(七)
おれは足の状態を見るため片足で立ち、曲げた足を反対の膝に乗せて、足裏を確かめる。
指の隙間に入り込んだ小石を残したまま、踵と前足部が硬くなり、擦り潰したように黒ずんでいた。
紫は膝に片手をつき上半身を横に傾けて、おれの足を覗き込む。
「思ったよりも汚いね」
「……うるせぇな」
軽口を叩く紫の顔に少し笑顔が戻って、おれは胸を撫で下ろした。
「人になれたら、靴だって選び放題なんだよ」
「陽は人になりたいの?」
「兄貴と約束したからな。それに植物はつまらないだろ?」
植え込みの世界は何も起こらない。
完全植物になれば、花と一緒に草原を走ったり、兄と笑い合うことだって不可能になる。
そんな事態になるのは、絶対に避けなければならない。
「私は植物もいいと思うけど」
「冗談だろ。兄貴も完全な人体になるつもりでいたんだから、勝手なこと言うなよ」
語尾が強くなり、紫の顔色が曇る。
ハッと我に返り、おれは素直に頭を下げた。
「ごめん。言い過ぎた」
正直なところ、街中を散策していれば、兄の記憶もそのうち戻るのではと高を括っていた。
世話焼きで愛情深い兄が、おれや花のことを忘れたままでいるなんて、到底考えられなかったから。
「……私は陽のお兄さんにはなれないよ」
知らない過去を押し付けられるのは息苦しい。
紫の吐露する言葉に、頭をガツンと殴られたような気分だった。
おれの兄でないなら、おまえは一体誰だというのか。
紫はリスの残した尻尾を一撫でし、近くの草むらに入って、丸みを帯びた石の上にそっと置く。
――ここが窮屈ならどこへでも行けばいいし、兄を返してほしい。
大切な家族が記憶喪失になって、生きた心地がしないのはおれや花も同じで、身勝手な発言だとすら思った。
カラカラに乾いたおれの喉元から酷い言葉が出かかって、唾を飲み込んで必死に押しとどめた。
当たり障りのない会話だけが続いたものの、紫との間に生まれた気まずさは消えないまま、最悪な気分で先日の靴屋へ向かった。
早歩きになりながら靴屋に辿り着くと、ドアの前にぽつぽつと小さな点が一直線に並んだ足跡があった。
集会のときに、靴屋を出入りしていた動物の足跡だろうか。
そんなことを考えながら見慣れた扉の錆びた把手に手を掛けた。
ドアベルの軽やかな金属音が鳴り、店の奥から茶色のエプロンを着用した靴屋の店主が顔を覗かせた。
おれの姿を見るなり、「また君かね……」と呆れた様子で出てきたが、後ろに紫を連れているのに気づき、「今日は誰も来ないから、好きなだけ見て行きなさい」と声をかけてくれた。
おれたちは幾つか下駄を見せてもらい、最終的に金の糸で模様が施された朱色の鼻緒の下駄を選んだ。
決定打は紫に相談したら少し考え込み、自分も下駄が必要になったらお揃いにしたいと目も合わさず言い出したので、同じ模様で何色か選べるものにした。
お揃いにする日なんて、永遠に来ないでほしいけれど。
おれは心の中で呟きながら下駄を指先にひっかけ、代金を台の上に置く。
勘定台の横で靴を修理していた店主は、よろよろと膝に手をつき、身体を押し上げるように立ち上がった。
年季の入った木製のカウンターに寄りかかり、皺だらけの指先でコインを横にスライドさせて数える。
「丁度だね」と店主は二度頷き、そして顔を上げると目を丸くした。
値段を間違えたのかとおれは一瞬焦ったが、店主は背後を振り返り天井の高さまである大きな棚の引き出しから、セリートクロスを取り出すと眼鏡を外し、念入りに拭き始めた。
磨き上げられたガラス越しに、もう一度おれたちの顔をまじまじと見るので、少し冷たい声で「なんですか」と尋ねた。
力なく開いた店主の口から空気が漏れ、奇妙なことを喋り出す。
「ここ数日、変わったことばかり起きる。緑色の集真藍を見たのは初めてだよ」
おれと紫は顔を見合わせた。
緑色の集真藍なんて聞いたことがない。
「緑色の集真藍って、だれの話ですか?」
「私の老眼が進んだとでも言いたいのかね。こっちのお兄さんの集真藍の話だよ」
靴屋の店主は顎をさすりながら、紫の鎖骨付近に視線を向けた。
白い集真藍の一部、艶のある萼が中央に向かって濃い緑色をしている。
「まさか、葉化病か?」
葉化病はその名の通り、集真藍の萼が乾燥した葉のように硬くなり、緑色に変色する奇病だ。
産まれて間もない頃、兄弟揃って花から教わった言葉が頭の中を駆け巡る。
感染力が非常に強く、早急に治療をしなければ、やがて全身に広がり命を落とすと。
緑色の集真藍へ繋がる枝の部分が皮膚を締めつけ始め、紫が痛みに顔を歪めた。
紫は角の欠けた台の縁に手を伸ばし身体を支えようとしていたが、とうとう立っていられず床に膝をつく。
「紫!」
いつ、どこで感染した?
青い植物体と接触した時に、病原菌を移されたのだろうか。
それとも、あの小柄なリスか……?
ひやりと脇下が汗ばむ。
街に出て植物体の病に詳しい植物医を探すか、それとも花を呼びに家へ戻るか?
「くそっ……!」
考えている余裕はなかった。
靴屋の店主に刃物はないかと聞くと、店主はそれなら地下のキッチンに……と店の奥にある階段を戸惑いながら指差す。
緑色に変色した萼を鎖骨の下を抑えながら、呼吸が荒くなる紫を店主に一時的に預け、おれは地下へと走った。
急傾斜の階段を進むと、じめじめと湿った空気がおれの頬を撫でる。
舞い上がった埃を吸い込み、咳が出た。
階段の狭い踏み板を踏み外しそうになり、咄嗟に木製の手すりに掴まると、腐食した手すりが崩れ落ちる。
地下室へ足を踏み入れた際、真っ先に閉め切った状態の地下の窓が目に入った。
窓ガラスは曇っており、外の光を遮っているせいで薄暗く、微かにカビ臭い。
流し台に水滴の落ちる音が、狭い空間に響き渡る。
階段を下りたすぐ手前に壁付けのキッチンがあり、おれは手当たり次第に引き出しを開け漁った。
皿やフォークはあるが、肝心の刃物は置いていない。
「なんだこれ……」
キッチンの隣に置いてある食器棚の前を塞ぐ複数の椅子を、同時に抱えて壁側に寄せる。
壁には数センチの黒ずんだシミのような跡が続いていた。




