鬼(オニ) ─参、
< ……未だ、信じて無ェのかイ? >
眠りに沈んだ意識の深淵より、声。
< 信じたく、無ェんだろう? >
< あの、神が宣った一言をよ >
< 其の…… 眼、だ >
< 其の髪も >
< お前は、俺の――― >
「違う!!」
叫び飛び起きた其処は、行灯の光に照らされた自室であった。
汗が滴り、タシ、と手に落ちた。
冷えた空気。
行灯の炎が僅かに揺れ、止まっていた空気が僅かだけ流動した。
「…… し乃、」
隣にて眠っていた筈の焔屋が、掠れた低い声を漏らす。
「魘されていやがったな、」
「……聞かれておったかえ、」
「ンなデカい声をこんな近くで出されりゃァ聞こえるぜ、」
ククッ、と笑いながら、し乃雪の背に手が触れる。
温かな手が漸く自分が覚醒している事を自覚させ、心地良い。
< ……俺が今、 >
「…… のぉ、焔屋」
「ん?」
間の抜けた返事だ。
無理も無い、彼も又今まで眠っていた筈。
背にあった手がゆっくり腰に落ちて来たが、恐らく他意無き無意識のものであろう。
其れをそっと握り、瞳は焔屋へと向いた。
「如何したイ、萎れた顔して」
「……俺は、人に見得るかえ?」
「お前は何かに化けられるのかイ?」
< 何処に居るのか、 >
「否、無理じゃの……」
「ツノがあるのかイ?」
「…… 無いわえ、」
「火とか氷とかは出せるのかイ?」
「…… 似た様なものなれば」
「そうだったな、」
< 俺が、何を今しようとしているのか >
「…………鬼、が」
「あン?」
「鬼の声が、……俺を、呼び続けるのじゃ」
「鬼、……村正みてェなのかイ、」
「さて、其れか如何かは分からぬが……」
< 知りたくは無ェかい? >
「…………」
瞳より少しばかり光が消え掛かっている様を、焔屋は暫し黙り、じっと見詰め。
……まるで、次第に心を乗っ取られ行く様な素振り。
白く美しい天人が、空っぽな表情へと変わっていく其の姿が、……
< 待っていな、 >
< もうじき、迎えに行くぜ >
「いやらしい表情してンじゃ無ェよ、ダイコン」
ククッ……笑った焔屋の声がにわかに割り込み、はっと目に光が戻る。
不思議と、其の数瞬前までの感覚は消え去り、言葉の意味を理解した瞬間、かぁ…と顔が熱くなる。
「……どの様な顔をしておったかえ?」
「"気持ち良さげ"、だったな」
「もう……助平、」
笑いながら返す。
ゆるり。
そう言えば先刻まで揺れていた行灯の光は今静かに落ち着き、何時もの静寂を照らしている。
もう、外の活気も大分落ち着いている様子。常なれば夜が明けるまで錦を人が歩くが、今宵は沈黙の間を桜揺れる音が心地良く流れている。
「なァ、し乃雪」
空気が生肌に冷たく、再び布団へ潜ったし乃雪に、紅蓮が言う。
「ん、」
「鬼、鬼、たァ……最近良く聞く言葉だな。
人も鬼に取り憑かれているとか何とか、殺しが増えていやがるらしいしよ」
「流行りやも知れぬの?」
「……いいや、」
「ん?」
不意に返ってきた言葉が予期しなかったもので、し乃雪の目が焔屋へと向く。
「否、とな?」
「俺があの刀を作った理由、だ」
空気が再び流動し始めた事に、二人は気付かぬまま。
「"鬼童"を知っているかイ?」
「鬼童、……東にて、山賊を襲って回ったと言う噂の事かえ?」
「オレがあの刀をこさえたのは、村正と言う"刀"の"鬼"を、同じ"刀"と"鬼"で倒す為だった。
あの刀は、鬼が持つ為の刀だ……鬼が持って初めて完成する。
オレは丸の親父……疾風に"鬼"の心を見出し、アイツに刀を渡した。
……本物の"鬼"が、直ぐ側に居た事を知らずによ」
「本物の、」
