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(十二)

 男がこちらに向かって、何かを投げた。

 

 太い筆先のようなものが、ポチャン……と小さな音を立てながら水に浸かった足元に落ちて、波紋を広げる。

 

 おれは顎を引き、謎の物体の行方を目で追った。

 茶色の毛の隙間から、小さな気泡がぷくぷくと浮かび、水面で弾けている。

 

 水の中へ沈むそれは、紫が石の上に置いてきたリスの千切れた尻尾だった。 

 

「王というのは煩わしいものでね。周りが褒美を期待して、様々な物を運んでくるんだよ」


 まあ、お陰で集真藍の植物体の行動は全部筒抜けだけどね。

 集真藍の王を名乗る男は不敵な笑みを浮かべながら、白い椅子の肘掛けに浅く寄りかかり、優雅な仕草で手を前に組んだ。

 

「玉座って意外と座り心地が悪いんだよ。君も座ってみる?」


 十数層の段差がある基壇の上に一席だけ置かれた白い椅子は装飾が削ぎ落とされ、玉座と呼ぶにはあまりにも簡素な作りだった。

 おれが飛び込んだこの部屋は謁見室のような造りで、男の軽薄そうな態度とは対照的に、部屋は妙に厳かな空気に包まれていた。

 

 しかも、彼が本物の集真藍の王だというのなら、白いオオカミが扉の外に待機しているにしても、護衛の一人も傍に置かないのは不自然でしかなかった。

 不信感から男の正体を疑いたくなったが、彼の喉元を華やかに彩る、紫紺色の大輪がその疑いを打ち消した。

 

 ——いや、喉元の集真藍だけではない。

 紫色の集真藍は、室内の至るところにあった。

 

 集真藍の王が腰掛ける玉座の背後に、形の異なる陶器の植木鉢がずらりと並び、そこに紫色の集真藍が咲いていたのだ。

 おれの視線が後方に逸れたことに気づいた王は、ああ……と抑揚のない声を漏らした。


「後ろの植木鉢が気になるかい? これが前の集真藍の王さ。その前、その前の前の……みんな集真藍の王たちだよ」


 彼は髪を揺らしながら玉座を離れ、天井から降り注ぐ光に照らされた一鉢ずつを紹介し始める。

 

 長い間、王宮で大切に扱われてきたであろう集真藍たちは、思わず息を呑むほど美しく、神々しい気配すらあった。

 橋の欄干に咲いていた青い集真藍も月に照らされ、見事なものだったが、王宮の集真藍は適切に剪定され、乾燥しないように手をかけられているのがよくわかる。

 

 圧倒的な佇まいに見入っていると、集真藍の王は植木鉢を見下ろし小さく鼻で笑い、その足で次々と蹴り倒していく。

  

「!? 何して……!」

 

 植木鉢の中から土が飛び散り、紫色の集真藍が石の床にくたりと倒れた。

 

 驚きのあまり、身体が前に出て転びそうになった。

 白いオオカミに執拗に追いかけ回された直後ということもあり、腰の引けた足に無理やり力を入れ、水の中を走る。

 水際に泡を立て、白波とともに玉座の正面まで来ると、王の許可を得ることも忘れて、濡れた下駄で低い段差を上った。

 

 幸い、基壇の上は浸水しておらず、床に零れた土を手でかき集め、倒れた集真藍を植木鉢に戻そうとした。

 集真藍の王は「そんなことしなくていいのに」と残念そうに呟き、おれを見下ろした。


「紫色の萼を持って産まれた自分は特別だと思って、何も行動を起こさなかった結果が、この有様さ」


 集真藍の王は淡々とした口調で喉元の萼片を掴み、指の腹で優しく撫でつける。

 そして、床に蹴り倒した同色の萼を、まるで道端の雑草でも踏むように、平然と踏み潰した。


「……っ!」

 

 急に、アザミの植物体に踏みつけられたあの痛みが蘇り、足の指をぎゅっと丸めた。

 ——幻覚痛だ。

 赤い集真藍が青色に変色する幻覚を見たり、集真藍の王宮に立ち入ってから、身体の調子が悪い。

 太腿の前側が痙攣(けいれん)し始め、足に力が入らず、その場から一歩も動けなくなった。


 

