第百話 イネスの家族
東の調査先から返事が届いたのは、ハンスが街を発つ二日前だった。
リシェは作業室の机で、イネスと並んで手紙を読んだ。今回の契約には、施設の責任者とは別に法的な保護者の同意が必要だという。
「後見人を立てる方法はある。誰かの養子にならないと仕事ができない、という話ではないよ」
イネスは確認してきたことを、一つずつ説明した。
日々の手伝いやギルドの規則に沿った依頼は、これまでどおり続けられる。問題になるのは、長期の調査や研究成果の利用を取り決める契約だった。
「君の代わりに全部決める人を置く、という意味でもない。不利な条件がないか確認して、必要なときに責任を持つ人がいるんだ」
リシェは手紙の署名欄を見た。
「イネスさんにお願いすることはできますか?」
「そのことも含めて相談したい」
イネスは別の封筒を出した。
まだ開かれていない、厚手の封筒だった。
「私の家にも手紙を書いたんだ。今日、返事が来た」
*
封を開けると、中から二通の手紙が出てきた。
イネスは最初の一通を読み、途中で眉を寄せた。次を開くと今度は額へ手を当てる。
リシェは椅子の上で姿勢を正した。
「何かよくなかったんでしょうか」
「いや。よくないのは兄さんが話を先へ進めすぎるところだ」
「お兄さん?」
イネスには家族がいる。
それは分かっていたが、こうして聞くまでどんな人たちなのか考えたことがなかった。
イネスは手紙を伏せ、リシェへ向き直った。
「先に私の家のことを話しておこうか」
机の紙を少し寄せ、封筒を手前へ置く。
「私の家名は、ヴァレール。父は伯爵なんだ」
リシェは返事をしようとして、声が出なかった。
イネスはその顔を見て、少し困ったように笑った。
「そんなに驚くとは思わなかった」
「……伯爵、ですか?」
「うん。普段の仕事では使わないから名乗っていなかったね」
リシェは白衣の袖へ目を向けた。
鉢の土が少しついている。さっきまで、その袖をまくって水をやっていた。
「イネスさんも、貴族なんですか?」
「そうなるね」
「でもここに住んでいて」
「家にいると研究が進まないから。起きている間に何度も鉢を見たいなら、こちらに住む方が便利だろう?」
いつもの説明だった。
リシェはようやく息を吐いた。
*
父はアルベール、母はセシル。
兄のフェリクスは、父を助けて領地の仕事をしている。姉のアデルは結婚して家を出ているが、実家とはよく行き来しているという。
「私は三十一。兄と姉はその少し上だよ」
「ご家族とは会っているんですか?」
「帰れるときには。手紙も出す。ただ、植物のことばかり書くと私自身の近況も書けと返ってくる」
イネスは伏せた手紙へ目を落とした。
「今回はちゃんと君の話を書いた」
「私の?」
「ここで働いていること。研究や採集が好きなこと。保護者について考える必要が出てきたこと」
そこで一度、言葉を切った。
「それから、私が考えていることも」
リシェは膝の上で手を重ねた。
イネスは急いで続きを言わず、顔を見て待った。
*
「うちの両親と会ってみないか?」
予想していた言葉とは、少し違った。
「何をお話しするんですか?」
「君のことも家のことも。まだ何かを決めるためではなく、まず知ってもらいたい」
イネスは封筒を指先で整えた。
「両親には、君を養女として迎えることをどう思うか尋ねた」
リシェの指が止まった。
作業室の音が、少し遠くなった気がした。
「私を、ですか」
「うん。そうなれば私とは姉妹になる」
イネスの妹。
言葉の意味は分かるのに、自分のこととして考えようとすると、うまく形にならなかった。
「でも、保護者は……後見人でも、いいんですよね」
「いい。その方法も調べている。仕事の契約だけなら、養子になる必要はない」
「では、どうして」
イネスは机から手を離した。
「君がこの先も家族として帰れる場所を持てたらと思った。私も、その家族の一人になりたい」
リシェは顔を上げられなかった。