ふぅ……。
溜息と共に見上げた天井。
暗く、何かが潜んでいるかの如く……ぬらりとした闇が、ある。
「アイツの母親がな、生きていた時に一度話していやがった。
里から逃げたのは、御神体……"鬼の角"を、そして其れに宿る鬼神様を、里が葬ろうとしていた故だ、と。
「鬼とて神様、其れを理由無く葬り去るは余りに罰当たりだ」、と。
見せて貰った其れをよ、……そして、オレがこさえた"刀"を。
"鬼童"は……早良乱丸は、持っていやがったのさ」
口を噤んだまま、し乃雪は焔屋を見詰めている。
複雑な目だ。其れは、焔屋には図り知れぬ程に。
「嗚呼……なァ、やっぱりよ。
丸の目ァ、いけねェ目だった。信じたくは無ェんだがよ……
オレは丸を……止めなきゃァ、いけねェかイ……
アイツなら、疾風の息子なら、大丈夫だと……思ってたンだがなァ……」
「未だ、早良が妖を殺める此度の"鬼"とは決まっておらぬであろうて?」
紡がれたし乃雪の声が、少々震えている。
しかし力強く、彼は真っ直ぐに焔屋を見遣る。
「其れこそ、一度会うて聞いて見ねばいかぬの?
で無くば、落ち着かぬよの?」
「……」
「案ずるなよ、大丈夫。
日が昇ったら共に、早良を探そうぞ」
俯いていた焔屋が、し乃雪を見た。
今まで見せた事の無かった弱々しい目。
……不安にて涙を溜めている様にも見得、子供の様に、微かに震えている。
普段なれば雄々しき赤髪を、そっと抱き締め。
胸元にある彼はし乃雪に腕を回し、甘える様に顔を埋めた。
……ずっと、不安を我慢しておったのであろう。
同時、し乃雪の胸の内にも、混沌たる不安が渦巻き始めた事を、自身で感じていた。
"御神体" "鬼の角" "持って逃げた"……
聞き覚えのある言葉。
認めたくなかった。
* * * * * * * * * *
――― ざわ、ざわ、ざわ。
其の姿を見た途端、木々は悲鳴を上げ、動物は姿を隠した。
異様な程に、気配。
殺気、似て非なる、これは享楽に嘲笑う、極卒の如き。
しかし酷く濃く、重たく、空気が歪むかと錯覚する程に。
――― ざく、ざく、ざく。
地を踏み締めるかの如く、ゆっくり、確実に、歩く、足。
興奮に酔う様な、深い、呼気。
額を破り生える、三本半の角…折れた半の角を首から下げ。
唇を舐める其処に、深い牙。
手にしたままの刀の抜き身が、ツヤリと艶めかしい。
らんらんと輝く瞳は、常に真っ直ぐを見詰めている。
この先だ。其の先だ。
"気配"を見ているらしい。其の先に"目的"が居る事を、知っている。
獲物を追うが楽しい、そう眼は言う。
――― 楽しい。
そう、楽しくて仕方が無い。
嗚呼……愉快でならぬ。
淀む其の気配の背後。
ギィギィと叫ぶ異形の塊が居た。
妖だ。
普段なれば有り得ぬ程に高密度の障気に当てられたのであろうか。
苦しみもがく様な仕草にて、ゆぅるり歩き続ける其れに牙を向き爪を出し、
飛び掛かった、途端。
"スパンッ"
銀の輝きが閃光を描いた。
次の瞬間、其れへ飛び掛かった妖は真二つとなり、紅いものを周囲へとまき散らし。
地へ、沈んだ。
ヒク、…と、未だ蠢く其れに、しかし侍は振り返る事は無い。
古傷にまみれた額に生えた角が、ミシ、と軋む。
少年の面影を濃く残す侍の顔は、ニィ、と笑い。
立ち止まった。
「よォ…… 漸く逢えたな?」
其の数歩先に、もう一人。
黒い異国の外套にて身を包んだ男の姿がある。
釜の様な黒い帽子を深く被り、まるで烏の様な姿。
……否、良く見れば其の外套も、帽子も、唯一肌見える頬も、赤黒い何かべっとりとこびり付いている。
「貴方がちいちゃかったあの時、以来。ですねェ……?
