第一章 雨の日の依頼
雨は、傘を差していても靴の先を濡らす降り方だった。
辰巳乃々花は、細い路地の入口で足を止めた。スマートフォンの地図を見直しても、表示される目的地はこの先を指している。けれどどう見ても、その先に家事代行の依頼先があるようには見えなかった。
「……ここ?」
思わず声が漏れる。昼間だというのに、路地の奥は妙に暗い。古い木の塀が続き、雨に濡れた石畳は鈍く光っている。軒先から落ちる雫の音だけが、やけに近く響いた。
依頼内容は簡潔だった。
掃除、洗濯、台所まわりの片づけ。できれば継続希望。
継続、という言葉に少しだけ心が動いたのは事実だ。単発の仕事をいくつ拾っても、来月の生活は安定しない。前の職場を辞めてから三か月、乃々花の財布にも気持ちにも、もうあまり余裕はなかった。
だから、多少変な場所でも引き返すつもりはなかった。
そう思っていたのに。
路地の奥に見えた古びた長屋を前にすると、さすがに少しだけためらった。
木造二階建て。時代に取り残されたみたいな建物だった。
雨に濡れた瓦屋根は黒く沈み、引き戸の並ぶ廊下はひっそりと静まり返っている。人が住んでいる気配はあるのに、生活音がほとんどしない。そのくせ、どこからか夕餉のような出汁の匂いだけが、かすかに漂っていた。
乃々花は息を吐き、鞄を持ち直した。
黒髪は肩の下でひとつにまとめてあり、雨に湿った後れ毛が白い頬に細く張りついていた。派手な顔立ちではないが、きりりと通った目元と、きちんと整えられた身なりのせいで、黙って立っていると少し近寄りがたく見られがちだった。
「大丈夫。ただの古い共同住宅。ただの仕事」
自分に言い聞かせるように呟いて、軒下へ入る。
その瞬間、ぴしゃり、と背後で雨音が遠のいた。
驚いて振り返る。路地はさっきと同じようにそこにある。雨も降っている。なのに、まるで一枚薄い膜を隔てた向こう側みたいに、音だけが急にぼやけて聞こえた。
乃々花は眉をひそめた。気のせい、だと思うことにした。
玄関脇には古い木札が下がっていた。達筆すぎて最初は読めなかったが、目を凝らすとこう書いてある。
月見荘
今どきアパートに荘も何もないでしょう、と心の中でだけ突っ込む。声に出しても仕方がない。こういう依頼先では、余計な感想は持ち込まないに限る。必要なのは挨拶、確認、作業。そこに私情を混ぜると面倒になる。
――あなたは正しいけど、冷たい。
不意に思い出した言葉に、胸の奥が少しだけ固くなった。
乃々花はそれを振り払うように、玄関の引き戸を二度ノックした。
「辰巳です。家事代行サービスから来ました」
返事はない。もう一度、今度は少し強めに声を張る。
「辰巳乃々花です。本日十時のお約束で――」
がらり、と音がした。引き戸が開いたのではない。乃々花の右手、廊下の奥に面した障子が、ひとりでにわずかに開いたのだ。
そこから、白いものがじっとこちらを見ていた。
子どもだった。十歳くらいに見える。白い髪、白い睫毛、血の気の薄い顔。驚くほど整った顔立ちなのに、生きている子どもらしい温度が薄い。
目が合う。
次の瞬間、ぴし、と小さな音がした。
乃々花の足元で、水たまりの縁が凍っていた。
固まった。正直に言えば、三秒は確実に固まった。
水たまりが凍っている。一月でも二月でもない、梅雨の盛りの昼間に、玄関先の水たまりが凍っている。
子どもは何事もなかったように障子の隙間からこちらを見続けている。
乃々花は深く息を吸った。
……落ち着いて。説明がつかないことに飛びつかない。まず状況を整理する。
靴の先を見る。確かに凍っている。子どもを見る。確かにこちらを見ている。靴先が凍っているという事実が変わるわけでもないが、まず挨拶をするべきだと判断した。
「こんにちは」
声をかけると、子どもは障子をさらに少しだけ引いた。隠れるのかと思ったら、そのまま動かない。境界線の上で迷っているような立ち方だった。
「私は辰巳乃々花。お掃除の人。今日からしばらく来ることになってるんだけど」
子どもは何も言わない。ただ、白い睫毛を瞬かせた。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
