第百六話 呼び方を探す
部屋へ戻ると、リシェは椅子に座ったまましばらく動かなかった。
机には白い花が飾ってある。借りた本ももらった革の表紙も、昨日と同じ場所にあった。
フィエルが足元へ座り、膝へ顎を載せた。
『ないた』
「うん」
目元へ触れると、まだ少し熱かった。
「びっくりした?」
『かなしい?』
リシェは首を振り、背を撫でた。
「悲しいのとは違うと思う」
うまく説明できなかった。怖かった気持ちも、ほっとした気持ちも、まだ胸の中で混ざっている。
ロギは机の端へ降りた。
「家族になりたいって、言えたね」
「うん」
もう一度口にしようとすると、また喉が詰まりそうになった。リシェは水を飲み、窓の外へ目を向けた。
庭では、ラルフが布を咥えて歩いていた。
*
昼食には、いつもの席が空いていた。
部屋へ入ると、セシルが顔を上げる。
「食べられそう?」
「はい」
席へ着くと、すぐに皿が運ばれてきた。昨日も食べたスープだったが、一口飲んで、ようやくお腹が空いていたことに気づいた。
誰も、さっきの話を食卓で続けようとはしなかった。
アルベールは庭の木を手入れする予定を話し、アデルは帰る馬車の時刻をフェリクスに確かめている。イネスが持ち帰る鉢の数を言うと、フェリクスが静かに顔を向けた。
「昨日、箱に収めた分より増えてないか」
「朝もう一つ見つけた」
「見つけたものを全部運ぶ必要はないよ」
「これだけは比べたいんだ」
「その言葉は昨日も聞いた」
リシェは匙を口へ運ぶ前に笑ってしまった。
隣のイネスも少しだけ笑った。
*
午後はリシェも交えて、これからのことを話した。
机へ置かれた紙には、暮らす場所、仕事、旅、研究成果の扱いが分けて書かれていた。リシェが持ってきた質問も、その隣へ並べる。
「まず、アルセインでの生活を急に変える必要はない」
アルベールが言った。
「施設で暮らし、イネスと仕事を続けたいと聞いている。その希望で、間違いないかな」
「はい。まだ調べたいことがあります」
「では、住まいについては施設とも相談しよう」
フェリクスが一つ目の項目へ書き込んだ。
「研究の報酬や君自身の持ち物は、家のものと分けて扱う。契約は確認するけれど、何を買うにも許可を取る、という話ではないよ」
リシェは自分の財布を思い浮かべた。
本を買い、道具を選び、少しずつ残してきたお金だった。
「仕事は続けていいんですね」
「もちろん。ただし危険な依頼を受ける条件は、今までどおり守ってもらう。家族になったから、その決まりがなくなるわけではない」
頷くと、フェリクスは次の項目へ指を移した。
「旅についても聞かせてほしい。すぐに遠くへ出たい?」
「今すぐではありません。でもいずれは、ほかの国も見たいです。薬草の育つ場所を調べたり、知らないものを見たりしたくて」
「誰と行くか、どんな支度をするかは、そのときに相談しよう」
アルベールが続けた。
「帰ってくる場所として、この家も覚えていてくれればうれしい」
リシェは膝の上で手を重ねた。
「……はい」
聞きたかったことは、まだ残っていた。それでも、話し始める前よりずっと、次の質問を出しやすくなっていた。
*
「私が貴族の家にいてもいいんでしょうか」
紙の端へ書いておいた問いを、リシェは口にした。
「挨拶も知らないことばかりです。今日も何と呼べばいいのか……」
セシルが向かいから微笑んだ。
「知らないことは、少しずつ覚えればいいの。最初からできる人を探していたわけではないから」
「でも、失礼なことをしたら」
「そのときは教えるわ。私たちも言い方を間違えることはあるもの」
フェリクスがイネスへ目を向けた。
「長くここで育っても食事中に庭へ出たくなる者もいるしね」
「今日はちゃんと座っていた」
「そうだね。よくできました」
イネスが兄を見る。アデルは笑いながら、リシェの質問の紙を手前へ寄せた。
「呼び方は今までどおりでもいいのよ。急に変えなくても」
リシェは四人を順に見た。
父と母。兄と姉。
言葉にすれば短いが、それぞれが自分を指すようになるのだと思うと、まだ落ち着かなかった。
「イネスさんも?」
「私はどちらでも」
