第百三話 姉がもう一人
翌朝、リシェは廊下へ出たところで足を止めた。
窓の下にラルフが伏せている。
こちらに気づくとすぐに立ち上がり、尾を振りながら近づいてきた。フィエルも部屋から出てきて、二匹が扉の前で鼻を寄せる。
「おはよう」
リシェがしゃがむと、ラルフの顔が手へ押しつけられた。もう一方の手でフィエルを撫でているうちに、廊下の先からイネスが来た。
「こんなところで待っていたのか」
「いつからいたんでしょう」
「朝、部屋の前を見に来たのかもしれないね」
ラルフはイネスにも駆け寄り、撫でてもらうと、またリシェのそばへ戻った。
「朝食の前に庭へ出ようか。短い時間だけ」
扉を開けると、二匹が並んで外へ出た。
*
朝の庭は昨日と匂いが違った。
湿った土の上に落ちた花びらがある。葉の縁に残った雫へ日が差し、リシェが近づくと小さな精霊がその上から離れた。
イネスは花壇の端で止まった。
「これ覚えてる?」
指されたのは、施設でも見た薬草だった。だが、葉の色が少し薄く、株の広がり方も違う。
「ここだと、こんなに横へ伸びるんですね」
「植えた場所を変えてから、よく育つようになった。庭師が記録を残してくれているから、あとで見せてもらおう」
リシェは鞄へ手を伸ばしかけた。
今日はノートを部屋へ置いてきていた。
「朝食のあと、もう一度来てもいいですか?」
「うん。私もまだ確かめたい株がある」
ラルフが花壇の向こうから戻ってきた。フィエルも続き、リシェの足元へ座る。
ロギはイネスの肩へ降り、花を覗き込んでいた。
『二人とも、もう帰ることを忘れてるね』
リシェは顔を上げた。
屋敷の窓辺に、フェリクスが立っている。
目が合うと、彼は庭へ続く扉を指した。
「……戻ります」
「そうだね」
イネスが答えた直後、フェリクスが扉を開けた。
「呼ぶ前に気づいてくれてよかった」
*
朝食の席では、フェリクスがアルベールへ領地の仕事を報告していた。
花を運ぶ馬車の予定と、道の補修。書類を一枚ずつ確かめ、必要な返事を短く交わしている。
リシェはパンを取りながら聞いていたが、道の話になったところで顔を上げた。
「昨日、途中の橋で少し揺れました。木の板が一枚だけ沈んだように見えて」
フェリクスの手が止まった。
「どの辺りだったか覚えている?」
「街へ入る前です。右側に大きな木がありました」
御者に伝えた方がよかったのかもしれない。そう思って言い足すと、フェリクスは首を振った。
「今教えてくれて助かったよ。通った道を御者に確認してみる」
書類の余白へ書きつけ、リシェへ向き直る。
「馬車の中からよく見ていたんだね」
「揺れたので、気になって」
「だから旅に連れていくと何かしら記録が増えるんだ」
イネスが言った。
アルベールはお茶の器を置き、少し笑う。
「お前は橋より道端の草を見ているだろう」
「草も記録する価値はある」
「橋が落ちてからでは帰れなくなるよ」
フェリクスに言われ、イネスはパンへ手を伸ばした。
リシェは笑いそうになり、先に口の中を飲み込んだ。
*
姉のアデルが着いたのは、昼前だった。
庭でイネスと記録を見ていると、玄関の方でラルフが吠えた。迎えに走る姿を見て、イネスが本を閉じる。
「姉さんかな」
リシェも立ち上がった。
玄関へ回ると、馬車から降りた女性がラルフの首を撫でていた。顔を上げ、イネスを見る。
「相変わらず庭にいたのね」
「今はちゃんと出迎えに来た」
「それは大きな進歩だわ」
アデルは笑い、それからリシェへ目を向けた。
「初めまして。アデルです」
「リシェです。お会いできてうれしいです」
挨拶をすると、アデルは少し身をかがめた。
「こちらこそ。会えるのを楽しみにしていたの」
その後ろで、フェリクスが従者へ荷物の指示をしている。
「姉さん、こちらの箱は?」
「贈り物。そっちは私の着替え」
「贈り物は客間へ」
「開けるのはあとでね」
アデルはリシェへ向き直った。
「先に何をしていたか見せてもらってもいい?」
*
庭へ戻ると、アデルはリシェのノートを覗いた。
葉の形と、株の広がり方。イネスが植えた頃の記録と、今の姿を比べていたところだった。
「イネスが昔植えたもの?」
「はい。施設の株と少し違うんです」
リシェが説明すると、アデルは花壇へ目を向けた。
「これ、最初は別のところにあったわよね」
「覚えてるの?」
「覚えているわ。私が座ろうとした場所を、お前が鉢で埋めたから」
