(十三)
複数の青い手が白い萼を避けながら上腕を掴み、紫の薄い身体を引っ張り出す。
病み上がりの紫は小さく抵抗するが、引きずられるようにして押し出され、ついには水に足を取られてよろめいた。
「紫!」
広間に降りようとすると、王の身体が視界に割って入り、おれの行く手を阻んだ。
「白い集真藍が気に入らないなら、おまえが飲んだその薬を、紫に渡せばいいだけだろ!」
相手が植物の国を支配する者の一人だということも忘れて言い放った怒号に、玉座の後方で控えていた側近の肩がビクッと跳ねた。
驚いた拍子に薬の入った最後の小瓶がトレイの上で転がり、硬質な金属音が鳴る。
王がちらりと目を遣ると、側近は頭から被った薄い布を揺らし、一歩後ろへ下がった。
「白い彼のことはもういいんだ。目的は達成した」
「は? ……だったら、どうして紫を連れてきたんだ」
「陽は兄が飲んだ秘薬の中身を知りたがってたんだろ? 折角だから、二人に見せてやろうと思ってね」
見せる?
「最愛の兄が記憶を失ってから、君は苦労したんじゃないのか? 陽」
心に重くのしかかっていた葛藤を、初対面の相手に見抜かれ、小鼻がピクリと引きつった。
何を言うつもりか知らないが、人を憐れむような言動に嫌な予感がして、余計な反論をしないように唇をきつく結ぶ。
おれが押し黙るのを見た男は目元を細めて、穏やかに笑った。
「知恵を持つ者は、どんな状況でも教育者にならざるを得ないからね」
記憶を失う以前の兄や園芸師の花が、おれにとっての導き手であったように。
「考えてみると、白い彼も可哀想だな。植物に侵食された身体で、見ず知らずの家族に囲まれて……。冬が訪れるまでの間、怯えて暮らすしかない」
嘘だ。
紫がおれたちに怯えるような素振りは一切なかった。
「……大きなお世話だ。紫はみんなと楽しく過ごしてた」
「本当にそうか? 異質な存在を目の前にして、子供のように無邪気に振る舞ってたのは、彼は本能的に知ってたんだ。陽たちに気に入られないと、自分は植物の国で生きていけないとね」
まるでおれたちの生活を、その目で見てきたかのように語り出して、うんざりした。
紫自身、自分が記憶喪失であると気づいた直後は、不安に苛まれていたかもしれない。……けれど。
花と戯れていた時も、市場へ出掛けた時も。
家族の顔色をいつも伺って行動していたなんて、おれは信じたくなかった。
「彼に聞いてみるか? ——記憶のない世界で目覚めて、一瞬でも楽しめたか?」
容赦のない追撃に耳を塞ぎたくなったが、紫の見ている前でそんなみっともない真似はできなかった。
青い植物体の手は紫から離れていたが、おれは基壇の上から、その場に立ち尽くす白い萼を見下ろした。
赤い集真藍の萼片の中心部にある窪みから、雫がひそりと零れた。
「……肌に当たる集真藍の葉のザラザラした感触も、枝が身体を這う感覚も、ずっと気味が悪かった」
水鏡に映る紫は、苦しみと悲しみが入り交じったような複雑な表情を浮かべていた。
陽の兄にはなれない、そう感情を表に出した紫と初めて揉めた時にも、彼はこんな顔をしていたなと頭の片隅で思い出す。
「陽の家族を奪ったのに……逃げたかった。記憶が戻る保証もないし、他の動物たちと接して、ここに居続ける理由を必死に探したけど」
何も見つからなかった。
最後は声も掠れて、弱々しくなっていく。
おれたちが家族なのは、記憶があるから。
思い出を積み重ねてきたから。
記憶を失った紫は当然家族ではないと、彼は自分を苦しめていた。
おれは紫の気持ちを、全く理解してやれていなかったのだ。
誰よりも一緒にいたのに。
「でも私はこれ以上、誰かの大切なものを奪いたくないんだ」
紫の指が鎖骨に触れる。
葉化病に感染した株は刈り取ったから、そこに兄の白い集真藍は存在しない。
