第九十九話 紹介したい人たち
ハンスを迎えに行った朝、リシェは予定より早くポルテへ着いた。
食堂では、リリが机を拭いていた。入口に立つ姿を見ると、布を持ったまま笑う。
「まだご飯食べてるよ」
「早すぎたかな」
「座って待ってたら?」
勧められた席へ座ると、奥からハンスが顔を出した。
「おはよう。すぐ用意するから少し待っておくれ」
その手には、食べかけのパンがあった。
「ゆっくりで大丈夫です」
リシェは鞄を膝へ載せた。内側の小さな袋には、昨夜数えておいた銅貨が七枚入っている。
ハンスが食事を終え、席へ来るのを待ってから、袋を取り出した。
「あの、出かける前に」
「どうした?」
「お借りしていたお金を返したいです」
机の上へ袋を置き、口を開く。銅貨を一枚ずつ並べると、ハンスはその手元を見た。
「七枚あります」
全部並べ終えてから、リシェは顔を上げた。
「遅くなってすみません」
ハンスはしばらく銅貨を見ていた。
「暮らしに無理はないかい?」
「はい。施設のお給料と、依頼でいただいた分があります。必要なものを買っても、残せるようになったので」
「そうか」
ハンスは枚数を確かめ、自分の財布へ収めた。
「確かに受け取ったよ。これで貸していた分は全部だ」
空になった袋を、リシェへ返す。
「約束を覚えていてくれたんだね」
「はい。ハンスさんに会ったら、お返ししたかったんです」
袋を畳んでしまうと、胸の中も少し軽くなった。
ハンスは椅子から立ち上がった。
「では、今日は君の働いているところへ案内してもらおうかな」
*
施設の門へ着くと、ハンスは庭の向こうまで見渡した。
「ここで暮らしているんだね」
「はい。仕事をする建物はこちらです」
鉢を並べた台の間を通り、作業室へ向かう。
フィエルは二人の少し前を歩いていたが、戸口で止まった。リシェが扉を開けると、中へ入り、いつもの布へ向かう。
イネスは机の紙をまとめていた。
「おはよう。そちらが?」
「ハンスさんです。オルテンで助けてもらいました」
「初めまして、イネスです」
ハンスが名乗ると、二人は握手を交わした。
「リシェから施設での仕事を聞きました。お世話になっているようで」
「こちらも助けてもらっていますよ。今日は、実際に見ていただければ」
イネスは机の前を空けた。
そこには、リシェがまとめた記録と、薬師から届いた報告が並んでいた。
*
「同じ薬草なのに採る葉で違うんですか」
ハンスは標本の包みを見比べた。
リシェが採集の絵を広げ、葉の位置を示す。
「大きさだけで選ぶと、古い葉が混じることがありました。今は株の育ち方も見ながら分けています」
「乾かしてしまうと分からなくなるところだね」
「はい。だから採る前の記録も残してもらっています」
ハンスは頷き、次の紙へ目を移した。
「商売でも届いてから見ても分からない違いはある。仕入れる場所で確かめなければ、あとで困るんだ」
「薬師さんも似たことを言っていました」
話しながら、リシェは見せる紙を入れ替えた。
森で何を見たか、どこが分からなかったか。途中で調べ方を変えたことも話した。
ハンスは急かさずに聞き、分からない言葉だけ尋ねてくれた。
「それで、この報告になったんだね」
「はい。イネスさんたちに、調べてもらって」
「採集と観察は、リシェが担当した部分も大きいですよ」
イネスが付け加えた。
「次は別の土地で調査を頼まれています。春のうちに出かける予定です」
ハンスは表紙の名前へもう一度目を落とした。
「そうか。仕事を任されているんだな」
リシェは返事をする代わりに、少し姿勢を正した。
*
庭を案内している途中で、ゼフィが来た。
リシェが二人を紹介すると、ハンスはすぐに顔を向けた。
「あなたが、先生ですか」
「ゼフィリスです。リシェには、こちらでよく会っています」
「旅や魔法を教えていただいているそうですね」
「私も一緒に調べたり歩いたりするのを楽しんでいますよ」
ゼフィはリシェへ目を向け、それからフィエルを見た。
銀白色の体はハンスの隣へ座っていた。ロギがその背に降りると、耳だけが後ろへ動く。
「フィエルもずいぶん育ったと伺いました」
「最初は怪我をした小さな子でね。リシェが抱えていたんです」
ハンスが手で大きさを示した。
今のフィエルには、とても足りない幅だった。
「そんなに小さかったんだね」
「鞄の中で布に埋もれていました」
リシェが答えると、足元のフィエルが顔を上げた。
背を撫で、ロギの尾羽を避けて手を戻す。
