第九十八話 知っている声
十二歳になってから、リシェは予定を決める前に、二枚の紙を見比べるようになった。
一枚は施設の仕事。もう一枚はギルドで引き受けた依頼や、ゼフィとの練習の予定だった。
春の調査が決まり、東の丘陵地へ出かける日も書き込まれている。
「その前の日は採集に行かない方がいいね」
イネスが紙を覗き込んだ。
「戻ってから標本を整理していたら支度が遅くなる」
「はい。図書館へ行こうと思っています」
「それなら私が頼んでいた本も受け取ってきてくれる?」
書名を書いた紙を渡され、リシェは鞄へしまった。
出かける前に、自分の本棚へ目を向ける。調査に持っていく本は、もう選んであった。
*
図書館からの帰り道、広場には荷馬車が何台も止まっていた。
春の市へ品物を運んできた人たちが、箱を下ろしている。台車が通るたび、リシェはフィエルを隣へ呼んで端へ寄った。
肩のロギが首を伸ばす。
『今日はずいぶん荷物が多いね』
『市の支度だと思う。ポルテにもお客さんが増えたって』
人の間を抜けようとしたとき、聞き覚えのある声がした。
「そっちは先に下ろしてくれ。割れるものは奥へ」
リシェは立ち止まった。
箱の向こうに、男の横顔が見える。
荷物を受け取る相手へ頷き、振り返った顔を見て、思わず声が出た。
「ハンスさん?」
男がこちらを向いた。
一度、通りの向こうへ目をやる。それからリシェへ視線を戻し、眉を上げた。
「……リシェ?」
*
ハンスは持っていた紙を荷台へ置き、近づいてきた。
「本当にリシェか」
「はい。お久しぶりです」
「大きくなったな!」
その声に、リシェは笑った。
顔を覚えていてくれた。
名前を呼んでもらった途端、オルテンの道や、荷車の揺れが一緒に思い浮かんだ。
「いつ来たんですか?」
「昨日だよ。今回はこっちまで品を運ぶことになってね。君がアルセインにいるとは聞いていたが、広い街だから会えるかどうかと思っていた」
「探してくれようとしたんですか?」
「ああ。ポルテなら何か分かるかと、あとで寄るつもりだった」
リシェは頷き、足元へ目を向けた。
「フィエルもいます」
ハンスはそこで初めて、銀白色の姿をよく見た。
「この子が?」
腰をかがめ、手を差し出す。
フィエルが鼻を近づけた。
「驚いたな。あの鞄に入っていた子だろう?」
「もう入りません」
「だろうね。脚もすっかりよくなったんだな」
首の横を撫でられ、フィエルは静かに立っていた。
懐かしさなのか、確かめるような気持ちなのか。リシェには、その二つが混じって感じられた。
ハンスが顔を上げる。
「ロッテにも会っていくか?」
*
荷馬車の並ぶ場所の端に、ロッテがいた。
リシェが近づくと、長い耳がこちらへ向いた。
「ロッテ」
声をかけ、鼻先へ手を差し出す。
柔らかな息が指へ触れた。
フィエルも足元から顔を上げ、匂いを確かめている。ロッテは少し鼻を下げ、その銀白色の頭へ近づけた。
「覚えてる?」
リシェは首を撫でた。
魔獣のときのように、気持ちが伝わるわけではない。それでも、手の下にある温かさと、静かに立つ姿がうれしかった。
ロギが肩で身を乗り出す。
『この子がリシェをオルテンへ連れていったんだね』
『うん。ハンスさんと一緒に』
ロッテの耳が動いた。
赤い鳥へ鼻を向けると、ロギはリシェの反対側の肩へ移った。
「その鳥はこっちへ来てから?」
ハンスが尋ねた。
「はい。ロギです」
「きれいな尾だ。仲間が増えたんだな」
リシェは頷いた。
ハンスはもう一度、頭から足元まで見ていたが、すぐに視線を外した。
「元気そうで安心したよ」
*
荷下ろしが終わるまで、リシェは広場の端で待った。
手伝おうとしたが、荷物の置き場所が決まっているからと、座る場所を勧められた。膝へ借りた本を載せると、ハンスがその包みへ目を留める。
「ずいぶん借りたね」
「一冊はイネスさんに頼まれたものです」
「イネスさん?」
「私が働いている研究施設の人です。薬草を調べていて、私も手伝っています」
ハンスは手を止めた。
「研究施設で働いているのか?」
「はい。今はそこに住んでいます」
少し考え、鞄から報告の写しを出した。
春の調査へ持っていくため、イネスと確認する予定だったものだ。
