第二章 狐の部屋は、物が多い
お紺の部屋に初めて足を踏み入れたのは、長屋に通い始めて三日目の朝だった。
朔弥から「次はお紺の部屋を頼む」と言われたとき、乃々花はすでに覚悟を決めていた。廊下ですれ違うたびに華やかな着物と甘い香が漂ってくるお紺の部屋が、きちんと整っているとはとても思えなかったからだ。
だが、引き戸を開けた瞬間、乃々花は言葉を失った。
物が、多かった。
多い、という言葉でも足りないかもしれない。着物が何枚も重なったまま床に広がり、化粧品の小瓶が棚から溢れ、鏡台の前には使いかけの紅と髪飾りが山をなしていた。文箱が三つ、それぞれ蓋が閉まらないほど詰め込まれ、壁際には贈り物らしい包みが積み上がっている。開封されたものも、されていないものも、一緒くたに積まれていた。
床が見えない。畳の色すら分からない。
「どう?」
背後からお紺の声がした。振り返ると、朝から艶やかに装ったお紺が、腕を組んで壁にもたれていた。表情は明るいが、どこか試すような目をしていた。
「……確認させて下さい。これは全部、今も使っているものですか」
「そうよ」
「全部?」
「全部」
乃々花はもう一度部屋を見回した。壁際に積まれた包みのうちいくつかは、埃を被っている。鏡台の引き出しは半開きで、中から帯締めが滝のように垂れ下がっていた。
「では、片づけの方針を確認してから始めます。まず要るものと要らないものを分けて――」
「待って」
お紺の声が変わった。さっきまでの軽さが消えて、少しだけ固いものが混じっていた。
「片づけって、捨てるってこと?」
「全部じゃありません。でも量を減らさないと整理ができないので、いくつかは手放す必要が」
「手放す、ね」
お紺は笑った。笑ってはいたが、目が笑っていなかった。
「あたし、捨てるのは嫌いなの」
「どの程度、嫌いですか」
「絶対に嫌、というくらい」
しばらく沈黙があった。
乃々花は鞄を置いて、部屋の真ん中に立ったまま考えた。片づけの基本は、物の量を適切にしてから配置を決めることだ。量が多すぎれば何をどうしても整わない。それは正しい。でも今のお紺の顔は、捨てることを怖がっているのではなく、拒絶しているように見えた。そこに理屈を当てはめても、たぶんうまくいかない。
「……少し、部屋を見せてもらえますか。触らずに」
お紺は少し意外そうな顔をしたが、「どうぞ」と手を振った。
乃々花はゆっくりと部屋を歩いた。
着物を見る。どれも状態はいい。色も柄も、好みが一貫していた。赤、橙、深緑。華やかで目を引く色ばかりだ。ただし、畳んでしまわれているものは一枚もなく、すべて広げたまま、あるいは丸めたまま置かれていた。
化粧品を見る。小瓶の中身はほとんど残っていた。使い切ったものが捨てられずに残っているのではなく、使いかけのまま増えていっているらしい。
文箱を見る。蓋が閉まらないほど詰まっているのは、手紙だった。
厚みのあるもの、薄いもの、折りたたまれたもの、丁寧に封をされたもの。日付の古いものも新しいものも、分けられないまま一緒になっていた。
「手紙が、多いですね」
乃々花が言うと、お紺の目がすっと細くなった。
「読む人が多いのよ。あたし、人気者だから」
軽い言い方だった。でも、乃々花は文箱の一つに手を添えたまま、少し考えた。
「これ、全部もらった手紙ですか」
「そうよ」
「書いた人たちは、今もお付き合いがある方たちですか」
一瞬、間があった。
「……いろいろね」
いろいろ、は答えではない。でも今は追わないことにした。
贈り物の包みに目を移す。開封されていないものが四つ。表書きはないが、どれも丁寧に結ばれていた。
「こちらは」
「もらいもの」
「開けていない理由は」
「開けたら終わりな気がして」
その言葉が、するりと胸に入ってきた。
乃々花は手を止めた。
開けたら終わり。
それは、もらった瞬間の気持ちが動くから、開けずにいるということだろうか。それとも、開けてしまったら、贈った相手との時間が確定してしまうから。
どちらにしても、物を手放せない理由は、物そのものではないのだと分かった。
「お紺さん」
「なに」
「少し聞いてもいいですか」
「仕事の話じゃなさそうね」
「そうではないかもしれません」
お紺は腕を組んだまま、少し顎を上げた。答えてもいい、という構えだと乃々花は判断した。
「この部屋の物は、全部あなたに向けられた気持ちですよね。手紙も、贈り物も、着物も。誰かが選んで、あなたのところへ来たものばかり」
「そうね」
「それを手放せないのは、物が惜しいからじゃない」
お紺は答えなかった。
「忘れられることが、怖いんじゃないですか」
廊下から遠い雨音がした。
お紺は少しの間黙っていた。それからふっと息を抜くように笑ったが、今度は作った笑いではなかった。どちらかというと、疲れたような顔だった。
「……勘がいいのね、あなた」
