第百四話 ここで過ごす朝
三日目の朝、リシェは扉を叩かれる前に目を覚ました。
窓の外では、庭師が花壇の間を歩いている。フィエルはまだ布の上で眠り、ロギは長椅子の背に留まっていた。
服を着替え、髪を整える。部屋を出ようとすると、ロギが片目を開けた。
「早いね」
「少し庭を歩いてくる。フィエルが起きたら、一緒に来てくれる?」
「うん」
廊下は静かだった。
階段を下りたところで、アルベールに会った。手に本を持ち、庭へ続く扉を開けたところだった。
「おはよう。よく眠れたかな」
「はい。おはようございます」
リシェが挨拶すると、アルベールは外へ目を向けた。
「散歩へ?」
「朝食まで少しだけ」
「私も同じだ。一緒に歩いてもいいかな」
頷くと、扉を押さえて待ってくれた。
*
アルベールの歩みはゆっくりだった。
花の名前を知っているところでは足を止め、知らないものは、リシェと一緒に札を読んだ。
「イネスはここへ来ると長いだろう」
「はい。昨日も戻る時間を忘れそうになっていました」
「子どもの頃からだよ。食事に来ないと思って探すと、土のついた手で何かを抱えていた」
リシェは花壇へ目を向けた。
幼いイネスが歩く姿は、少し想像できた。今より小さくても、きっと同じように葉の裏を見ていたのだろう。
「研究者になりたいと、昔から言っていたんですか?」
「最初は庭師になりたかったらしい。そのあと、本を書くと言い出した。しばらくすると、自分で調べなければ書けないと言ってあちらへ通うようになった」
アルベールは庭の奥を示した。
小さな建物があり、その脇には鉢が並んでいた。
「初めてイネスのために空けた場所だよ」
「見てもいいですか?」
「もちろん。ただ私には中の説明はできない。分からないものは本人に聞こう」
扉を開けると、土と乾いた草の匂いがした。
棚の一角に、小さな鉢が残っている。古い札の文字は、今のイネスが書くものより大きかった。
リシェは触らず、少し身をかがめて読んだ。
「残してあるんですね」
「片づけていいかと聞くたびに、次に帰ったら見ると言うんだ」
アルベールは苦笑した。
「次が来ても、別の鉢を増やすばかりでね」
*
建物を出ると、ラルフが芝生を走ってきた。
その後ろをフィエルが追い、ロギは銀白色の背に乗っている。ラルフが急に向きを変えると、フィエルも足を踏ん張って曲がった。
「よく遊ぶようになったね」
アルベールが言った。
ラルフは彼の前で止まり、咥えていた布を地面へ落とした。投げてもらうつもりらしい。
「朝から元気だな」
拾って放ると、二匹が一斉に走り出す。
リシェは戻ってくるフィエルを見ていた。初日に比べ、ラルフへ向ける警戒はずっと薄くなっている。
今度はラルフが拾った。
だが、戻る途中でフィエルが並びかけると、楽しそうに遠回りを始めた。
「返してくれないの?」
リシェが声をかけても、ラルフは走り続ける。アルベールが笑い、両手を広げて待った。
「私たちまで走ると、朝食に遅れそうだ」
その言葉どおり、ラルフがようやく戻った頃、屋敷から呼びに来た人がいた。
*
朝食の席で、イネスは父とリシェを交互に見た。
「先に庭へ行ってたの?」
「お前の鉢も見てきたよ」
アルベールが答える。
「あの建物、今度こそ片づけるのか?」
「帰る前に見る」
「それは前にも聞いたな」
フェリクスがパンを皿へ置いた。
「見るだけでは片づかないから、持ち帰る分と残す分を決めてくれ」
「全部、残しておいても」
「棚を増やす相談ではないよ」
アデルが笑いながら、リシェへ顔を寄せた。
「今日の午後、町へ行かない?花の市が立つの」
「行ってみたいです」
返事が早く出て、自分でも少し驚いた。
「イネスも来る?」
「私はさっきの鉢を確かめたい」
「では、帰ったら片づいているのを楽しみにしているわ」
逃げ道を塞ぐような言葉に、イネスが姉を見た。アデルは何事もなかったように、お茶を口へ運んだ。
*
花の市には、近隣で育てられたものが集まっていた。
桶に挿された切り花もあれば、根のついた苗や、乾かした花を束ねたものもある。広場を歩く人たちの腕には、色とりどりの包みが抱えられていた。
リシェはアデルと並んで歩いた。セシルも一緒に来ていて、少し後ろで店の人と話している。
フィエルは足元を離れず、ロギはリシェの肩から台を覗いていた。
「どれが好き?」
アデルに尋ねられ、リシェは並んだ花を見た。