イネスは少し考えた。
「日当たりがよかったんだ」
「私もそう思って椅子を置いたのよ」
リシェはノートを持ったまま笑った。
イネスが家でどんな子だったか、話を聞くたびに少しずつ分かる。
アデルはリシェの隣へ立ち、今度は紙の絵へ目を戻した。
「これはどこが変わったの?」
「下の方の葉です。古い記録だと、このくらいの幅で……」
指で示すと、アデルは最後まで聞いてくれた。
植物に詳しいわけではないらしく、分からないところはそのまま尋ねる。そのたびにリシェは本と実物を見比べ、説明を考えた。
「なるほど。見た目は似ていても、違うのね」
アデルはイネスへ顔を向けた。
「お前の説明より分かりやすいわ」
「私はまだ何も説明してない」
「説明する前から難しい顔をしているもの」
*
昼食のあと、客間で贈り物の箱を開いた。
中には、紙の束と、細い紐で結ばれた包みが入っていた。
アデルが包みをほどくと、丈夫な革の表紙が出てくる。
「紙を挟んで使うものよ。外で立ったまま書くとき、便利でしょう」
リシェは差し出されたものを両手で受け取った。
硬い板が入っていて、膝に載せなくても紙を支えられる。端には留め具があり、風でめくれないようにできた。
「ありがとうございます。使ってみてもいいですか?」
「もちろん」
ノートから紙を一枚出し、挟んでみる。
立ち上がって筆を動かすと、いつもより手元が安定した。
「書きやすいです」
「よかった。フェリクスから、外で調べる仕事もしていると聞いたから」
リシェは留め具へ目を落とした。
来る前から、自分の仕事を考えて選んでくれたのだ。
「私、何も持ってきていなくて……」
「贈り物のお返しはいらないわ」
アデルは椅子へ座り、イネスへ目を向けた。
「お前が妹を紹介してくれる日が来るなんて思わなかった」
「姉さん。まだその話は決まっていない」
イネスの声に、リシェの手が止まった。
アデルはすぐにこちらへ向き直る。
「ごめんなさい。楽しみにしすぎたわね。今のは聞かなかったことにして」
「いえ……」
返事の続きを探していると、セシルがお茶を運んできた。
「まずは仲良くなるところからでしょう」
「ええ。つい気が早くなって」
アデルは素直に頷き、リシェが持つ革の表紙へ目を戻した。
「それは、どんな答えでも持って帰ってね。使ってもらえたらうれしいから」
リシェは胸へ寄せ、もう一度礼を言った。
*
夕方、アデルと屋敷の中を歩いた。
書庫には、家族が使う本が並んでいる。イネスが昔読んだものも残っていて、背表紙には植物の名前が多かった。
「ここは自由に入っていいわ。借りたいものがあれば、父様に聞いてみて」
リシェが棚へ近づくと、アデルは入口の椅子へ座った。
遠くの国について書かれた本があった。
海岸の絵を思い出し、手を伸ばしかける。隣には領地の花についての本もあり、どちらを先に見ようか迷った。
「どっちも取っていいのよ」
背後から言われ、リシェは振り返った。
「迷っている顔だったから」
アデルは笑っていた。
リシェも笑い、二冊を棚から抜いた。
*
部屋へ戻ると、もらった革の表紙を机へ置いた。
借りた本は、その隣へ。
フィエルが敷物から立ち上がり、リシェの足元へ来る。ロギは椅子の背へ降りた。
『今日は本が二冊増えたね』
『借りたものだよ。帰る前に返す』
『こっちはもらったもの?』
『うん。アデルさんが選んでくれたの』
留め具を開いて、白い紙を一枚挟む。
今朝、庭で調べた株の絵を描き直そうとした。
だが、最初の線を引く前に、手が止まった。
妹を紹介してくれる日。
アデルの言葉が、まだ耳に残っていた。
イネスの妹になる。
そうなれば、アデルやフェリクスとも、姉妹や兄妹になるのだ。
リシェは、しばらく白い紙を見ていた。
フィエルの鼻先が手へ触れる。撫でると、そばにいたい気持ちが伝わってきた。
「……まだ、分からないね」
誰に言うでもなく呟いた。
廊下で足音がし、扉が軽く叩かれる。
「リシェ、夕食の前に少し休む? 呼びに来ようか」
イネスだった。
扉を開けると、いつもの白衣ではなく、家で着る服に替わっていた。
「少し本を読んで待っています」
「分かった。時間になったら来る」
それだけ伝え、隣の廊下へ戻っていく。
リシェは扉を閉め、机へ向かった。
今日は、帰る部屋があった。夕食の席も、用意されている。
書庫から借りた本を開き、紙に書くことは、もう少しあとにすることにした。




