第百五話 話しておきたいこと
夕食のあと、リシェはイネスの部屋を訪ねた。
扉が開くと、机には持ち帰る鉢の一覧が広げられていた。イネスは筆を置き、椅子を一つ寄せた。
「どうした?」
「あの……明日、ご家族にお話をしてもいいですか」
座るよう促されても、すぐには動けなかった。
「私が孤児院にいたときのことです。それから、自分の力のことも」
イネスは扉を閉めた。
リシェが椅子へ腰を下ろすと、向かいに座る。
「話しておきたいと思ったんだね」
「はい。」
言葉にすると、昨日までの楽しさが少し遠くなった。
庭を歩いたこと。花を選んだこと。皆で同じ机を囲んだこと。
どれも、まだ終わらせたくなかった。
イネスはしばらく考え、それから尋ねた。
「両親だけにする?兄や姉にも聞いてほしい?」
「皆さんに聞いていただきたいです」
一人ずつ、違うことを伝えたくはなかった。誰かだけが知らないまま、迎える話を進めるのも怖かった。
「分かった。明日の午前に時間を取ってもらう。ただ、ロギのことは話す必要がないと思う。君が話したいことを一緒に整理しよう」
「はい」
肩にいた赤い鳥が、椅子の背へ移った。
リシェは持ってきた紙を机へ置いた。白いままの余白が、まだ多く残っていた。
*
四日目の朝、庭には出なかった。
フィエルの毛を梳き、朝食を取り、部屋へ戻って待つ。何度も時計を見るので、途中から本を開いた。
同じ行を読んでいることに気づき、閉じた。
『僕も行くよ』
ロギが言った。
『うん。でも話さなくて大丈夫』
『分かってる。いつもの鳥でいるよ』
フィエルが膝へ鼻を寄せた。
『ここ』
「うん。いてね」
首の横へ頬を寄せると、柔らかな毛が触れた。
扉を叩く音がした。
イネスを見た途端、リシェは立ち上がった。用意した紙を持とうとして、一度机へ置き直す。
「急がなくていい」
その言葉に深く息を吸い、今度は鞄へしまった。
*
昨日お茶を飲んだ部屋に、四人が待っていた。
アルベールとセシル。その向かいにフェリクスとアデルが座っている。
机には水と、まだ湯気の残るお茶が用意されていた。
リシェはイネスの隣へ座った。フィエルが足元に伏せ、ロギは椅子の背へ移る。
「話しておきたいことがあると聞いた」
アルベールの声に、リシェは頷いた。
「はい。私のことでご迷惑をかけるかもしれません。なので、先に知っていただきたくて」
「分かった。途中で休みたくなったら、そう言ってくれていい」
リシェは膝の上で指を重ねた。
紙は出さなかった。
「私、カルンの孤児院で育ちました」
*
小さい頃から、そこにいたこと。
本当の誕生日も、両親のことも知らないこと。
引き取られる話が何度かあり、そのたびに、事情が変わったと言われたこと。
リシェは覚えている順に話した。
「最後に、ヴァルツ商会へ引き取られることになりました。でもそこへ行った子が、あとでどうなったか分からないという話を聞いて……」
そこで、声が細くなった。
あのときも、詳しいことは分からなかった。
本当なのかも、誰へ確かめればよいのかも。
「怖くなって、逃げました」
机の向こうで、アルベールは動かなかった。
フェリクスの手は膝の上に置かれている。アデルも口を挟まず、こちらを見ていた。
「森でフィエルに会って、オルテンへ行きました。ハンスさんや宿のマルタさんたちに助けてもらいました」
そこで、少し息を継げた。
昨日まで遠く感じていた声が、一つずつ戻ってくる。
「採集の仕事をして、旅のお金を貯めました。それで、アルセインへ来ました」
「商会から連絡や接触はあった?」
フェリクスが尋ねた。
「ありません。でも探しているかは分かりません」
「分かった。今、実際に起きていることと、心配していることは分けて確認していこう」
リシェは頷いた。
「それから、もう一つあります」
*
次の言葉は、なかなか出なかった。
膝へ置いた手を握ると、爪が掌へ当たった。
「私には魔獣の気持ちが分かることがあります」
誰も声を上げなかった。
リシェは足元のフィエルへ目を落とした。
「フィエルだけではありません。契約していない魔獣でも、怖いとか近くへ来たいとか……そういう気持ちが伝わることがあるんです」
「必ず分かるのかな」
アルベールに尋ねられ、首を振った。
「いいえ。分からないときもあります。普通の動物からは、伝わりません」
ラルフの気持ちは、仕草を見て考えていた。
フィエルのときのように、胸へ届くものはなかった。
「精霊も見えます。最近は契約していない精霊からも、短い言葉が聞こえることがあります」
セシルが静かに器を置いた。
リシェは膝へ目を戻し、続けた。
「そのとき目に金色の星が出るそうです。自分では、出ているか分かりません。先生が教えてくれました」
イネスが隣で口を開いた。
「ゼフィリスと、魔獣研究者のエルネストも知っている。ただ仕組みはまだ分かっていない。外へ広めるべきではないと考えている」