嗚呼、……こんなに傷だらけになっちゃって。
もう、売り物にもなりゃあしない」
ニィ。
三日月の形に口が裂ける。
「貴方に切り落とされた指も、ホラ。
"元に戻りました"よ。
あの時まさかね、切り落としたお父さんの腕をひっ掴んで、其の手に握られた刀で斬り付けて来るとは、ねェ……?」
「特段驚かねェや。
お前が"俺"と同じ"鬼"だ、ってェ事たァ知っているんだよ」
「…… おや? 貴方、乱丸くんの……」
「気付くのが遅ェよ」
ミシ、ミシ。
角が軋み、ニタァと笑みを作る、侍。
「幕府に憑く"鬼"がよ……クク……
この可愛い可愛い疾風の子を、よくも虐めてくれたなァ?
俺の"息子"……蘭樹まで奪いやがって、なァ……
潰してやるよ!!」
"ダンッッ"
地を蹴りあげ、其の身は音速。
目に留まらぬ速さで振り上げられた其の動き、元の彼に非なる。
空気が刃となり黒服を捉え、しかしギュンと唸りて空間を斬り、裂いた。
途端、もやの如く揺れる姿。…黒服の姿はどうやら幻らしい。
せせら笑いながら、黒服が言を返す。
「クク…惜しいですねェ?
私は此処に居る訳が無いでしょうが」
「嗚呼、そうだろうなァ……しかしよ、良いのか?」
「何がです、」
「お前は"己"の敵だ」
ゆぅらり。幻が消え掛けた所に、侍はもう一閃。
ギュン、空気が唸り、幻は斬り裂かれ、消滅した。
"ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲンンンンンン……"
空気が鳴動し、空が掻き曇る。
侍の背後。
……ドロドロドロ……歪んだ空間の塊。
其れは、飽和状態の障気に負けて"彼"の配下となった妖達の塊である。
密度濃い其の障気は、周囲の草木を目に見える早さにて枯らし始めている。
唸り続ける妖達にニィと微笑んだ、其の侍の前に、先刻の黒服とは違う男が駆け寄る。
いつの間にか姿を現し、息を切らした其の姿……外套ならぬ、忍装束。
「……早良!!
お前、何があった!?」
其れは、空気の異変に気付き藤雅を飛び出した、鴉獄だ。
濃度増した障気に怯える狛虎達を、無理に引っ張り出す訳には行かぬ……そう判断し、一人調べに出たのであった。
其の目は驚愕、そして恐怖に揺れている。
早良、と呼ばれた侍は、ギシリ…角を軋ませ、源三郎を見遣った。
其の眼……鵺よりも禍々しい、赤黒に浮かぶ金の瞳。
「ほぉ、お前かよ……"源三郎"」
「おい、まさか早良……妖の殺しとは、」
「嗚呼?……嗚呼、お前なら分かるだろが、なァ?」
"ドッ…!!!"
空気の衝撃が、鴉獄の身を叩く。
脳天を打ち抜かれた様な感覚。
身が動かなくなり、思考が吹き飛ばされた。
「が……ァ……!?」
「お前、"息子"の眼ェを良ォく欺けているよなァ?
褒めてやろうか?
