第百一話 花の領地へ
出発の日、施設の門の前に馬車が止まった。
リシェは鞄を肩へ掛けたまま、その扉を見ていた。いつもの荷馬車とは違う。車体には紋章があり、御者のほかに護衛もついている。
「兄が手配したんだ」
隣でイネスが言った。
「乗り心地は悪くないと思う。五日あるから、その方が助かるね」
リシェが足元のフィエルを見ると、先に馬車の匂いを確かめていた。ロギは肩から扉の縁へ移り、中を覗き込む。
『座るところが柔らかそうだよ』
『フィエルは下に布を敷こうね』
イネスに続いて乗り込むと、膝の前にも十分な広さがあった。鞄を置き、フィエルのために布を広げる。
窓の外ではトーマが積み込んだ荷物の数を確かめていた。
「本の箱はこれで全部ですか?」
「うん。それは帰るまで開けなくていい」
「向こうへ届ける分ですね。分かりました」
ゼフィも見送りに来ていた。窓辺へ寄り、リシェへ小さな包みを渡す。
「道中で食べて。休憩のときは少し歩くと楽になるよ」
「ありがとうございます」
受け取った包みを鞄へしまうと、ゼフィは少し声を落とした。
「会ってみてから考えればいい。答えを急ぐ必要はないからね」
「はい」
イネスが乗り込む前に、ゼフィと短く言葉を交わした。やがて扉が閉まり、御者が出発を告げる。
馬車が動き出すと、リシェは窓から手を振った。角を曲がるまで二人とも門の前に立っていてくれた。
*
一日目は、街を離れてからも何度か振り返った。
窓の向こうに知っている建物はもうない。それでも、曲がり角の先にアルセインがある気がした。
向かいのイネスは、しばらく書類を読んでいたが揺れが大きくなると閉じた。
「気分は悪くない?」
「大丈夫です」
「ならよかった。疲れたら眠っていていいよ」
リシェは膝へ置いた紙を広げた。
訪ねる前に聞きたいことを書いたものだった。旅に出られるのか。研究や冒険者の仕事を続けられるのか。フィエルたちと離れずに暮らせるのか。
何度も読んでいるので、見なくても覚えていた。
「最初の挨拶は何と言えばいいんでしょう」
イネスは少し考えた。
「リシェです、でいいよ」
「それだけですか?」
「来てくれてありがとうと、向こうが言うと思う。そのあとは話したいことを話せばいい」
紙を見たまま黙ると、イネスは窓の外へ目を向けた。
「礼儀を間違えたから帰しなさい、なんて言う人たちではないよ。私が長いこと十分に証明している」
「イネスさんが?」
「食事の途中で庭の花を見に行ったこともあるからね」
リシェは顔を上げた。
「今もですか?」
「最近は先に断るようにしている」
思わず笑うと、イネスも口元を緩めた。
*
休憩では、フィエルも馬車から下りた。
地面へ足をつけると体を伸ばし、道の端まで歩いて戻ってくる。リシェも護衛に教えられた範囲を一周した。
ロギは低い枝へ移り、見慣れない木を眺めていた。
『ここの精霊も君を見ているね』
声に促されて目を向けると、葉の陰に淡い光があった。こちらへ来るものもあれば、枝の先に留まったままのものもいる。
リシェは周りに人がいないことを確かめ、小さく挨拶した。
光が一つ、指の近くまで寄ってくる。
何かが伝わる前に御者から出発の声がかかった。
「もう行くね」
名残惜しく手を下ろし、馬車へ戻った。
イネスが席を空けてくれる。
「何か見つけた?」
「知らない葉がありました」
「この辺りから少しずつ植生が変わる。帰りに時間があれば止まってもらおうか」
リシェは窓辺へ座り、さっきの木の形をノートへ描いた。
*
二日目、三日目と進むうちに、馬車の中で過ごす時間にも慣れてきた。
朝は荷物を確かめ、宿を出る。揺れの少ない道では本を読み、休憩ではフィエルと歩いた。ロギは窓から外を見るのに飽きると、フィエルの背やイネスの鞄へ移って休んだ。
四日目の昼、イネスが道の脇を指した。
「あの畑、見える?」
「はい。何を育てているんですか?」
「花だよ。まだ蕾だけど、もう少しすると一面に咲く」
リシェは窓へ寄った。
緑の畝が遠くまで続いている。食べる作物とは違う、細い茎が整然と並んでいた。
「私の家の領地は花を育てるところが多い。切って売るものもあるし、香りを使うもの、染料にするものもある」
「薬草もありますか?」
「あるよ。実家の庭にも昔、私が植えたものが少し残っている」
リシェが振り返ると、イネスは畑を眺めていた。
「少しではないかもしれない。帰るたびに増やしたから」
「見てもいいですか?」
「もちろん。案内する」
膝の紙へ、庭で見たいものを書き足した。家族への質問ばかりだったところに、植物の名前が一つ増えた。
*
五日目の午後、窓から見える家々の庭に、花が増えた。
門の両脇に鉢を置く家。壁沿いに枝を誘引した家。店先には、切り花を入れた桶が並んでいる。
馬車が通りを抜けると、緩やかな坂の向こうに屋敷が見えた。
明るい色の壁と広い庭。
遠くからでも植えられた花の色が分かった。
「着いたよ」
イネスが書類を鞄へしまった。
リシェもノートを閉じる。指先が落ち着かず、留め具を二度確かめてしまった。
門を通り、馬車が屋敷へ近づく。