イネスはそう答えたあと、少し考えた。
「ただ、研究室で急に姉さんと呼ばれたら、振り返るのが遅れるかもしれない」
「先に練習しておく?」
アデルがすぐに言った。
「姉さんが楽しみたいだけだろう」
「ええ。少しは」
リシェは笑い、紙の角を指でなぞった。
「慣れるまで待ってもらえますか」
「もちろん」
セシルの返事に、ほかの三人も頷いた。
*
手続きに必要なことは、フェリクスが確認してくれることになった。
正式な書類がそろうまでには、まだ時間がかかる。リシェ自身にも説明し、内容を確かめてもらってから進めるという。
「先に、君へ渡したいものがある」
アルベールは机の引き出しから、小さな鍵を取り出した。
「今使っている部屋のものだよ。帰るときも、持っていてほしい」
リシェは差し出された手を見た。
「また、泊まりに来てもいいんですか」
「もちろん。あの部屋はそのままにしておく。置いておきたいものがあれば、置いていって構わない」
受け取った鍵は、掌に収まった。
施設の部屋の鍵とは形が違う。
リシェは指を閉じ、しばらくそのまま握っていた。
*
夕方、庭へ出るとラルフがすぐに走ってきた。
布を咥えている。リシェの前へ落とし、一歩下がって待った。
「今日は私が投げるの?」
拾うと、フィエルも隣へ並んだ。
芝生へ向けて放る。
初日より遠くまで飛び、二匹が駆け出した。
低い枝で見ていたロギが、リシェの肩へ戻る。
『遠くなったね』
『少し、こつが分かったかも』
先に布へ追いついたのはラルフだった。咥えたまま走り、フィエルと一緒に庭を回る。
リシェが呼ぶと、二匹ともこちらへ戻ってきた。
ラルフの頭を撫でると、フィエルが手の下へ入る。
『ぼくも』
「分かってるよ」
両手で撫でながら笑っていると、庭の道からフェリクスが来た。
「楽しそうだね」
「さっき、前より遠くへ投げられました」
リシェが布を渡そうとすると、ラルフが先に顔を上げた。
フェリクスはその鼻先を撫で、芝生へ放った。
「もう一回だけ。そろそろ寒くなるからね」
*
池のそばへ行くと、精霊たちは今日もいた。
リシェは乾いた道の上でしゃがみ、手を開いた。淡い青の光が近づき、指先の上を漂う。
明後日には、この庭を離れる。
五日の滞在は、来る前には長く思えた。今は、まだ見ていない花壇も、読めていない本も残っている。
「また来るね」
小さく伝えると、光が掌へ寄った。
『また』
届いた短い言葉に、リシェは顔を上げた。
花壇の向こうには、明かりのつき始めた窓がある。そちらへ目を向けると、セシルが窓辺から手を振っていた。
リシェも振り返す。
隣でフェリクスが、屋敷の方を見た。
「明日は、帰りの荷物を確かめよう。忘れ物があっても送れるけど、道中で困るものは持っていきたいからね」
「はい」
立ち上がると、服のポケットで鍵が小さく鳴った。
リシェは上からそっと押さえ、もう一度窓へ目を向けた。
*
夕食のあと、リシェは借りていた本を持って書庫へ行った。
一冊は読み終えた。もう一冊は、まだ途中だった。
棚の前で迷っていると、アルベールが扉から入ってきた。
「返しに来てくれたのかな」
「はい。でも、こっちはまだ読んでいなくて」
本を見せると、アルベールは題を確かめた。
「持って帰っていいよ。読み終えたら、次に来るときに戻してくれればいい」
「いつになるか分かりません」
「急ぐ本ではないから大丈夫」
リシェは胸へ抱え直した。
「ありがとうございます」
アルベールは隣の棚へ目を向け、同じ地方について書かれた別の本を示した。
「ここにも続けて読めそうなものがある。次に来たとき、気になったものを探すといい」
リシェはその背表紙を覚えてから、借りる本へ目を戻した。
「読み終えたら、お手紙を書いてもいいですか」
「もちろん。どこが面白かったか、聞かせてほしい」
書庫を出るところまで一緒に歩くと、アルベールはリシェの歩みに合わせて足を緩めた。
「おやすみ、リシェ」
「おやすみなさい」
廊下を戻りながら、本を片腕へ抱え直した。
部屋へ着いたら、手紙の紙も用意しておこう。
名前の前に何と書くかは、まだ少し迷う。
でも、書きたいことはもうあった。