お陰で"お前なんか"にすっかり懐いちまって。
……嗚呼、いや、アイツは優しいからなァ、」
これは不味い。
思った時には、身の感覚が消えた。
まるで浮いている様な。
ぞわり、……意識が黒いものに染め上げられていく。
人を欺く為の"理性"が、全て削り去られて行く心地がした。
削がれて行く……
剥がれて行く。
猫又に操られたあの時に感覚が似ており、しかし非なる。
「ぐ、あああッ……あ……」
視界が、揺れる。
青緑に、濁っていく。
早良の指が、自分の方を向いている。
見えぬ"糸"が金色に鈍く反射しながら、自分へと伸び。
「しかし、丁度良かった。
お前みたいな奴が欲しかったんだ……
ちィと、"お遣い"を頼まれろよ?」
「やめ、ろ……やめ…ッ……」
「吼えるなよ、子烏が」
早良の顔が、早良ならぬ微笑みを浮かべ、嬉しそうに角を軋ませた。
ギシギシ、ギチ……
其の音は理性と共に遠退き、終い、
「…………」
"ブッ … ブチ……"
"ザ ァ……、"
……背の皮膚が、拒む様に裂け。
"解放"される感覚がした。
* * * * * * * * * *
手掛かりを探す為、吉原を出た二人。
……慈恩寺……付喪神達へ会いに行く、其処は郊外。
遠い、遠い向こうにて、オオオオォン……と獣達の声の様な音を聞き、し乃雪の脚がひたり止まった。
酷く胸を揺るがせる、嫌な音だ。
風の唸りなのだろう、しかし妖の悲鳴にも聞こえ、身震いが止まらない。
「怖ェかイ?」
前を歩く焔屋がふと振り向き、問う。
彼にはこの嫌な空気は感じぬと言う。
しかしし乃雪の反応は敏感に感じ取り、時折こうして案じてくれる。
「……嗚呼、」
青い顔にて、小さく頷くし乃雪。
「酷く気持ちが悪いわえ……」
「身篭もりでもしたかイ、」
「戯け、」
漸く少しばかり笑顔を零す。
が、相変わらず…否、時が経つに連れ障気は濃厚になっていく。
感覚が麻痺し始め、鈍色の景色がゆぅらり蜃気楼の如く揺らぐ。
このまま歩き続け、果たして慈恩寺まで行けるのであろうか……。
目的地へ続く道にある最後の木の幹に、漸く手を付いた、其の数瞬ばかり後だ。
唸りの聞こえた方……慈恩寺の方角より、今度は違う風。
「……?」
先程までの障気とは違う其れに、し乃雪は顔を上げた。
冬の北風に似た冷たくさわやかな風がヒュルル……と鳴き、同時に聞こえ来るは美しき女の声。
「……太夫!太夫、紅蓮様!」
「あ?」
不意に嫌いな方の名を呼ばれ、間の抜けた声を漏らす焔屋。
し乃雪も又餌付く胸を押さえ見遣れば、重い曇天を此方へ走り来る鮮やかな玉虫色があった。
馬よりも大きな、しかし馬よりしなやかな其の姿……麒麟だ。
北風を従え真っ直ぐ二人へと駆け寄った麒麟、如何やら少しばかり浮いているらしい。
ふぅわりと目前へ音無く立ち止まり、白い着物の女の姿となってぺこり頭を下げた。
霞である。
生温く不快な障気は北風にて消し去られ、瞬く間にし乃雪の身より不快感が消え。
小さな安堵の溜息と共に、彼の顔は理性を取り戻した。
「霞じゃあ無いかえ!何じゃ、綺麗な妖に化けるのじゃのぉ?」
「太夫、いけませぬ!」
「何がじゃ、」
「危険に御座います、妖達が殺気立っておりますれば……!」
「……アンタ、カブの兄弟か何かかイ?」
ぽろり零した焔屋に、其の一瞬にこりと何時もの柔らかな笑みを向ける霞。
「左様に。お初にお目に掛かります、霞と申します」
「……カブにそっくりだがァよ、別嬪さんだなァ?」
「お褒め頂きましても何も出て来ませぬで、」
ほほ、と上品に笑い零す霞。
相も変わらず己を崩さぬ姿、先刻の霞の剣幕はすっかり消え失せ。
「霞よ、」
「はい、」
「妖が殺気立って如何したのじゃ?」
「……嗚呼!そうで御座いました!
慈恩寺が戦場となっております、其れに一部の妖は太夫の名を口にしておりますれば……
何が起こるか分かりませぬ。太夫、御身を御隠し下さいませ」
我等の社までお送りします故、さあ。
促そうとした霞の言葉を、あの不気味な声が遮る。
"ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲァァァァァ……!!!"
先刻のものより次第に大きくなり、青褪める霞の顔。
嗚呼……と、紅に塗られた唇より声が漏れた。
「少し、遅う御座いました……」
"ゴ、ォ!!!"