「そういう意味じゃなかったら申し訳ありません」
「いいえ、当たってるわ」
お紺は部屋の真ん中に腰を下ろした。着物の裾をさっと整えて、文箱の一つを膝に乗せる。
「あたしは化け狐よ。長く生きてる。その分、関わってきた人間も多い」
乃々花は黙って続きを聞いた。
「人間はすぐいなくなる。あっという間に年を取って、移り変わって、あたしのことなんてきれいに忘れていく。憎くてそうなるわけじゃないのは分かってる。でも」
お紺は文箱の蓋に指を置いた。
「ここにある手紙を書いた人たちは、書いた瞬間、あたしのことを確かに思ってくれてたの。それだけは本当のことでしょう。だから捨てられない。捨てたら、その人たちがあたしを思ってくれた事実まで、消えてしまう気がして」
乃々花はしばらく何も言えなかった。
言葉が出てこなかったわけではない。「でも物を取っておいても記憶は変わらない」「大切な一通だけ残せばいい」「スペースに限りがある」、どれも正しいことだ。正しいことは言える。
でもそれを今言うのは、違う気がした。
正しいけど、冷たい。
あの言葉がまた浮かんだ。乃々花は少し考えて、お紺の隣に腰を下ろした。畳が見えないので、着物の山の上に、少し遠慮がちに座る。
「一つだけ聞いていいですか」
「なに」
「一番古い手紙は、どれですか」
お紺は少し目を丸くしたが、文箱の中を探り始めた。上の方にあるものを脇に退けて、底の方からそっと一通を取り出した。
封は開いている。紙は黄ばんで、端が少し傷んでいた。
「これ。ずっと前にもらったもの」
「読んでもいいですか」
「……内容は恥ずかしいから駄目。でも見るくらいなら」
乃々花はその手紙を受け取った。読まずに、ただ手に持った。
紙の厚みを感じた。誰かが筆を取って、お紺のことを考えながら書いた。その時間が、この一枚の中にある。
「これを書いた人のことは、今も覚えていますか」
「もちろん」
「手紙がなくても?」
お紺は少し間を置いた。
「……覚えてるわ。たぶん」
「じゃあ、あなたが覚えているうちは、その人があなたを思ってくれた事実も、ちゃんとあなたの中にあるんじゃないですか」
お紺はその言葉を聞いて、しばらく手紙を見ていた。
乃々花は余計なことを言わずに待った。
やがて、お紺が穏やかな声で言った。
「……一通だけ残す、というのなら、考えてもいいわ」
「全部じゃなくていいです。一通から始めましょう」
その日の作業は、捨てることより、選ぶことだった。
乃々花はお紺の隣に並んで、一緒に文箱の中を見ていった。どれを残すかはお紺が決める。乃々花は何も言わない。ただ、お紺が「これは……」と迷い始めたとき、「どんな人からもらったんですか」と聞いた。
お紺は一通ずつ、話してくれた。
市の入口で占いをしていた老婆のこと。子ども三人を育てながら団子屋をやっていた夫婦のこと。絵を描くのが好きで、手紙にいつも小さな絵を添えていた青年のこと。
話すたびに、お紺の表情が少しずつ柔らかくなった。
夕方になって、文箱の中は一通だけが残された。
青年からの手紙だった。端に、小さな狐の絵が描いてあった。
「これにするの?」
「ええ。この子が一番、あたしをちゃんと見てた気がするから」
お紺はその一通を、丁寧に文箱に戻した。
他の手紙は、燃やすと言った。乃々花は止めなかった。捨てることとは別の、お紺なりの手放し方があるのだと思ったから。
着物は、すぐに袖を通さないものを別の箱に移した。贈り物は、開封されていないものを今日ここで開けた。中身は小さな鈴と、紅の小瓶と、手のひらに乗るような木彫りの狐だった。
お紺はその木彫りを手に持って、しばらく眺めた。
「……かわいいじゃない」
初めて、素のままの声で言った。
乃々花は棚の上の埃を拭きながら、それを横目で見ていた。
帰り際、廊下で朔弥と鉢合わせた。
「お紺の部屋は」
「今日はここまでです。続きは次回に」
「手がかかっただろう」
「いいえ」
乃々花は言い切った。
「捨てるより、選ぶ方が時間がかかるだけです。それはお紺さんの作業なので、私が急かすことじゃない」
朔弥は少しの間、乃々花を見た。
「……そうか」
「次回はどの部屋を」
「好きにしろ」
「では台所の続きをやります。棚の奥がまだ終わっていないので」
朔弥は頷かずに廊下を歩いて行った。返事のない男だと思うが、もう慣れてきていた。
乃々花は玄関で靴を履きながら、お紺の部屋を思い返した。棚の上はずいぶんすっきりした。畳の色もようやく見えた。一通だけ残された文箱は、鏡台の横に置いてある。
家事は片づけることだと思っていた。でも今日の仕事は、片づけることではなかった。
何かを整えた、とは言える。それが正確に何なのかは、まだうまく言葉にできなかったけれど。
長屋を出ると、雨は上がっていた。
石畳が夕光を受けて、ほんのりと光っていた。




