開けて、廊下を覗いていた。白い髪が少し乱れていて、目が赤い。泣いていたのかもしれない。
「汁物を作ってます」
「台所、こわれてる」
「台所は使っていません。ここで作ってます」
雪丸は廊下を見た。火鉢と土鍋と、その前に座る乃々花を順番に見た。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも、ぼくがこわした」
「台所は直ります。食材は買い直せます」
「でも」
「雪丸くん」
乃々花は土鍋から目を離さずに言った。
「汁物ができたら、一緒に食べませんか」
返事がなかった。でも引き戸が閉まる音もしなかった。
しばらくして、大根が箸でつつくと崩れるくらいに柔らかくなった。
乃々花は火を弱めて、味噌を溶き入れた。香りが変わった。出汁の澄んだ匂いに、味噌の丸い香りが重なる。
雪丸がいつの間にか、廊下に出ていた。
引き戸に背中をつけたまま、土鍋を遠巻きに見ている。足元の廊下が、うっすら白くなっている。それでも近くまで来ていた。
「熱いから気をつけて」
乃々花は湯呑みに汁を注いで、雪丸の方へ滑らせた。土鍋の蓋がないので、茶碗ではなく湯呑みにした。両手で持ちやすいから。
雪丸はしゃがんで湯呑みを手に取った。
ほ、と息が漏れた。
この前、お茶を渡したときと同じ声だった。
「……あったかい」
「そうです」
「ぼく、あったかいの、あまり感じないから」
「冷たい方が得意ですか」
「うん。でも、これは感じる」
雪丸は湯呑みを胸の前で抱えたまま、しばらく動かなかった。廊下の白さが、少しだけ薄らいだ。
「……ぼく、いると迷惑だよね」
乃々花は少し考えた。
「今日の台所は困りました」
「ごめんなさい」
「でも、困ったから工夫しました。廊下で料理するのは初めてでしたけど、案外できるものですね」
雪丸が顔を上げた。
「怒ってないの?」
「怒っても台所は直りません」
「でも、困ったんでしょ」
「困りました。でも困ったことと、雪丸くんがいて迷惑だということは、別の話です」
雪丸は湯呑みを見た。
「……どうして」
「あなたがいなければ、今日の朝はここに来ても何もすることがなかったかもしれません。台所が凍ったから、廊下で火鉢を使いました。廊下で料理したら、匂いが長屋中に広がりました。そっちの方がよかったかもしれない、と今は思っています」
嘘ではなかった。廊下に漂う出汁の匂いは、台所で作っていたら部屋の中だけに留まっていた。
雪丸は少し首を傾けた。
「……本当に?」
「本当に」
雪丸はまた湯呑みを胸に抱えた。廊下の白さが、また少し薄くなった。
そこへ、縁側からのっそりと人影が現れた。
たま吉だった。昼寝から目が覚めたのか、着物をだらしなく着崩して、目をこすっている。土鍋の匂いを嗅いで、鼻をひくつかせた。
「なんかうまそうな匂いがする」
「食べません」
「なんで」
「あなたの分は作っていません」
たま吉は乃々花と雪丸を交互に見た。それから雪丸をじっと見て、何かを言いかけてやめた。代わりに頭をがしがし掻いて、縁側に腰を下ろした。
「……器、悪かったな」
雪丸が顔を上げた。
「別にわざとじゃねえし、謝るのも違う気がするけど」
「わざとじゃなかったの?」
「当たり前だろ。面白がって落としたんじゃなくて、足が引っかかっただけだ」
お紺の見立てとは違ったらしい。乃々花は黙っていた。
「お紺が余計なことを言ったんだろ、どうせ。あいつはすぐ悪者にする」
「……たまきちが、悪くないなら」
雪丸が小さな声で言った。
「ぼくが凍らせたのは、ぼくが悪い?」
「まあ……だいぶ迷惑だったけど」
「たまきち」
乃々花が穏やかな声で呼ぶと、たま吉は「なんだよ」と目をそらした。
「ぼく、ごめん。台所こわして」
「……次はちゃんと謝るから、先に謝るな」
「え」
「謝られると謝りにくいだろ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、言い訳にしてはずいぶん優しかった。
雪丸はまじまじと、たま吉を見て、くすくすと笑った。声を出して笑うのを、乃々花は初めて聞いた。
廊下の霜が、すっかり消えていた。
昼を過ぎたころ、台所の氷が溶け始めた。
蛇口の氷柱が落ちる音がして、シンクに水音が戻ってきた。乃々花は台所へ入って、水の通りを確認し、床を拭いた。食材は全滅だったので、傷んだものを処分して、棚を拭き直す。
午後には台所が使えるようになった。
夕方の食事の支度を始めていると、廊下に人の気配がした。
雪丸だった。引き戸の縁に手をかけて、台所の中を覗いている。
「入りますか」
しばらく迷ってから、雪丸は台所に入ってきた。
乃々花の隣に、少し距離を置いて立つ。
「……手伝えることある?」
「あります。これを洗ってもらえますか」
大根の葉を渡した。雪丸は慎重な手つきで受け取り、シンクの前に立った。水を出して、丁寧に洗い始める。
隣で乃々花が刻む音と、雪丸が水を使う音が、小さく重なった。
湯気が立ち始めると、雪丸がこっそり口元を緩めたのが見えた。
夕食を終えたあと、乃々花が帰り支度をしていると、廊下に朔弥が立っていた。
いつからいたのか分からない。腕を組んで、台所の方を見ている。
「台所は直ったか」
「はい。食材は明日買い直します」
「費用はこちらで出す」
「ありがとうございます。雪丸くんは今日はもう落ち着いていると思います」
朔弥はそれを聞いて、少し間を置いた。
「あの子が笑うのを聞いたのは久しぶりだ」
独り言のように低い声だった。乃々花に言っているのか、自分に言っているのか、判断しかねた。
「今日、廊下で料理をしているとき」
「見ていた」
「止めなかったんですね」
「止める理由がなかった」
それだけ言って、朔弥は廊下を歩いていった。
いつも突然来て、突然いなくなる人だ、と乃々花は思った。感想も評価も言わない。でも今日に限っては、「久しぶりだ」と言った。それはたぶん、この人にとってかなり多くを語った方なのかもしれない。
乃々花は玄関で靴を履いた。
引き戸を開けると、夜の空気が涼しかった。雨は上がっていて、薄雲の向こうに月が透けている。
ふと振り返ると、廊下の奥で白いものが動いた。
雪丸が、乃々花の方を見ていた。
手を振ると、少しためらってから、小さく手を振り返してくれた。
初めてだった。
乃々花は月見荘の門を出て、石畳を歩きながら、今日一日を静かに整理した。
台所が凍った。廊下で料理した。雪丸が笑った。たま吉が不格好に謝った。出汁の匂いが長屋に満ちた。
生活を整えるというのは、部屋を片づけることだけではないのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと思いながら歩いた。夜の石畳は、月の光を受けて、ほのかに白く光っていた。