「ほかに、この話を知っている人は?」
フェリクスの問いに、リシェは知っている範囲を答えた。
マルタとエマが瞳の星を見たことはある。でも、意味までは知らない。
カイルにも、力のことは話していなかった。
「今日、私たちへ話してくれた内容は、ここから外へは出さない」
アルベールが言った。
リシェは顔を上げた。
「家の者にも必要なく伝えることはしない。君自身が誰かへ話したいときも、誰かに必ず相談してほしい」
「はい」
そこでようやく、握っていた手を少し緩めた。
*
「孤児院にいた頃にも、不思議なことはあったの?」
セシルの声に、リシェは頷いた。
「何かがいるような気配は、昔から感じていました。でも姿は見ていません。何だったのかは、今も分からないです」
引き取りの話がなくなったことと関係があるのかも、分からない。
そう付け加えると、アルベールは短く頷いた。
「分からないことを無理に決める必要はないよ」
リシェは膝の上の指を見た。
話すことは、これで全部だっただろうか。
隠してはいけないことを忘れていないか、考えようとすると、また胸が苦しくなった。
「私を迎えたら商会の人が来るかもしれません。それに、力のことが知られたら……」
その先を、うまく言えなかった。
利用しようとする人がいると、ゼフィたちは教えてくれた。
ここにいる家族にも、その危険が及ぶのかもしれない。
「だから、私……」
言葉が止まった。
断った方がいい。
そう言えば、これ以上心配させずに済む。
だが、昨日までの時間を思い出すと、その一言が出なかった。
*
リシェは目に涙が溜まって、ぐ、と口を引き結んで耐えようとした。言葉が出ない。
アルベールは、しばらく黙っていた。
リシェの話を考えるように少し視線を落とし、それから向き直った。
「商会と孤児院については、こちらでも確かめよう。どこまで調べるか、何を伝えるかは、君やイネスと相談して進める」
リシェは耳を澄ませた。
「君の力についても、危険がないとは言えない。だから、秘密を知る人を増やさず困ったときに誰と話すか決めておきたい」
これからを見据えた言葉に、リシェの顔が上がる。
「私たちは知らずに引き受けたわけではなくなる」
アルベールは、机の上へ置いていた手を重ねた。
「君が話してくれたことを踏まえて、考えられる。まず、それをさせてほしい」
フェリクスも口を開いた。
「こちらにできる備えと、まだ分からないことを整理するよ。君一人で起きるかもしれないこと全部の責任を持たなくていい。君はまだ子供なのだから。」
いつもの柔らかな声だった。
リシェは頷こうとして、うまく動けなかった。
「それから確認したいんだけど」
フェリクスは少し身をかがめた。
「今の話は、家族になりたくないという返事ではないんだね?」
リシェは顔を上げた。
全員が待っていた。
急かさず、続きを代わりに言うこともなく。
*
「……家族に」
一度口にすると、もう戻せなかった。
リシェは唇を結び、息を整えようとした。
「私も、家族になりたいです。でも、皆さんが困るかもしれなくて…」
「だから話してくれたのね」
セシルが席を立ち、そばへ来た。
リシェは頷いた。
膝の上へ、雫が落ちた。
驚いて手を動かすと、また一つ落ちる。止めようと瞬きをしても、視界が滲んだ。
「ごめんなさい」
声が詰まった。
セシルは布を差し出し、リシェが受け取るのを待った。
「謝らなくていいの。ここで少し泣いても、誰も困らないわ」
リシェは布を目元へ当てた。
隣から、イネスの手が肩へ触れる。
「話してくれてありがとう」
それを聞くと、こらえていた息が震えた。
フィエルが立ち上がり、膝へ顔を押しつけた。背の毛を握りそうになり、リシェはそっと手を開く。
アデルが反対側へ椅子を寄せた。
「これから先、何もかも一人で分かってから話そうとしなくていいのよ。困ったら、その途中で聞かせて」
リシェは布を握り、何度か息を吸った。
*
落ち着くまで、誰も席を立つようには言わなかった。
セシルが新しい水を用意し、フェリクスは机の端を空けた。ロギは椅子の背で静かに待っていた。
ようやく器を持てるようになると、アルベールが言った。
「私たちも、リシェを家族として迎えたい」
リシェは器から顔を上げた。
「その上で、これからの暮らし方と仕事や旅について、きちんと話をしよう。今日、すべてに返事をしなくても構わない」
「はい」
声はまだ少し掠れていた。
イネスが隣で息を吐いた。
「私の妹になるのは、何かと騒がしいと思うけど」
「お前が一番、騒がせないようにするんだよ」
フェリクスの返事に、アデルが笑った。
リシェも口元を緩めたが、すぐに目元が熱くなった。
「また、泣いちゃう」
小さく言うと、セシルが手を差し出した。
リシェはその手を取った。
温かかった。
今度は自分から、少しだけ握り返した。