何を返せばよいのか、分からない。
足元へフィエルが来た。膝へ鼻が触れ、リシェはその背へ手を置いた。
「今すぐ返事をしなくていい」
イネスの声は変わらなかった。
「両親にもそう伝えてある。君が会いたくないなら、無理に連れていくつもりもないよ」
*
しばらくして、リシェは机の手紙へ目を戻した。
「ご両親は何と?」
「会ってみたいそうだ。父は君に説明する条件を先に整理しようと。母はこちらから押しかけて驚かせないようにと書いている」
「ここへ来るんですか?」
「いや。君がよければ私と一緒に訪ねたい。馬車で五日ほどかかる」
リシェは思わずイネスを見た。
「五日」
「帰りも同じくらい。だから施設の仕事と調査の日程は調整する必要がある」
「そんなに長くお休みしても大丈夫ですか?」
「そこは私が相談する。君が心配するところではないよ」
イネスは二通目の手紙を持ち上げた。
「兄は馬車を手配するなら人数と荷物を知らせろと。君のための部屋も確認すると書いてある」
「私の部屋?」
「泊まる部屋のことだよ。勝手に住むと決められたわけではないからね」
リシェの顔を見て、イネスがすぐに付け加えた。
「兄は準備を始めると早いんだ。まだ訪問も決まっていないと返事をしておく」
手紙の続きを読み、短く息をつく。
「姉にも知らせたらしい。今度は、どの日なら会いに来られるか調整している」
「皆さんで待っているんですか?」
「待たせておけばいい。先に決めるのは、君の気持ちだ」
*
その日の午後、リシェはゼフィの家へ行った。
話を聞いてほしいと伝えると、彼は机の本を閉じた。
イネスの家のこと。
両親が会いたいと言っていること。
養女として迎える話が出ていること。
一つずつ話しているうちに、自分でも、まだ何も決まっていないのだと分かってきた。
「先生は知っていたんですか。イネスさんの家のこと」
「うん。家名は知っていたよ」
「私、全然気づきませんでした」
「普段は研究者のイネスとして暮らしているからね」
ゼフィは少し間を置いた。
「君は会ってみたい?」
リシェは膝へ目を落とした。
「分かりません。会うのは……少し怖いです」
「うん」
「でも、イネスさんの家族がどんな人なのかは知りたいです」
言葉にすると、二つとも本当だった。
ゼフィは返事を急がせなかった。
「会ってから家族にならないと決めてもいい。会いに行くことと養子になることは別に考えよう」
「断ったら、イネスさんが困りませんか?」
「そのことも本人に聞いてみるといい。君が気を遣って引き受けることを、望んではいないと思うよ」
リシェは頷いた。
聞いてよいことが、少しずつ分かってきた。
*
施設へ戻ると、イネスは鉢の札を直していた。
リシェが入口で待つと、手を止めてこちらを向く。
「どうした?」
「まだ家族になるかは分かりません」
「うん」
「でも、ご両親には会ってみたいです。会うだけでも、
、いいんですか?」
「もちろん」
返事はすぐだった。
リシェは鞄の紐を持ち直した。
「それから、もしお断りしてもここで働いていていいですか?」
イネスは札を台へ置いた。
「当たり前だよ。これは仕事を続けるための試験じゃない。君が決めた答えで、仕事や部屋を取り上げたりしない」
「……はい」
「ほかにも気になることがあったら紙に書いておこう。両親へ先に聞いてもいいし、会ってから尋ねてもいい」
リシェはノートを出した。
旅に出られるのか。
研究を続けられるのか。
フィエルとロギも、一緒にいられるのか。
書き終えると、イネスが隣へ椅子を寄せた。
「フィエルとロギのことは、先に伝えよう。泊まる支度にも関わるからね」
肩のロギが、紙を覗き込んだ。
『僕たちも五日間の旅だね』
リシェは心の中で返した。
『うん。まだ少し怖いけど』
『僕も一緒に行くよ』
足元では、フィエルが椅子へ体を寄せていた。
リシェは次の行へ筆を下ろした。
会ったら、まず何と挨拶すればいいのか。
それもイネスに聞いておきたかった。