*
昼食は、施設の食堂で取った。
ハンスは周囲の席を眺め、パンを手にしたまま話している研究者たちに気づくと、小さく笑った。
「イネスさんも、ここではよく話していらっしゃる?」
「話す相手がいれば」
「一度始まるとご飯が冷めます」
リシェが言うと、イネスは手元の皿を見た。
「今日はまだ温かい」
ハンスが声を出して笑った。
食事のあと、リシェは部屋も見せた。
棚に並んだ本。机の上のノート。壁際に飾った、リリとニルスの絵。
ハンスは入口で靴の土を落とし、招かれてから中へ入った。
「いい部屋だ」
「窓から庭が見えるんです」
リシェが窓辺へ寄ると、外ではトーマが台車を押していた。こちらに気づき、片手を上げる。
リシェも振り返した。
ハンスはその様子を見てから、机の絵へ近づいた。
「この子たちが、ポルテの?」
「はい。誕生日にもらいました」
自分を描いた姿は、実物より少し丸い。フィエルの足も、よく見ると線が重なっている。
ハンスは絵を眺め、ゆっくり頷いた。
「マルタに話していいかい。君がどんなところで暮らしているか、きっと聞きたがる」
「はい。お願いします」
*
帰りは、門まで見送った。
ハンスは午後に商売の相手と会う予定だった。約束の時刻を確かめ、リシェへ向き直る。
「今日はありがとう」
「私の方こそ。来てもらえてうれしかったです」
「初めて会ったときは、オルテンまでの道を心配していたのにね」
ハンスは街へ続く道を見た。
「あの頃の君に、今日のことを話しても信じないかもしれないな」
フィエルを抱え、知らない町へ着いた日のことは覚えている。今夜どこで眠るのかも、その翌日どうすればいいのかも、分からなかった。
「ハンスさんがブランを教えてくれたから」
「泊まる宿を一つ、紹介しただけだよ」
「でも、そこへ行けました」
ハンスは少し黙り、リシェへ目を戻した。
「そうだね。役に立てたならよかった」
出発前にもう一度会う約束をし、手を振った。
角を曲がる前にハンスが振り返る。リシェもまだ門にいて、もう一度大きく振った。
*
作業室へ戻ると、イネスが手紙を開いていた。
「ちょうどよかった。東の調査先から詳しい条件が来た」
リシェは鞄を置き、机の向かいへ座った。
調査する日数と、宿泊する場所。報酬や、集めた記録をどう使うかも書かれている。
読み進めていたイネスの指が、一か所で止まった。
「保護者の同意か」
リシェは顔を上げた。
「私のですか?」
「うん。今回は宿泊を伴う共同調査で、記録の利用についても正式に取り決めたいそうだ」
差し出された紙を見る。
リシェの名前を書く欄の下に、もう一人分の署名欄があった。
「施設からではだめなんでしょうか」
「今まで施設の管理で引き受けられた仕事とは、契約の形が違うんだと思う。詳しく確認するよ」
イネスは手紙を机へ置いた。
「君が行けなくなったと決まったわけではないからね」
「はい」
返事をしたものの、空いた署名欄から目を離せなかった。
自分の名前は書ける。
その下に誰の名前を書くのかは、分からなかった。
*
イネスは別の紙へ、確認することを書き始めた。
「保護者を決める方法も、調べておいた方がよさそうだね。これから外の仕事が増えるなら、同じ話がまた出るかもしれない」
リシェは膝の上で手を重ねた。
引き取り先が決まったと聞かされた日のことが、一瞬浮かんだ。
イネスは筆を置いた。
「今ここで何かを決めなくていい。まず、どんな方法があるかを知ろう」
「……分かりました」
「誰かに相談したいなら、ゼフィリスやエルネストにも聞いていい。君のことだから、君にも分かるように話を進めたい」
リシェはようやく紙から目を上げた。
「イネスさんにも一緒に聞いてもらえますか?」
「もちろん」
その返事に、少し息がしやすくなった。
足元へフィエルが来て、膝へ鼻を寄せる。背を撫でると、肩にいたロギも静かに身を寄せた。
*
リシェが部屋へ戻ったあと、イネスは調査先への返事を書いた。
条件を確かめ、必要な手続きを尋ねる。書き終えて封をすると、もう一枚、便箋を出した。
宛名を書くところで少し考え、机の端へ置いてあった紙を引き寄せる。
リシェがハンスに見せていた、研究報告の控えだった。
イネスはそれをしばらく眺めてから、便箋へ向き直った。
父上、母上。
そこまで書くと、後ろへ椅子を引いた。
窓の向こうで、春の風が木の葉を揺らしている。
イネスはもう一度机へ寄り、続きを書き始めた。