その途中で、庭を横切る大きなものが見えた。
「犬?」
明るい茶色の犬が、尾を振りながら走ってくる。
御者が声をかけると、犬は少し離れたところで止まった。だがその場でじっとしてはいられず、前脚を動かしている。
イネスが窓から顔を見せた。
「ただいま」
犬が一声吠えた。
足元のフィエルが立ち上がり、扉を見た。
*
馬車が止まると、先にイネスが下りた。
すぐに犬が駆け寄り、膝へ鼻を押しつける。イネスは両手で首の辺りを撫でた。
「元気だった?少し待って。後ろにもいるから」
リシェは扉の前へ移り、外を見た。
玄関の前に何人か立っていた。
年配の男性と、その隣の女性。少し離れて、よく似た目元の若い男性がいる。
降りようとすると、その男性が馬車へ近づいた。
「足元が高いから、ゆっくりね」
差し出された手へ自分の手を重ねる。しっかり支えられ、リシェは地面へ降りた。
「長い道だったでしょう。フェリクスです」
声は柔らかかった。
「リシェです。初めまして」
覚えてきた挨拶を口にすると、フェリクスは微笑んだ。
「会えてうれしいよ」
イネスが犬を落ち着かせながら、こちらを向く。
「兄さん。後ろからフィエルも下りる」
「分かってる。先に荷物を動かそう」
フェリクスは手際よく従者へ伝え、足元の場所を空けた。それからリシェへ向き直ると、また声が和らいだ。
「この子のことかな?」
馬車から顔を出したフィエルを、リシェは呼んだ。
銀白色の体が地面へ下りる。犬がすぐに気づき、首を伸ばした。
フィエルも立ち止まった。
*
二匹は少し離れて、互いの匂いを確かめた。
犬の尾は大きく揺れている。フィエルは耳を前へ向け、相手の動きを見ていた。
リシェはすぐ横へしゃがんだ。
「フィエル。大丈夫?」
警戒はあるが、怖がっている感じではなかった。
犬が一歩近づき、鼻先が触れる。次の瞬間、犬は前脚を低くし、また跳ねるように立ち上がった。
「遊びたいんだと思う」
イネスが言った。
犬の気持ちは、リシェには直接伝わらない。だが、何度も誘うように動く姿を見ると、その意味は分かった。
差し出された鼻へ手を伸ばすと、犬はすぐに顔を寄せてきた。勢いに押され、リシェの体が少し後ろへ傾く。
「おっと」
フェリクスの手が背を支えた。
「歓迎が激しいんだ。驚かせたね」
「大丈夫です」
リシェは笑って、首の横を撫でた。
その手の下へ、別の頭が入ってきた。
銀白色の毛だった。
『ぼくも』
リシェはフィエルを見た。
こちらへ顔を上げたまま、犬と自分の間に座っている。
「うん。フィエルもね」
空いた手で撫でると、犬もさらに身を寄せてきた。両手が塞がり、どちらを先に動かせばよいか分からなくなる。
玄関から、女性の笑う声がした。
「挨拶が終わらなくなりそうね」
*
イネスに呼ばれ、リシェは立ち上がった。
玄関へ近づくと、男性が一歩前へ出る。
「ようこそ。アルベールです。遠いところをよく来てくれたね」
「リシェです。お招きいただいて、ありがとうございます」
頭を下げると、隣の女性が身をかがめた。
「セシルです。疲れているでしょう。まずは中で休みましょうね」
声をかけられた途端、用意していた言葉の続きが分からなくなった。もう一度礼を言おうとすると、セシルが庭へ目を向ける。
「お部屋へ行く前に少し見たい?」
「え?」
つられて顔を向けた。
玄関脇の花壇には、背の違う花が重なるように咲いていた。その奥にも道が続き、木々の間に水面が光っている。
「池があるんですか?」
「ええ。あとで案内できるわ」
「……見てみたいです」
セシルは嬉しそうに頷いた。
「では荷物を置いてから。お茶も用意してあるから、どちらからにするか決めましょう」
リシェは庭から目を離そうとして、止まった。
花の上に、小さな光がある。
枝の間にも、水面の向こうにも、淡い色が揺れていた。
*
玄関へ入る前に、ロギがリシェの肩へ戻った。
『ここは賑やかだね』
リシェは小さく頷いた。
池の縁から、青みがかった光が一つ漂ってくる。花壇にいた別の光も、ゆっくり近づいてきた。
その奥には、まだ見たことのない姿がある。
見たい気持ちと、挨拶を続けなければという思いの間で迷っていると、イネスが隣へ来た。
「花は逃げないよ。先に荷物を置こう」
リシェは慌てて顔を上げた。
「はい」
イネスは家族へ向き直った。
「アデル姉さんは?」
「明日着く予定だよ」
フェリクスが答える。
「お前の帰省よりずいぶん早く予定が決まった」
「私も来る日は伝えただろう」
「知らせが来てからの支度の速さの話だよ」
イネスが言い返す前に、フェリクスはリシェの鞄へ手を差し出した。
「重い方を持とうか?」
「ありがとうございます。でも、これは持てます」
「分かった。途中で重くなったら言ってね」
玄関の扉が開かれた。
フィエルが足元へ寄り、庭の犬も隣へ並ぼうとする。イネスに呼び止められ、犬は扉の前で座った。
リシェは一度振り返った。
花壇の光が、まだこちらを見ている。
五日間、ここで過ごす。
知らない家へ来た緊張の中に、明日を待つ気持ちが少し混じった。




