第百七話 持って帰るもの
滞在最後の日、イネスの部屋の前には木箱が二つ並んでいた。
「帰りは一つにするんじゃなかったんですか?」
「そのつもりだったんだけどね」
蓋の開いた箱には、乾燥させた花や種の包みが詰まっている。もう一つには本が積まれ、その隙間から布袋がはみ出していた。
「庭師に挨拶に行ったら、持っていきなさいって」
「イネスさんから、ほしいって言いませんでしたか?」
「少しだけ」
後ろから来たフェリクスが箱の中を確かめ、廊下を塞がないよう壁際へ寄せた。
「馬車には積める。ただし帰り道で増やすなよ」
「寄り道しなければ増えないよ」
「それなら寄り道もしないように」
返事をする前に釘を刺され、イネスは包みを一つ箱へ押し込んだ。
リシェも部屋へ戻り、机に広げていたものを鞄へ収めた。借りた本、ノート、アデルにもらった筆記板。来た時より荷物は増えたが、まだ自分で持てる重さだった。
花瓶には、市場で買った白い花が残っている。
一本を手に取ったところで扉が叩かれ、セシルが顔を出した。
「荷造りは進んでいる?」
「はい。あとは、この花をどうしようかと思って」
「押し花にして持っていく?全部は難しいけれど、小さな花なら挟めるわ」
紙を用意してもらい、形の整った一輪を選ぶ。残りを花瓶へ戻すと、セシルは窓辺へ置いた。
「こちらは、この部屋に飾っておきましょう」
机の引き出しは空にした。借りていた薄い本だけは、本棚の端に戻してある。まだ途中だったが、次に来た時に続きを読んでいいと言ってもらっていた。
部屋を見回していると、セシルに昼食まで一緒に過ごさないかと誘われた。
*
居間の卓には、お茶と小さな焼き菓子が用意されていた。
何度か使った場所なのに、今日は座る前に少し迷った。家族になりたいと言った昨日から、これまで気にしなかったことが気になっている。
「ここでいいですか?」
「ええ。どうしたの?」
勧められた席に腰を下ろしても、すぐには答えられなかった。膝の上で指を揃え、卓に並んだものを見る。
「私、こういう時にどうしたらいいのか、知らないことが多くて」
「お茶の席での振る舞い?」
「それもです。挨拶とか、言葉とか……家族になるなら、覚えた方がいいのかなって」
セシルは手にしていた茶器を置いた。
「覚えていないと家族になれない、ということはないわよ」
「はい。でも皆さんに恥をかかせたくないんです」
「作法を知らないからといって、あなたが恥じることはないの」
急いで何かを言い足そうとして、口を閉じた。セシルはそのまま続けた。
「ただ、知っていれば困らずに済むこともあるわ。初めての場所でも、何をすればいいか分かると少し安心できるでしょう?」
「……はい」
「それなら少しずつ覚えましょう。帰ってからイネスに教えてもらうのはどう?」
ちょうど扉を開けたイネスが、自分を指した。
「私?」
「あなたも習ったでしょう」
「習ったけど。母さんの方が上手く教えられるんじゃない?」
「一度に詰め込んでも大変よ。普段の暮らしの中で教えてあげて」
隣へ座ったイネスを、リシェは思わず見つめた。
「何、その顔」
「教えてもらえるんですか?」
「できるよ。必要な時にはちゃんとやってる」
セシルが口元を緩めたので、イネスはお茶へ手を伸ばした。
「挨拶と食事の作法、それからお断りの仕方もお願いね」
「断り方まで?」
「ええ。返事に困った時に、黙って引き受けてしまわないように」
リシェには、断ることと淑女の作法がすぐには結びつかなかった。
「嫌だと言っても、失礼にならないんですか?」
「相手を傷つけずに断る言い方もあるわ。それに、その場で答えなくてもいいのよ。迷ったら家族に相談してからお返事します、と伝えてちょうだい」
頼まれたことは、できるならやった方がいい。そう考えることが多かった。できるかどうか分からない時も、断ったら次は頼んでもらえなくなる気がしていた。
「相談してからでもいいんですね」
「もちろん。あなた一人で決めなくていいことも、たくさんあるもの」
イネスが菓子の皿をリシェの方へ寄せた。
「研究の話でも同じだよ。何を頼まれているのか、分からないまま頷かないこと。分からなければ聞いていいし、持ち帰ってもいい」
「それも教えてください」
「うん。まずは、私が忘れないように時々言って」
「そこはあなたが覚えておくところでしょう」