ゆっくりした歩き方ではなかった。一歩ずつ確かめるように、それでいて静かに近づいてくる。
現れたのは、男だった。年のころは二十代後半、くらいに見えた。長い黒髪を雑に結わえ、白地の着物に薄墨色の羽織。顔立ちは整っているのに、表情がほとんどない。じっと乃々花を見る目の色が薄く、灰に近い。
立っているだけで、廊下の空気が少し変わった気がした。
「辰巳乃々花か」
「はい。本日十時のお約束の」
「遅い」
「……定刻通りですが」
「俺の中では十時は過ぎている」
言葉に詰まった。この感覚には覚えがある。感情的に怒っているわけではなく、ただ淡々と理不尽なことを言う人間のそれだ。前の職場にも一人いた。対処法は決まっていた。
「では次回は五分早く参ります。今日は中に入っても構いませんか」
男は少しの間、乃々花を見た。
「朔弥だ」
「は?」
「名前。聞くだろう普通」
聞こうとしていたところだったが、黙っておいた。
「朔弥さん、ですね。改めて、辰巳乃々花です。よろしくお願いします」
朔弥は返事の代わりに廊下を顎でしゃくった。入れ、という意味らしい。あまり歓迎されている感じはしないが、仕事なのでそれでいい。
乃々花は靴を脱いで上がる。廊下に入った瞬間、さっきの子どもはするりと姿を消していた。
案内された部屋は、ひどかった。掃除が必要というのは依頼内容から分かっていたが、想像の三倍は荒れていた。書物が積み上がり、畳の上には使いかけの道具と、何に使うのか分からない古い器が並んでいる。障子の桟には埃が溜まり、台所へと続く廊下には、干されたまま取り込まれていない布が積み上がっていた。
「……どのくらいの期間、こちらの状態が続いていますか」
「さあ」
「さあ、ということはないと思いますが」
「長い」
短い。それ以上引き出せそうにないので、乃々花は自分で状況を把握することにした。
廊下から台所を覗く。シンクは辛うじて使えるが、棚の中は混沌としている。乾物と調味料が入り乱れ、賞味期限の確認すらできない状態だ。押し入れは閉まっているが、おそらく開ければ似たようなことになっている。
窓からは中庭が見えた。雨に濡れた石畳、古い木の柱、そして軒先に座って足をぶらぶらさせている人影。
赤い着物の女だった。艶やかな後れ毛が頬にかかっている。ちらと乃々花と目が合うと、にぃ、と口端を上げて手を振った。その耳のあたりで、なにかがぴくりと動いた。
尖った耳の先が、雨の中でふるふるとそそけ立っていた。
……見なかったことにしよう。
乃々花は窓から目を離した。
「まず全体を確認させていただきます。部屋数と、入ってはいけない場所があれば教えて下さい」
「長屋の住人の部屋には入るな。共用の台所と廊下と、俺の部屋を頼む」
「承知しました。住人の方の人数は」
「俺以外で四人。今日は全員いる」
「では挨拶を」
「しなくていい。向こうから来る」
言い終えるか終えないかのうちに、廊下の向こうから声がした。
「ちょっと朔弥、あれが家事代行の人ぉ?」
赤い着物の女が廊下を歩いてきていた。先ほど軒先で手を振っていた女だ。近くで見ると、余計に顔立ちが華やかだった。赤い口紅、くるくる変わる表情、そして先ほど乃々花が見なかったことにした耳が、黒髪の間からしっかりと顔を出している。
「お紺。外をうろつくな、濡れる」
「もう濡れたわよ。ねえ、あなたが来てくれるの? 朔弥の部屋、本当に大変よね、前から言ってたのよ、あたし」
女――お紺は乃々花の前でにこにこと笑った。
「よろしくね。あたしはお紺。ここに住んでるわ」
「辰巳乃々花です。よろしくお願いします」
「あら、しっかりしてる。朔弥と違って感じがいいわね」
「聞こえている」
「聞こえてていいのよ」
そのやりとりを横目に、乃々花は先ほど廊下に消えた子どもを思い出した。
「あの、さっき廊下に……白い髪の子どもを見たんですが」
お紺が「ああ」と手を打った。
「雪丸ね。人見知りだから怖がらないでやって。ちょっと待ってて」
お紺が廊下の奥へ向かう。しばらく「出ておいで」「やだ」「怖くないから」「だって」という小声のやりとりが聞こえ、やがて白い頭が廊下の端からそっと現れた。
子ども――雪丸は、壁にへばりつくように立って、乃々花をじっと見ていた。