上空を、雪崩れ来たものがあった。
無数の黒い影だ。
大きな旋風となり、無数の其れが郊外へ続くこの広い野原を駆け回り、散った。
妖の塊が入り乱れ、川となり、しかし其れ等はお互いへ刃を向け、刻み合い、狂い笑っている。
ボタボタと雨の如く振り撒かれる妖達の血が、し乃雪の頬にも数滴流れた。
「……百鬼夜行、まさか」
「おう、これが噂の百鬼なんちゃらかイ?」
「平安の世にて、都に恨み持つ鬼の障気に狂わされた魑魅魍魎達が川となり襲い来たと言う。
霞、やはりこの障気は……」
「左様に。
先程白銀より伺いまして御座います。
妖の"殺し"が、人の"殺し"が起こった跡を彼方此方彷徨いつつもゆっくりと追っていた、と。
そして途中より離れ行き、慈恩寺へ向かっておるとの事。
慈恩寺は危ない、この地よりお逃げ下さいと、彼女が教えて下さった直後に御座いました」
「…… 人を殺して回っている"何か"を、この百鬼夜行は追っていやがる……
"鬼"が、其の"何か"を狙っている、のかィ?」
「……否。どうやら、途中で流れを変えた様子に御座います。
今はこの流れ、吉原に…… !?」
そう、震える声にて霞が言った直後の事。
黒き影の幾つか……否、ひと塊が、クン、と方向を変え、此方へと向かい来た。
滝の如く雪崩れ、向かい来る……しかし其の影は見た事のある姿ばかり。
"見付けた……みつ、けた、ぞ……
蘭樹!蘭樹ィ!!"
同じ言葉を、どの妖も口にしている。
破れた唐傘を頭に持つ巨大な鬼。
炎を纏った虎の如き獅子。
腕に傷跡のある一見人に見えるくノ一の女。
書を羽衣の如く纏った十二単の鬼女……。
其のどれもが、し乃雪だけを見、失くした筈の名を呼び、気が狂うた様に刃を向けた。
「槇島!狛虎、白銀!?霧島まで……」
「いけませぬ、此処は私達が!!」
霞が姿を変え、麒麟となりて立ちはだかる。
其の前を、妖の川を縫って飛び来た鵺も降り立ち、二柱は二人の周囲に透明な壁を作る。
妖達は壁目掛けて身を投げ、刃を向け、血飛沫が壁を滴った。
「行け、太夫!!身を隠せ!!」
「朧!?」
「吉原には戻るな、我等神に任せろ、主は出るな!!」
見渡せば、彼方此方に妖とは違う姿が舞い降りている。
遠くの空で白龍が空を斬り裂きオオオオォンと吠え、其れを合図に紅蓮がし乃雪の身をぐいと引いた。
「チッ…闇御津羽神まで来ていやがる」
「……まさか、」
「行くぞ。こりゃァ、本当に不味いぜ」
其の動きを察したのであろうか。振り向けば、馬車程の大きさをした狛犬が背を見せている。
豊富なたてがみを揺らし、幼い少女の声にて二人に語り掛けた。
「にいさん、おじちゃん。のって」
「おねね!お前さんまで、」
紛れも無い、其れは以前よりし乃雪の傍にいる禿・ねねの声。
一度だけ少女の姿を見た事がある焔屋、言葉を失ったか何も感じぬのか、無言にてし乃雪の背を押し、自らも獣の背に跨がる。
途端、重さを感じぬ様子にてぱっと狛犬は飛び立ち、上空へ続く百鬼夜行の流れとは違う方向へ走り始めた。
……改めて、見る。
あの流れ、吉原へ続いている事に、気付く。
「詰まりよ、……何が起こっているンだイ?」
ぽつり、焔屋が漏らす。
「この百鬼なんちゃらは鬼の所為、だが鬼はさっき襲って来た中に居やがっただろうがよ?