「靴屋から話は聞いてるよ。葉化病の治療を試みた植物体というのは、君のことだろ?」


 度胸があるね、と集真藍の王は笑う。


「陽、君は完全な人体が欲しいんだろ?」


 甘い声とは裏腹に、有無を言わさない目が後頭部に突き刺さる。


 この様子なら、兄のことも王宮に侵入した目的も、集真藍の王には全てを知られているだろう。

 心臓がバクバクと強く鼓動して、かろうじて、集真藍の王の問いかけに頷くのがやっとだった。

 

「優秀な植物体には、完全人体を得る資格を与えられるって……」

「その通りだよ。実は体内の植物を枯死(こし)させる薬は、数が限られていてね。全ての植物体に渡すことはできないんだ」


 白いオオカミの猛追を終わらせた重い扉の片側が開いたのが見え、薄いベールを纏った側近らしき人物が謁見室へ入ってきた。

 おれは力の抜けた足を引きずり、柱に腕を押し当てて体重を預け、なんとかして立ち上がる。

 

「私の周りは、特別な存在をありがたがる者ばかりでね。植物体の運命に足掻く君の存在を知ったとき、私も目が覚めたんだ」

 

 側近は真っ直ぐこちらに向かって歩いてくると、側面に取っ手の付いたオーバル型のトレイを、王の前に差し出した。

 その時、薄いベールがめくれ、側近の腕があらわになる。

 緑がかった青い集真藍が咲いているのが見えた。


「特別なんて意味のない言葉に縛られる必要はないのだと、教えてくれた君に渡したいと思ってたんだ」

 

 銀製のトレイの上には、小瓶が二つ乗っていた。

 目を見開くおれに、街中に出回っている怪しげな秘薬とは全くの別物だと、集真藍の王が念を押す。

 

「完全人体になれば靴屋や植物医のように、立派に働く必要がある。植物の国で暮らすためには、お金がたくさん必要だからね。……君のような優秀な植物体でなければ、薬を渡せない理由の一つさ」

 

 集真藍を踏みつけるという奇行を目の当たりにして、彼の好意を素直に受け取っていいものか決めきれずにいると、目鼻立ちの整った顔を寄せてきて、「お兄さんのことは残念だったね」と耳元で囁いた。

 

 男の言葉に血の気が引き、柱の横に流れるようにして距離を取った。

 どういう意味か問う前に、彼は両の掌を向け他意は無いと、わざとらしい態度を取った。


「君が思い悩むのも無理はないが、記憶が無いのなら彼を解放してあげるべきだ」


 それは紫以外の、おれや他の誰かが決めることではない。

 心を乱されまいと深呼吸をして、気持ちを抑え込んだ。

 

 王宮に忍び込んだのは青い植物体を探すことと、ウサギの頼み事を聞くためなのだから、薬の扱いについては、一旦持ち帰り花や紫と話し合って決めればいい——。

 考えをまとめて、おれは二本の小瓶に手を伸ばした。

 

 すると、それよりも先に集真藍の王が、銀盤の上の小瓶の一つを手に取った。

 

 コルクの蓋を開けると、小瓶を傾け中身の液体を勢いよく飲み干す。

 液体が喉を通っていくのと連動して、彼の喉元に咲く紫紺の萼片も上下した。

 

「私はそこの愚王たちのような、飾りの一つになるつもりはない」

 

 冷ややかな目で集真藍の王は空になった小瓶を、紫色の潰れた集真藍の上に落とす。

 落下の衝撃に小瓶は砕け、ガラスの破片が四方に飛び散り、その一部がおれの頬を掠めた。

 

 二本とも持ち帰れると思っていたおれは、戸惑いを隠せなかった。

 

「なにを驚いてるんだ? 残りの一つは君の分に決まってるだろ?」


 ギギィ……と音が響き、ベールを被った別の側近が正面にある大扉を開いた。

 水の床に滑らかな波が次々と立ち、今度は青い植物体たちが列をなして室内へ。

 

 彼らは部屋の中央あたりまで進むと、左右に分かれて足を止めた。

 波紋が消え、水面が静まる。

 水鏡になった床が室内の風景を反転して映す。

 

 青い植物体たちの間から現れたのは、靴屋で休んでいるはずの、白い集真藍。


「よ、陽……」

「知ってるだろ? 私が園芸師たちに下した命令を」

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