「雪丸、ご挨拶は」
無言。
「あら、もう」
「……おそうじの、ひと?」
雪丸が細い声で言った。
「そうです。乃々花といいます」
「……ののかさん」
「うん、乃々花。よろしくね」
雪丸はまだ壁から離れなかったが、睫毛をしばたかせ、小さく頷いた。廊下の床がうっすら白くなっているのは気のせいではないと思ったが、今は気のせいにした。
一通り見回って、乃々花は台所に腰を落ち着けた。
今日できることを整理する。まず台所。棚の中身の確認と分類、シンク周りの清掃。押し入れは今日は外から確認だけにして、次回以降に持ち越す。廊下の布は洗い直しが必要なので回収してから確認、洗えるものとそうでないものを分ける。
働きながら、乃々花はこっそり長屋の様子を観察していた。
廊下の奥からは猫のようないびきが聞こえてくる。見に行くと、縁側に男が一人、着物をだらしなく着崩したまま丸くなって昼寝していた。猫のような、というよりほとんど猫だった。ふさふさとした尾のようなものが腰のあたりからちらりと見えていたが、本人が寝ていたので確認はしなかった。
お紺は自室と廊下を行き来しながら、そのたびに乃々花に話しかけてきた。
「前のお仕事はどこ?」「一人暮らし?」「朔弥とはうまくやれそう?」
最後のだけ答えに困ったが、「やっていきます」と返した。
「頑張ってね。あの人、無愛想だけど根は……まあまあ悪くないから」
「まあまあ、なんですね」
「素直じゃないから差し引いて考えてあげて」
雪丸は台所の入口から時々こちらを覗いていた。目が合うと引っ込み、しばらくするとまた覗く。それを三度繰り返したあと、乃々花がそっと湯を沸かしてお茶を用意すると、ためらいがちに台所へ入ってきた。
湯気の立つ湯呑みを差し出すと、雪丸は両手で包むように受け取った。
ほ、と小さく息が漏れた。
それだけで、なんとなく気持ちが少し楽になった。
夕方近くなって、乃々花は台所の棚を七割方整理し終えた。今日できることはここまでだ。道具をまとめ、帰り支度をしていると、朔弥が廊下に立っていた。
「どこまでやった」
「台所の棚の分類と、廊下の洗濯物の回収です。押し入れと朔弥さんのお部屋は次回以降に」
「思ったより進めた」
「お世辞は要りません、本当のことを言って下さい」
朔弥は少しだけ黙った。
「……褒めた」
「そうでしたか。ありがとうございます」
それ以上でもそれ以下でもなかった。乃々花が靴を履こうとすると、朔弥が口を開いた。
「一か月だけでいい」
「……はい?」
「この長屋にいて、整えてみろ。一か月、通うのではなく住み込みで。部屋は一つ空いている。家賃はいらない」
乃々花は手を止めた。
「それは、依頼の範囲外の話ですが」
「だから頼んでいる。仕事じゃない」
「でも報酬も出してもらわなければ困ります」
朔弥はわずかに眉を動かした。そこは反論しないのか、というような顔だった。
「出す」
「金額は」
「おまえの言い値でいい」
それは少し答えが早すぎる、と乃々花は思った。値段を聞いてから折り合うのが普通だ。
「なぜ私なんですか。初対面ですよね」
「……雪丸がお茶を受け取った」
一拍、間があった。
「それが理由ですか」
「十分な理由だ」
乃々花は廊下の奥を振り返った。雪丸の姿はないが、どこかでこちらの気配を感じているかもしれない。あの子どもが湯呑みを受け取ったときの、ほ、という息を思い出した。
帰るべきだと思っていた。説明のつかないことが多すぎるし、住人たちも普通ではない。お紺の耳も、雪丸の凍らせる足元も、縁側で寝ていた男の影もそうだ。
でも、台所の棚は七割整った。雪丸はお茶を飲んだ。廊下の洗濯物はこれから洗い直しができる。
放っておけない、と思ってしまった。それがいちばんの問題だった。
「……一か月だけですよ」
乃々花は伝えた。朔弥の表情はほとんど変わらなかった。ただ、わずかに視線が動いて、それきり何も言わなかった。
了承した、という意味だと判断することにした。
雨はまだ降り続けていた。けれど乃々花が路地を出るとき、ふと振り返った月見荘は、来たときより少しだけ、灯りが多いように見えた。
こんな古い建物は、気づけばなくなる。そういう場所を、乃々花はいくつも知っていた。