アイツじゃァ無ェのかい。
……頭がぱんぱんだぜ……」
「あれはつくもがみのかしらさま。あやかしなの」
ねねが静かに返す。
「詰まりよ、下手人……下手鬼は強ェのかイ、」
「おにだけど、かみさまなの。きしんさま、なの」
「何でこんな事していやがるンだイ?」
「おこってる、きっと。おにのかみさまがひとにおこってる」
「闇御津羽神まで出て来るたァ、どんだけ酷ェ事なんだ、」
「おにのかみさまがおこると、かみさまでもとめられない」
「下手鬼は何処に居るンだい?」
「あのいぎょうのかわがむかうほう」
「……吉原、か」
「よしわらはえどのきもん。
それに、きしんさまは……
にいさんを、ねらってる」
妖の川より、ぐんぐん離れ行く。
田畑のなびく流れが唯一心地良い。
し乃雪はずっと口を噤んだまま俯き、……しかし。
突如、ぐいとねねのたてがみを引っ張る。
「いたぁい!」と鳴いて立ち止まった狛犬に、し乃雪は叫んだ。
「吉原へ向かえ!」
「おい、ダイコン何言って」
「早良が其処におる筈じゃ、心配では無いのかえ?」
「お前を守るのが先だ!オレが後で、」
「焔屋。
お前さん、よもや最初から分かっておったのでは無いかえ?
……俺を吉原より離す目的で訪ねて来たのじゃろうて」
焔屋が、一瞬口を噤む。
すと目を細め、口角がほんの少しだけ上がり……
其の答えを口にする事は無いまま。
「……嗚呼、オレの負けだ。
お前の好きにしな……し乃雪」
し乃雪の瞳は、真っ直ぐ吉原を捉えていた。
これを止められるとしたら――― 恐らく、自分のみ。
金の光をチカリ放った紅玉の瞳は、其れを知っている様子であった。
* * * * * * * * * *
「痛っ、」
カタン。
すらすらと動いていた筆を俄かに取り落とし、奈々尾はふと顔を上げた。
障子開け見える外は、曇天。
もう直ぐ夕方、ほんのり西の空、僅か切れた雲の隙間に赤みが差し始めた気がする。
濃い鈍色に朱が混じった其の空色と、城下への御使いを頼んだまま帰って来ない早良の事がふと重なり、連想的に溜息が漏れた。
「……何処へ、行ってしまったのだろう」
気付けば、奈々尾の顔は酷く浮かぬものであった。
早良を城下へ送った事に対し、少しばかり申し訳無く感じた故だ。
この所、早良は奈々尾と四六時中共に居た。
気遣いなのか何なのかは分からぬが、彼の表情が時折曇る瞬間を、奈々尾は見逃さない。
其れを見る事が辛く感じ、偶には息抜きも大事だと、彼に買い物を頼んだのであった。
そして。
今、独りの内に……と、手紙を綴っている最中。
すっかり古くなった筆の柄がささくれ立ち、指に細いとげが刺さっている。
其れを引き抜きつつも、……
…………
「……?
何、だろう……」
屋敷の奥が、俄かに騒がしくなった気がした。
聞いた事の無い様な足音。
バタバタと、振動だけが僅かに奈々尾の脚を震わせる。
其れはあっと言う間に此方へ向かい来、足音のみならず、幾つもの金属音と、悲鳴。
奈々尾は戦慄した。
以前より早良に聞かされていた話が、現実となってしまった事を知った故の。
――― 奈々尾。
彼奴はお前をも襲うやも知れぬ。
お前を守る為の、敵討ちでもあるのじゃ……
何時ぞやに零された早良の言葉が脳裏にて響いた時。
この屋敷にて働く女中の悲鳴が、直ぐ其処より奈々尾の耳をつんざいた。
直後、何かが吹き上がる音、ドン、と落ち転がる音。
漂う、血の、におい。
立ち上がり逃げようとしたが、脚が言う事を利かない。
何故であろう、この時に限って力入らず、ガクガクと震えた。
「柏木ーの坊ーんは、はァて何処……」
襖の向こうから、歌う様な低い声が聞こえる。
楽しげで、笑い声混じりで。
逃げようと這って窓へ向かえば、縁に手を掛ける直前にバタンと窓が閉じた。