日焼けしていない肌の色だけが、過去の爪痕を残す。
紫は静かに顔を上げた。
その時、側近の手から銀製のトレイが石の床に落ちた。
潰れた悲鳴とともに耳の鼓膜を叩く。
地面に落ちた銀のトレイが左右交互にぐらつき、天井から注ぐ光を乱射した。
白飛びした世界に置き去りにされ、その眩しさに思わず右腕で目を守る。
苦しそうな呻き声が聞こえて腕を外すと、側近の頭部から長いベールがするりと脱げ、耳を覆うようにして咲く緑がかった青い集真藍が表に出る。
ベールは光沢のある石の上を滑り落ち、紫たちが佇む平らな水面を漂った。
「あ、あ、私の集真藍が緑色に……っ」
布地が水を吸い、色が濃く変わるような速さで。
高く掲げた側近の手の青い萼片が、見る見るうちに鮮やかな緑色へ変色していく。
「よ、葉化病!?」
身体中を走る枝に突き上げられ、側近の上半身が激しく揺れ始めると、その異様な光景に青い植物体たちも騒ぎ始める。
同じ病に罹り、靴屋で倒れた経験がある紫の顔は真っ青だ。
上半身に密集した枝が皮膚を圧迫し、側近は目をカッと見開く。
腕や喉の血管が浮かび上がり、骨の折れる鈍い音が聞こえた。
同時に、彼の足はわずかな段差を踏み外し、大きな水飛沫を上げてその場に倒れ込んだ。
下顎の筋肉が緩み口元は半開きのまま、顔半分が水に浸り、緑色に染まった集真藍は二度と動かなくなった。
「これを治したんだから、やっぱり君はこの薬を手にすべきだよ」
王は何食わぬ顔で床に落ちた小瓶を拾い、頭の高さにまで持ち上げて、小瓶の中を覗き込む。
指でくるくると回転させながら、入れ物に傷が入っていないことを確認すると、絶句するおれに小瓶を再び差し出した。
「偽物のお兄さんに気を遣う必要なんてないだろ? 君は誰よりも優秀な植物体なんだから」
賞賛の言葉なんて、何一つ耳に入ってこない。
今この瞬間だけは、完全植物になったほうがマシな気分だった。
「紫の時は……こんなに症状の進行が速くなかった」
おれは吐きそうになるのを堪えて、斜め下の床を睨みつけた。
艶やかな石の床を、亀裂が途切れ途切れに走っている。
階段下で倒れた側近が裂け目の上に重なって、全貌は見えない。
「君たちが私のところに訪れる、この絶好のタイミングで見せたかったから、皆に結構な量の秘薬を飲んでもらってたんだよ」
秘薬を飲んだから葉化病を発症した……?
側近が命を落としたのは、目の前の男が故意に行ったことだと悟り、感情が昂って熱くなった顔を上げた。
「紫が倒れたのも免疫が落ちていたせいでも、秘薬の副作用で起きたわけでもなかったのか」
「陽の大切なお兄さんが、記憶を失う程度で済んで良かったね」
最悪な形での答え合わせに、膝から崩れ落ちそうな気持ちになった。
「い……っいやだ、死にたくない!」
今度は青い植物体の列の端で、右前方、紫の隣で、複数の場所から悲鳴が続く。
「冬が来たら、人としての活動は停止するだろ。君らは優秀な植物体じゃないんだから。運命が少し早まるだけで、そう騒ぐな」
「ふざけんな!」
声を荒らげたおれを、馬鹿にするように肩をすくめる。
何人かが硬く変色し始めた萼を必死に爪で掻き毟り、部屋中でのたうち回った。
「こんな……っ何故ですか、王!」
葉化していく集真藍の叫び声が謁見室に響き渡り、視線が一斉に集真藍の王へ集中する。
彼の唇の両端は固定されているかのように上がっているのに、目の奥は笑っていない。
「色変化の秘薬は、白い子でなければ副作用は出ないと……っ! 我々に害はないと仰っていたではありませんか!」
「我々は王と同じ色に……! 特別な存在に近づけると貴方が仰ったから、その言葉を信じて皆で飲んだのに」
「集真藍の王に近づける? ——本当に図々しいな」
青い植物体たちの悲痛な訴えを、集真藍の王は冷めた目で突き放した。




