(八)
壁の汚れは、天井に張り巡らされた剥き出しの配管周りにも広がっている。
靴屋の玄関前の足跡にしろ、何者かが出入りしているのかと気にはなったものの、今はそれどころではない。
刃物を見つけて一刻も早く、紫の元に戻らなければ。
上段と下段に分かれた両開きの戸棚は立て付けが悪く、つまみを引き何度かガタガタと揺することで、ようやく片側が開いた。
棚の中には食器のほかに、肉たたき用の木槌や鍋の蓋など、細々とした物が雑多に押し込められている。
しかし、望みの品は一向に見つからない。
別の場所を探すことも考えながら、背伸びをして棚の奥に手を伸ばしてみると、隅に追いやられていたフォールディングナイフを見つけて、急いで紫の元へ戻った。
「紫、じっとしてろよ」
鎖骨の集真藍を見るため、痛みに耐える紫の顔にかかった横髪を指で掬う。耳の上に手を添え、整った卵型の頭を少し持ち上げる。
彼の様子を逐一確認しながら、重なる葉を慎重に掻き分け、感染した株の枝を辿り、脇目も振らず根を探した。
葉化病は通常、植物体の心臓に一番遠い末端部(手の甲や足先)から進行するのだが、紫の葉化は鎖骨付近のみに留まっている。
接触感染が原因なら、紫とずっと一緒に行動していたおれの集真藍にも、葉化病の症状が現れてもおかしくないはずだが、その兆候もなくおれは頭を抱えた。
おれと紫に違いがあるとすれば、集真藍の萼片の色。そして――以前の記憶が残っているかどうかだ。
記憶といえばネズミが持ち込んだ秘薬は、記憶喪失以外のなにかを、紫の体内で引き起こしている可能性はないだろうか。
嫌な憶測が脳裏をよぎり、そんなはずはないと頭を振る。
仮に、秘薬に副作用のようなものがあったとしても、花には相談できない。
薬の出所を探るときと同じようにおれを遠ざけて、きっと彼は一人で全部を抱え込むから。
園芸師の集会で沈黙を貫いていた花に、重荷を背負わせたくなかった。
だから、今回はおれが一人でやるしかない。
ふと、異様に硬化した根元に指先が触れ、葉の隙間から覗き込む。
根元は葉化病に感染した萼の鮮やかな緑色とは違って、枯れ葉のような、くすんだ色をしていた。
一度深呼吸をして、姿勢が簡単にずれないよう膝を立てた足で腕の位置を固定する。
だが、ナイフを持つ手が震えて、根を切る作業が何度も止まる。
落ち着けと自分に言い聞かせながら、厚みを増した萼ごと刈り取った。
「緑色の萼に病変した場合、殺菌薬は効きません。伐採したのは正解です」
葉化病の株はこちらで焼却処分しておきます、と植物医は乾燥した土埃が付着した白いコートを翻し、袋に入った緑色の集真藍を持って靴屋から出ていく。
おれが地下で刃物を探している間、靴屋の店主が気を利かせて、花と植物医を呼んでくれていたのだ。
植物医が紫を診察している間、花はずっとおれを睨んでいた。
「なぜ勝手な真似をした?」
靴屋の奥の一室で紫を休ませてもらえることになり、紫をベッドに運んで部屋を出ると、廊下で待ち構えていた花に詰め寄られた。
「仕方ないだろ。あんな状態の紫を放っておけない」
「万が一、他の株を傷つけたらどうするつもりだったんだ。お前自身が感染する可能性もあるんだぞ」
花の言い方にムッとして、おれの中で些細な反発心が芽生える。
「治ったなら良かったじゃねぇか」
おれが吐き捨てた言葉を、花は聞き逃さなかった。
「もういい。……これ以上、俺はお前を守りきれない」
頭の中が真っ白になる。
なんでそうなるんだ、花に言い返そうと口を開きかけたとき、廊下の角に地下室で発見した黒いシミと同じようなものを見つけ、息を飲んだ。
「……これ、ラットサインか」
「?」
ネズミの足の形がはっきりと残っているわけではないが、靴屋の扉の前にあった足跡ともどことなく似ていることに気づき、おれは声を張り上げた。
「花、ネズミの園芸師を捜そう! なにか知ってるのは、あいつしかいない!」
「急になんの話だ。説明しろ」
「説明って言われても、それどころじゃ……」
「なら、大人しくしていろ」
おれが言い淀むと、花は溜め息をついた。
一から説明したところで、気のせいだと言われればなにも反論できないし、なにより花に心配をかけずに済む方法が見当たらない。
床に落ちた花の溜め息を拾うように項垂れると、アザミの植物体に潰された集真藍が目に入る。
花に頼ってばかりいては、兄は帰ってこない。
紫を守るどころか、おれはお荷物にしかならない――。
爪が食い込むほど手を握り締め、ごめん、と胸の内で花に謝り、靴屋から飛び出す。
背後からおれを引き止める花の声が聞こえた。
誰かを捜すなら、市場のような人の多い場所が最適だが、紫と出かけたときはネズミの姿はどこにもなかった。
次に可能性があるとすれば、この近くにある森だ。
豊かな土壌と水源のある深い森は園芸師はもちろん、王の支配から逃れた一部の動物たちが集まるのに最適な場所だ。
危険ではあるが、ネズミの目撃情報を得られるかもしれない。
走る速度を上げて、花の言葉を無理やり忘れようとした。
足の甲のくたりとした萼が風に浮く。
以前、花と歩いた草原に駆け入るとすぐに、掌に収まりそうな小さな綿毛――先日の芽切鋏を背中に乗せたウサギの園芸師が、横の草むらから飛び跳ねてきた。
首に巻かれた丸い鎖輪が、ウサギの軽快な動きに合わせて踊る。
「きゃ!」
再び彼女とぶつかりそうになり、ウサギは姿勢を低くして固まった。