セシルの言葉に、今度はリシェも笑った。
*
午後にはアデルが、宛先を書いた紙を持ってきた。
「私への手紙はこちらへ送ってね。実家に送っても届くけれど、直接の方が早いから」
筆記板の内側へ紙を挟むと、留め具に引っかからないかまで確かめてくれる。
「お返事、遅くなるかもしれません」
「忙しい時はそれでいいの。書きたいことができたら書いて」
「何を書けばいいか、迷いそうです」
「今日食べたものでもいいわよ。イネスがちゃんと食事をしているかでも」
「それなら書けます」
「私の話ばっかりにならない?」
部屋の外から抗議が聞こえたが、アデルは気にせず紙をもう一枚差し込んだ。
夕方、出発前に確かめておく書類を持って、フェリクスが居間へ来た。
昨日聞いたことをもう一度説明してもらい、分からない言葉には印をつける。署名が必要になる書類は、アルセインへ戻ってからイネスと確認することになっていた。
「急いで書かなくていい。自分のことが書いてあるんだから、納得してからにしよう」
読み終えた紙を揃えていると、フェリクスが小さな包みを卓へ置いた。中には、部屋の鍵につける細いリボンが入っていた。
「施設の鍵と、見分けがつくように」
「ありがとうございます」
鍵の輪へ通すのに手間取っていると、隣から大きな手が添えられた。結び終えたリボンを指で撫で、鞄の内側へしまう。
夕食の席では、帰ってからのことを話した。
研究室に持ち帰る花のこと。留守の間に進んでいる実験のこと。ラルフが昼間、フィエルの後ろをついて回っていたこと。
食事の途中で、使う道具を確かめるために手を止めた。隣のセシルがそっと教えてくれたので、それを取って続きを食べた。
間違えないようにと身構えていた肩が、少し楽になった。
*
翌朝、玄関前に馬車が用意された。
木箱を積み終えたイネスが忘れ物を確かめている間に、リシェは見送りに出てくれた皆の前へ立った。
「お世話になりました」
頭を下げてから、それだけでは足りない気がして顔を上げる。
「また、来てもいいですか?」
「もちろんよ」
セシルに抱き寄せられ、背中へ腕を回した。離れると、アデルが乱れた髪を直してくれる。
「今度はもう少し街も見て回りましょうね」
「はい」
アルベールはリシェの頭に手を置き、馬車へ目を向けた。
「道中、無理はしないように。着いたら知らせてくれるかい」
「お手紙を書きます」
フェリクスに手を借りて乗り込む直前、足元へラルフが駆けてきた。屈んで首の辺りを撫でると、すぐ隣にフィエルも顔を差し入れてくる。
「フィエルも一緒に帰るよ」
二匹を撫でてから立ち上がった。ラルフはまだついてこようとしたが、フェリクスに呼ばれると玄関の前へ戻った。
馬車が動き出す。
窓から手を振っていると、ラルフまで前足を浮かせた。隣でイネスが笑い、遠ざかる家へ大きく手を振った。
門を抜け、花の畑が道の両側へ広がっても、リシェはしばらく後ろを見ていた。
『また来るんでしょう?』
肩にいたロギが、窓枠へ移った。
『うん』
鞄の中には、鍵と手紙の宛先がある。あの部屋の本棚には、読みかけの本を一冊残してきた。
『今度は、ラルフにフィエルを取られないようにしないとね』
『取られてないよ』
膝に顎を乗せていたフィエルが、鼻先で手を押した。その耳を撫でると、ようやく満足したように目を閉じる。
「帰ったら、まずはゼフィに報告だね」
向かいのイネスが、揺れないよう木箱を押さえ直した。
「それから研究室。たぶん、見てほしいものが溜まってる」
「私も、庭で見た花のことを調べたいです」
「じゃあ忘れないうちに書いておこうか」
筆記板を取り出し、ノートを開いた。書きかけの手紙には、まだ最初の数行しかない。
その続きを書く前に、新しい頁へ帰ったら聞きたいことを並べていく。花の名前と、種の育て方。それから少し迷い、最後に一つ書き足した。
―断り方を教えてもらう。
イネスに見せると、頁の端へ小さな丸がついた。
「了解。帰り道でも、少しずつやろう」
まずは人を紹介された時の挨拶から。
教わった言葉を口にすると、いつも白衣の袖をまくっているイネスが、背筋を伸ばして応じた。声の調子まで変わって、リシェは返す言葉を忘れてしまった。
「ほら。できるって言ったでしょう?」
得意そうな顔だけは、いつものイネスだった。




