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(九)

 勢い任せで走り出した足を急には止められず、歩幅を変えて、ウサギの頭上を飛び越える。

 地面に着地すると、足裏全体がジンジンと痺れて手で押さえた。


「……っ危な! 急いでて、ごめんな……大丈夫?」

「なんなのよ。もうっ」


 紫のこともあり、下駄を履いてくるのをすっかり忘れていたことを後悔していると、ウサギが前足を揃えて、


「この先は少年が一人で入っていい場所じゃないわ。園芸師がいるなら、ちゃんと彼の言う事を聞かなきゃだめよ」

「えっと、事情があって……」


 足早に退散しようとしたが「面倒をきちんと見ていないほうも同罪よ」と、おれを通り過ぎて後方に向かって説教を始めた。


 草木をかき分ける音がして、誰かがこちらに近づいてくる。


 肩に力を入れ身構えていると、買ったばかりの赤い鼻緒の下駄を咥えた花が目の前に現れ、おれは目を丸くした。


 無言の花はおれの姿を確認し、下駄を口から放す。

 それを見て素早く両手を伸ばすと、運良く地面に落ちるより先に、下駄の左右ずつを見事に掴むことができた。


 花になぜ追ってきたのか聞きたくなったが、しゃがみ込んだおれの鼻先に、背を向けた花の黒い尻尾が触れて、

 反射的に顎を上げる。

 くしゃみが出てきそうな痒みがこみ上げてきて、右腕で口元を抑え、ムズムズする感覚が過ぎ去るのを待つ。

 そうしている間に、花はウサギに声をかけていた。


「なあ、ネズミの園芸師が居そうな場所を知らないか?」

「ネズミの園芸師? 彼ならクルミの木の近くで見かけたわ」


 ウサギは薄桃色の鼻をヒクヒクと上下に細かく動かし、「こっちよ、着いてきて」と案内をかってでてくれた。

 おれは急いで下駄を履き、ウサギの後ろに付いて走る花を追った。


 先頭を歩くウサギは茂みの中へ飛び込み、おれは花の大きな背中を目印に進むほかなかったが、下駄を履いたお陰で草木に埋もれた道も幾分歩きやすかった。


 川のせせらぎが聞こえると、おれの神経はざわつき始め、耳朶(みみたぶ)を真下に引っ張る。

 手に咲く赤い集真藍が短い髪に引っかかり、萼に触れると少し乾いていて、水を欲しがっているようだ。


 そういえば兄が記憶を失う数ヶ月前、花に連れられ兄と美しい森の中の滝へ足を運び、水浴びをしたことを思い出す。

 紫が回復して、仲直りしたら誘ってみるか……いや、兄と一緒くたにされたくないようだし、紫は断るかもしれない。


 森の小動物たちとすれ違い、ウサギは挨拶を交わす。

 後ろにいた花とおれにも警戒心を見せながら近寄り、足の集真藍の匂いを嗅ぐので、飽きるまで静かに佇む。

 花の身体によじ登った彼らの中に、茶色い背中に五本筋の入った縞模様を見つけたが、ふさふさの尻尾があり、あの時のリスではなかった。


 横倒しの巨木をくぐり、さらに進むと、湿った空気が濃くなるのを感じて、緑に囲まれた苔の広場に出る。

 ウサギは後ろ足だけで立ち上がり、「あれがクルミの木よ」と告げる。

 密集した木の影が長く伸び、光に照らされた隙間に、まだ幹が細く、成長途中のクルミの木があった。


「ネズミの園芸師は、どこに行ったんだ?」

「陽、あそこだ」


 丸い耳の小動物が倒伏した樹木の根元に乗り、硬い殻に包まれたクルミの数を数えていた。


 花がウサギの前に出て、気づかれないようにゆっくりと周囲を徘徊する。


「おい、話がある」

「オ、オオカミくん!?」


 遠くからでもわかるほど、ネズミの園芸師はビクッと跳ねて、株の上でバネのように身体を一回転させた。


 ネズミの周囲に集められていたクルミは、次々と根株の下に落ちて、地面に敷き詰められた新緑の葉っぱの上に転がった。

 あ……っと、落ちたクルミを拾いに行こうとネズミが姿勢を変える。

 こちらも彼を逃すわけにはいかない。

 おれは地面を蹴り、ネズミの首から垂れた細い鎖を株に押さえつけて、彼の動きを封じた。


 突然のことに狼狽(うろた)える園芸師仲間を心配したウサギが、ネズミの傍まで駆け寄る。


「兄貴に薬を渡しに来たときの話を、詳しく聞きたんだけどいいかな?」

「か、構わないけど……。それより、ボクのチーズはまだ残ってる……?」

「まだ言うか!」


 花がカッと目を見開き、四本の鋭い牙を見せると、ネズミは短い悲鳴を上げた。

 よほど花が怖いのか、ネズミは狭い可動範囲の中、細い鎖を両手に持ち全身を横に逸らしながら、ウサギの後ろに顔を隠して必死に弁明する。


「で、でも集真藍の植物体を紹介したら、謝礼にチーズをくれるって……」

「謝礼だと? どういうことだ」


「ボ、ボクが市場で買い物をしてたら、植物体に声をかけられたんだ。色変化の薬を手に入れたから、薬を必要としてる集真藍の植物体がいたら紹介して欲しいって頼まれて……。その人を連れて、オオカミくんの家に行っただけだよ」


 声を震わせていたネズミは、話を聞いて貰えたことに安心したのか、針のような細く長い尻尾でバランスを保ち、二足で立ち上がる。

 今度は身振り手振りで、おれたちに訴える。


「そいつの身体に咲いていた植物は覚えてないのか? もしくは、兄貴が薬を飲んだところを見たとか」


「大きなコートを着ていたし……。ボクは貰ったチーズに夢中だったから、なにも見てないよ。突然大きな音がして振り返ったら、白い集真藍の……君のお兄さんが床に倒れていたんだ。植物体が家から出て行った後、君が帰ってきたんだ」


 つまりあの日、ダイニングテーブルにあったチーズは、ネズミの園芸師のもので報酬だったと。


「その人、白い集真藍の植物体のことを『白い子』って呼んでいたよ」


 ネズミの証言を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、市場で会った青い集真藍の植物体だった。

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