「これを一緒に調べました」
ハンスは受け取り、表紙を読んだ。
題をゆっくり目で追い、その下で止まる。
「君の名前だ」
「はい」
「そうか……」
紙をめくり、葉の絵と表を見る。
ハンスは細かな内容を全部読もうとはせず、丁寧に閉じて返してくれた。
「オルテンでもよく本を読んでいたものな」
リシェは写しを受け取った。
あの頃の自分を知っている人に見てもらうと、いつもとは違う照れくささがあった。
「まだ分からないことの方が多いです」
「それでも、ここまでやったんだろう。マルタたちも喜ぶよ」
*
ハンスの滞在先は、ポルテになった。
案内しようと歩き出すと、彼はロッテの手綱を取り、リシェの隣へ並んだ。
「この道で合っているかい?」
「はい。次の角を曲がります」
答えてから、リシェは少し笑った。
「どうした?」
「前は道を教えてもらっていたので」
「ああ。今度は私が案内してもらう番だね」
パン屋の看板を過ぎ、通りを曲がる。
ロッテを裏へ案内してから食堂へ入ると、ハンナが顔を上げた。
「いらっしゃい。お知り合い?」
「オルテンでお世話になったハンスさんです」
リシェが紹介すると、ハンナは手を拭いて近づいてきた。
「お話、聞いていますよ。リシェが初めて来た街で助けてくれた方ですね」
ハンスがこちらを見た。
リシェは頷き、ブルーノにも声をかけた。
部屋の相談が始まると、奥からリリとニルスが出てきた。リリはすぐにフィエルへ寄ったが、ハンスに気づくと、リシェの顔を見上げる。
「お友達?」
「前の街でお世話になった人」
リリは少し考え、ハンスへ向き直った。
「リシェ、この前十二歳になったよ」
「聞いていなかったな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「柱にも印があるの」
リリが指すと、ハンスは壁へ近づいた。
十一歳と十二歳の線を見比べ、リシェへ振り返る。
「これは伸びたな」
自分でも見慣れていた印なのに、そう言われると、また少しうれしくなった。
*
夕食までの間、ハンスはオルテンの話をしてくれた。
マルタの宿には、相変わらずいろいろな旅人が来る。
オスカーの店には新しい本が入り、エマはリシェからの手紙を読むと、しばらくその話をするらしい。
「返事を書くときは、何を入れるか迷っていたよ」
「この前小さな絵が入っていました」
「見せてもらった。あれは何度か描き直したそうだ」
リシェは鞄へ手を置いた。
もらった手紙は、部屋の引き出しへしまってある。
会っていなくても、向こうでも日々が続いている。その様子を知っている声で聞くと、手紙の中の景色が近くなった。
「ハンスさんは何日くらいいるんですか?」
「十日ほどの予定だよ。商売の進み具合にもよるが」
「お時間があったら、施設へ来ませんか?」
言ってから、続けた。
「イネスさんにも紹介したいです。先生にも」
「先生?」
「旅や魔法を教えてくれる人です。フィエルの練習も見てくれています」
ハンスは少し目を細めた。
「会ってみたいな。君が世話になっている人たちに、挨拶できるなら」
*
帰る頃には、外の空気が冷えていた。
ハンスは宿の裏まで来て、ロッテと一緒に見送ってくれた。
「近いうちに予定を知らせに来ます」
「ああ。急がなくていいよ。仕事を優先しておくれ」
ロッテの首をもう一度撫でる。
フィエルはその足元を通り、リシェの隣へ戻った。
ハンスは二人を見てから、穏やかに言った。
「いい街へ来たんだな」
リシェはポルテの明るい窓を見た。
その先には、施設へ帰る道がある。明日は作業室でイネスへ本を渡し、先生には調査の予定を相談する。
「はい」
今度は、迷わず答えられた。
角を曲がると、肩のロギが尋ねた。
『明日みんなに話す?』
『うん。ハンスさんに会ったって』
リシェは借りた本を抱え直し、少し足を速めた。
施設の門へ着くと、明かりの下にトーマが立っていた。荷物を抱えていたが、こちらを見ると扉を押さえてくれる。
「おかえりなさい。いいことがありました?」
「はい。今日、広場で――」
話しながら中へ入る。
十二歳になったリシェには、昔の自分を知る人へ見せたいものが、もう両手では抱えきれないほどあった。




