第百二話 庭で待っていたもの
案内された部屋へ入ると、リシェは扉のそばで立ち止まった。
窓が二つある。
寝台の脇には小さな机があり、壁際には空の棚が並んでいた。庭へ向いた窓の下には長椅子が置かれ、その足元には厚い敷物がある。
「こちらを使ってね」
セシルが窓辺の卓へ水差しを置いた。
「フィエルの寝る場所はここで大丈夫かしら。場所を変えたければ、好きに動かして構わないわ」
敷物の上には畳んだ布が用意されていた。
「ありがとうございます」
リシェが鞄を下ろすと、フィエルは部屋を一周した。寝台の下を覗き、窓辺へ寄り、最後にリシェのそばへ戻ってくる。
ロギは椅子の背に留まった。
セシルは二匹を見てから、リシェへ向き直る。
「イネスの部屋は廊下の向こうよ。今夜、何かあったら呼んでね。私たちにも遠慮はいらないから」
「はい」
「お茶は少し休んでからにしましょう。支度ができたら、イネスと一緒に下りてきて」
扉が閉まると、急に静かになった。
リシェは鞄から着替えを出しかけ、窓の外へ目を向けた。池の水面が、木々の間に見えている。
『そっちが気になる?』
ロギの声に、少し笑った。
『うん。でも先に片づける』
着替えを棚へ収め、ノートを机へ置く。五日だけ使う部屋なのに、どこへ何を置くか決めると、少し落ち着いた。
*
お茶の席は、庭へ出られる部屋に用意されていた。
アルベールとセシルが座り、イネスは机の上の菓子を一つ取った。リシェが椅子の前で止まると、イネスが隣を示す。
「ここでいいよ」
腰を下ろすと、フィエルは椅子のそばへ伏せた。ロギも肩へ戻ってきた。
「長い旅だったね。途中で困ったことはなかった?」
アルベールに尋ねられ、リシェは首を振った。
「馬車が広くて、休憩も取っていただきました」
「それならよかった。道中の手配はフェリクスに任せていたんだ」
ちょうど扉が開き、本人が入ってきた。
手にしていた紙を従者へ渡し、いくつか短く指示する。返事を聞いてからこちらへ来ると、リシェへ声をかけた。
「座席は狭くなかった?」
「はい。フィエルの場所もありました」
「よかった。帰りも同じ馬車を使うから、不便だったところがあれば教えてね」
隣へ座ると、イネスが菓子の皿を寄せた。
「兄さん、まだ仕事?」
「今日の分はひと区切りついたよ。お前と違って食事中まで書類を広げるつもりはない」
「私も今日は広げていない」
「そのまま続けてくれると助かる」
セシルが笑い、リシェの方へお茶を置いてくれた。
どこで口を挟めばよいか考えていたが、二人のやり取りを聞いていると、少し肩の力が抜けた。
*
「イネスから薬草を調べていると聞いたわ。今はどんな仕事をしているの?」
セシルに尋ねられ、リシェは椀を置いた。
「葉を採る位置や時期で、品質がどう変わるか調べています。同じ薬草でも集めたものがそろわないことがあって」
普段の仕事の話なら、言葉が出てきた。
森へ調査に行ったこと。施設で育てた株も比べたこと。採集者から教えてもらった見分け方も、役に立ったこと。
話の途中でアルベールが尋ねた。
「採る葉を選ぶと量は減るのかな」
「一度に採れる量が減ることはあります。だから必要な量をそろえる方法も相談しています」
「なるほど。育てる側にも関わる話だね」
フェリクスが机の上へ指を置いた。
「採り方が決まれば、栽培する畑でも収穫の予定を立てやすくなるかもしれない」
「はい。でも土地が違っても同じかは、まだ全部は分かりません」
リシェが言うと、イネスが頷いた。
「そこを、これから調べる」
「お前が手紙で続きを書かなかったのは、そのせいか」
アルベールの言葉に、イネスは一瞬考えた。
「どの手紙?」
「葉について三枚書いて、近況は元気ですの一行だったものだよ」
フェリクスがお茶を飲む手を止めた。
「いつものことですね」
リシェは笑いそうになり、慌てて口元へ手を当てた。セシルは気づいて、楽しそうに目を細めていた。
*
お茶のあと、イネスが庭へ案内してくれた。
扉を出るなり、大きな犬が走ってくる。イネスの前で止まり、尾を左右へ振った。
「ラルフ待っていたんだね」
首を撫でられると、今度はリシェへ近づいてきた。
「ラルフ、というんですか?」
「うん。元気が余っているから、遊び始めるとなかなか終わらないよ」
差し出した手の匂いを嗅ぎ、ラルフは鼻先で持ち上げた。撫でてほしいのだと分かり、リシェは腰をかがめた。
柔らかな耳の後ろへ触れると、ラルフは目を細めた。
その手の下へ、別の頭が入ってきた。
『ぼくも』
フィエルがこちらへ顔を上げたまま、ラルフと自分の間に座っている。
「うん。順番にね」
両手で撫でていると、ラルフの尾がフィエルの脇へ当たった。フィエルが振り返り、少し距離を取る。
ラルフは気にせず、イネスの持っていた布の塊へ顔を向けた。
「投げてほしいんだと思う」
イネスが芝生の方へ放ると、ラルフが飛び出した。追いかけかけたフィエルは、リシェの横で止まる。
「行ってみる?」
声をかけると、フィエルも駆け出した。
先に拾ったラルフが戻り、その後ろを銀白色の体が追ってくる。ラルフはイネスではなく、リシェの前へ布を落とした。
「私が?」
「頼まれたね」