名前の分かるものもある。見たことのない形もある。
「どれも気になります」
「じゃあ部屋に一つ飾るなら?」
「部屋に……」
今度は花の大きさを見比べた。
机に置くなら、あまり広がらないものがよさそうだった。本を開く場所も残したい。
細い茎に小さな白い花をつけた束へ、目が止まる。
「これなら机に置けそうです」
「かわいいわね」
アデルが店の人へ声をかけようとしたので、リシェは財布を出した。
「自分で買います」
「そう?」
「はい。持って帰って、施設の部屋にも飾りたいので」
値段を聞き、銅貨を渡す。
受け取った束は、見た目より軽かった。
セシルが隣へ来て、花を見た。
「水に挿せるよう、小さな瓶を探しましょうか」
「ありがとうございます」
次の店へ向かう間、リシェは花が人へ当たらないよう胸元へ寄せた。
選んだのは、効能を調べたい草ではなかった。
机へ置いたらうれしいと思った花だった。
*
屋敷へ戻ると、フェリクスが玄関から出てきた。
「おかえり。楽しかった?」
「はい。花を買いました」
見せると、フェリクスは束へ目を向けた。
「いいね。部屋へ持っていく?」
「一度水に入れたいです」
セシルが瓶を受け取り、先に中へ入る。
ラルフが扉の向こうから顔を出し、すぐにリシェの花へ鼻を伸ばした。
「これは食べるものじゃないよ」
花を持ち上げると、ラルフも顔を上げる。フィエルが横から入ってきて、リシェの手へ鼻先を押しつけた。
『ぼくも』
「フィエルも見る?」
少し下げると、二匹の鼻が同時に近づいた。
フェリクスがラルフの首元を撫で、そっと離す。
「順番だよ。まずリシェを中へ入れてあげよう」
道が空き、リシェは笑いながら玄関へ入った。
*
夕方、イネスの古い鉢は三つに分けられていた。
持ち帰るもの。庭へ移すもの。片づけるもの。
リシェが覗くと、フェリクスが数を確かめ、イネスは最後の札を書いていた。
「本当に片づいた」
「兄さんが途中から来たからね」
「来なければ、全部必要だと言い出しそうだった」
イネスは否定しなかった。
リシェも持ち帰る鉢を見せてもらい、積みやすいよう箱へ並べるのを手伝った。
作業が終わると、フェリクスは汚れた手を洗いに行った。イネスも道具をしまい、二人で屋敷へ戻る。
庭の道には、もう長い影が落ちていた。
「今日は楽しかった?」
イネスに尋ねられ、リシェは頷いた。
「お父様に、イネスさんの昔のお話を聞きました」
「何を?」
「庭師になりたかったこととか、本を書きたかったこととか」
「父上もよく覚えてるな」
少し照れたような声だった。
リシェはその横顔を見た。
「皆さん、イネスさんのことをよく知っているんですね」
「家族だからね。私が忘れたことまで覚えているよ」
扉の前で、イネスが足を止めた。
「君のことも、これから知っていけたらと思ってる。両親も、兄や姉も」
リシェは返事をしようとした。
だが、声になる前に、イネスの向こうへ目が向いた。
食堂には、もう明かりがついている。
今日の買い物の話をしたら、きっと続きを聞いてくれる。朝の庭のことも、明日見たい花のことも。
その中に、自分もいてよいのだろうか。
そう思ったあとで、別のことが胸へ浮かんだ。
まだ、話していないことがある。
*
部屋へ戻り、白い花を机へ置いた。
窓から入る風で、細い茎が揺れる。花瓶の向こうには、最初の日に書いた質問の紙があった。
研究を続けられるか。
旅へ出てもよいのか。
フィエルたちと、一緒に暮らせるか。
どれも、聞きたいことだった。
でも、それだけを確かめればよいのではないと、今は分かっていた。
リシェは椅子へ座り、紙を手前へ引いた。
孤児院のこと。
自分の瞳のこと。
言葉を書こうとして、筆先が止まる。
ロギが窓辺から飛んできた。
『話したい?』
リシェはしばらく紙を見たままでいた。
『……話しておかないと、いけないと思う』
『家族になる前に?』
頷くと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
『私のことで、困るかもしれないから』
ロギは紙の端へ降りた。何も急かさず、こちらを見ている。
足元では、フィエルが椅子へ体を寄せた。
リシェは筆を置き、膝の上で手を握った。
ここへ、また帰ってきたい。
そう思うようになったからこそ、黙ったままではいられなかった。