襖が開く事を恐怖し、振り向いた時。
襖の無い、壁際に。
目前に。
赤黒い影と、白銀の閃光が、居た。
音が、消える。
…… 否。
耳鳴りが、キィン……と、奈々尾を刺した。
「見ぃ、付け、た」
血にまみれた赤黒い顔が、優しく笑う。
慈悲すらも湛えているかの如き笑みは、憎悪の其れより幾分も恐ろしく、冷たい。
「奈々尾、君……噂通り、良い顔ですねぇ……
怯えた表情が美しい」
奈々尾の全身が、震える。
ぎらぎらと輝きながら男を囲み回る刃が、彼の鼻先を掠める程に近く。
弄ぶかの様に、男は黒い袖を揺らし、ゆるり、ゆるりと歩み寄り。
「あの"鬼童"に思いしらしめる為の、"餌"、に……
なって貰いますよ?」
胸が、痛い。
緊張と恐怖に鼓動が悲鳴を上げ、突き刺さる痛覚と共に奈々尾の意識が遠退き掛けた、次の時。
"ダンッ"
天井より目前へ降り落ちた、大きなものがあった。
人の背が奈々尾の前に立ち、男の前にて刀を構える。
見覚えのある、背中待ち詫びていた背中だ。
はくはくと息を混濁させていた奈々尾の意識は其れだけで浮上し、出ぬ声が涙となって筋を描く。
其の、背。
奈々尾が悟兵衛と呼び親しむ男のもの。
頼もしき壁となり見え、其れは彼を抱くかの如く大きい。
が。
其の時、奈々尾は其の目を疑った。
"ざ、ぁ……"
間違い無く、目前にある背は悟兵衛のものである筈、なのに。
其処より不意に広がり視界を覆ったものが、あった。
"翼"だ。
其れも、烏の如く、玉虫の輝きを秘めた黒。
しかし、部屋の両角を擦る程に、大きな、大きな。
「おや、聞いておりませんよ?
貴方、確か勘定奉行に勤めてらした方ですよねぇ?
先程"あの道"を走っていらっしゃいましたが」
黒服の男が頓狂な声を上げる。
「妖、だったのです?
……嗚呼、じゃあ此処にいらしたのは、」
「そうさ、」
悟兵衛の声で笑う、鴉の男。
楽しそうに、しかし凡そ悟兵衛に似つかわしくない、心地の悪い声で。
「約束通り、お前を喰らいに来たぜ……隠形鬼よォ」
「……貴方、"朔天童子"……
乗っ取られましたか、」
「気付くのが遅ェなァ?」
"ギュル、"
何処からであろう。突如、室内だと言うに強い風が巻き起こる。
旋風で見えぬ中、姿消した二つの影がギン、キィン、と彼方此方で音を立て、壁がゴシャァと破壊される音がした。
黒服と鳥妖は旋風と共に外へと転がり出、ザ、と空を斬る衝撃が身を弾いた。
奈々尾が次に見遣った時。
あの中庭に、鳥妖は佇んでいた。
……鳥妖の手に、腰より下の無い黒服が、掴まれている。
「……!?」
ブラン、ブラン。
揺れる其れを手に、妖は笑んでいた。
黒い羽毛に覆われた、猛禽の顔で、だ。
「………… ご へえ……さん……!」
思わず叫んだ奈々尾の声が、掠れ、上擦った。
叫んだ筈なのに、其れは小声にも満たぬ声。
……しかしどうやら鳥妖の耳へ届いたらしい。
青緑に濁った猛禽の瞳が、つい、と向いた途端。
其の顔はすぅ……と正気に戻り、瞳に美しい金が宿る。
……やがて恐怖と驚愕に、歪んだ。
「…………若、様……?」
「悟兵衛さん、なのでしょう!?」
黒服の襟を掴んだ鳥の手が、小刻みに震える。
羽毛の顔が、青褪める様に絶望の色を滲ませた。
掴まれている隠形鬼が、ゲタゲタと笑った。
「お、……お願いです、悟兵衛さん!
早良を!早良を……!!」
必死で、掠れた声を振り絞る。
鳥妖は、震える身で……顔を背け、小さく頷いた。
其れを奈々尾が認識した時、其の姿は数枚の羽根と黒服の下半身を残し。
消えていた。
……流れ来る、血のにおい。
西の切れ目が次第に広がり、差し込むは、茜色。
奈々尾は、只震えているしか出来なかった。