促されて拾う。よく噛まれた布は、思ったより重かった。
リシェが投げると、すぐ近くへ落ちた。二匹とも、あっという間に追いつく。
「短かった……」
「次は、少し高く放ってみようか」
庭へ出てきたフェリクスが、隣で手を差し出した。戻ってきた布を受け取ると、芝生の奥へ軽く投げる。
今度は、二匹とも長く走った。
「すごい」
「リシェもやってみる?」
二度目は、さっきより遠くへ飛んだ。
フィエルが先に追いつき、布を咥えた。ラルフが横へ回ると一度足を緩めたが、取り合わず、そのままリシェへ戻ってくる。
「上手だね」
フェリクスに褒められ、フィエルの尾が揺れた。リシェは布を受け取り、得意そうな頭を撫でた。
*
しばらく遊んだあと、ラルフは木陰へ行き、草の上へ腹をつけた。フィエルもその近くへ伏せる。
ロギはいつの間にか、低い枝から二匹を眺めていた。
イネスがリシェを呼ぶ。
「池の方も見てみようか。足元が濡れているところは、気をつけて」
花壇の間を抜けると、水面が大きく開けた。
縁には石が並び、その間から細い葉が伸びている。向こう岸には木陰があり、水へ垂れた枝の先が、風に触れて揺れていた。
リシェは歩みを緩めた。
水面の上に、青白い光がある。花の近くにも、土の上にも、小さな精霊がいた。屋敷の前で見たものより、ずっと多い。
「気になるものがあった?」
イネスに尋ねられ、リシェは頷いた。
「少し、ここで見ていてもいいですか?」
「いいよ。私は向こうの株を見てくる。池へは入らないでね」
フェリクスは屋敷へ呼び戻され、イネスも道の先へ歩いていった。
リシェは石の縁から離れたところへ座った。
*
最初に近づいてきたのは、淡い青の光だった。
水面を離れ、リシェの膝の辺りを漂う。手を開くと、指先へ寄ってきた。
「こんにちは」
囁くと、ほかの光も動いた。肩の近くへ一つ、靴のそばへ二つ。池から来るものもあれば、花壇からゆっくり寄ってくるものもいた。
『ここ、いる?』
短い言葉が届いた。
リシェは目を瞬き、目の前の光へ意識を向ける。
「五日くらい、泊まるの」
通じたか分からないまま答えると、光が手の上で揺れた。胸へ触れる気持ちは明るかった。
リシェは笑い、そっと指を広げた。
花壇の方から来た精霊が、手首の近くへ留まる。その後ろに、さらに小さなものが続いていた。
これほど近くで、違う色の光に囲まれるのは初めてだった。
呼びかけようと顔を上げたとき、淡い光の間に、もっと大きな影が差した。
*
「ここにいたんだね」
フェリクスだった。
リシェは慌てて立とうとした。座っていた裾が靴へ引っかかり、体が少し傾く。
差し出された手を取るより早く、フェリクスがそばへ膝をついた。
「急がなくていいよ。何か見つけた?」
小さな精霊たちは、まだ周りにいた。
リシェは池の方へ目を向けた。
「いろいろなものが、見えます」
「花も水辺もあるからね。イネスも小さい頃、この辺りから戻ってこなかった」
フェリクスはイネスのいる方を見た。
「今もあまり変わらないけど」
つられて顔を向けると、遠くでイネスがしゃがみ、何かの葉を返していた。その姿がいつもの作業室と同じで、思わず笑った。
池の向こうから、ラルフが駆けてきた。
フィエルも一緒だった。勢いよく近づいてくる二匹を見て、フェリクスが立つ。
「少し、こちらへ」
リシェの脇へ手が入り、体がふわりと浮いた。
「わっ」
足が地面を離れたと思うと、次にはフェリクスの腕に支えられていた。ラルフがすぐそばを通り過ぎ、フィエルが足元で止まる。
「驚かせたね。水際でぶつかられると危ないから」
リシェは返事を忘れ、彼の肩へ添えた自分の手を見た。抱き上げられるとは思っていなかった。
フェリクスは乾いた道まで数歩進み、ゆっくり下ろしてくれた。
「どこか痛くなかった?」
「大丈夫です」
地面を確かめるように足をそろえると、フィエルが間へ入ってきた。リシェの手へ鼻を押しつけ、そのまま隣へ座る。
フェリクスはそれを見て、口元を緩めた。
「心配させたかな」
*
イネスが戻ってきたとき、ラルフはフェリクスに撫でられていた。
リシェは少し離れたところでフィエルの背を撫で、ロギはその肩へ収まっている。
「池は見られた?」
「はい。とてもきれいでした」
答えると、イネスは庭を見回した。
「明日は向こうの花壇へ行こうか。薬草も混じっている」
「見たいです」
「その前に昼食へ戻ってきてくれると助かる」
フェリクスが言った。
「二人とも庭へ出したら、呼びに行く人数が足りなくなりそうだ」
「リシェはちゃんと時間を守るよ」
「では、お前の分まで頼もうかな」
イネスが何か言い返す前に、フェリクスはリシェへ顔を向けた。
「無理に急がせなくていいからね。戻れそうになければ、先に食べてしまおう」
リシェはとうとう声を出して笑った。
イネスは二人を見てから、屋敷の方へ歩き出した。
「今日は私が先に戻る」
その後ろをラルフが追いかけていく。
リシェもフィエルを呼び、隣へ並んだ。
池の方から、小さな光が一つついてきた。振り返ると、光は途中で止まり、水辺へ戻っていく。
「またね」
誰にも聞こえないくらいの声で伝えた。
明日もここを歩ける。
そのことが、来たときより少し、うれしくなっていた。




