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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第百八話 新しい名前


 アルセインへ戻った翌朝、研究室の机には、留守の間に届いた手紙と記録が積まれていた。


 イネスが上着を脱ぐより先に一通を開け、リシェも自分宛ての封筒を探す。窓辺には以前と同じ鉢が並んでいたが、そのうち一つから細い花茎が伸びていた。


「咲きそうです」

「本当だ。出る前にはまだ葉だけだったのにね」


 荷物を置いて鉢へ近づくと、戸口から声がした。


「二人とも、今日は休むんじゃなかったの?」


 ゼフィだった。フィエルが机の下を抜けて迎えに行き、差し出された手へ鼻を寄せる。


「荷物を置きに来ただけだよ」

「その手紙を読み終わるまで、ということかな」

「これだけ。たぶん」


 ゼフィはもう一方の椅子を引き、リシェに座るよう勧めた。


「向こうではどうだった?」


 話したいことはたくさんあった。花に囲まれた家も、庭の池も、元気な犬も。順番を考えているうちに、一番伝えたかったことが先に出た。


「私、イネスさんの妹になります」


 手紙を読む音が止まった。


「そう。自分で決められたんだね」

「はい。家族になりたいって、言いました」


 ゼフィは急がせず、その先を待ってくれた。


「私のことも話しました。昔のことと、魔獣や精霊のことです。ロギのことは話していません」

「分かった。気になることが出てきたら、また相談しよう」


 そこでイネスが封筒を卓へ置いた。


「手続きはこれから。兄さんが必要なものを揃えてくれてる」

「フェリクスから?」

「そう。私が忘れそうなところには印までついてる」


 紙の端には、整った文字で短い注意書きが添えられていた。


 リシェが昨日、帰ってきたと知らせる手紙を書いている間にも、向こうでは準備が進んでいたらしい。


「先生にも、会ってほしいです」

「うん。機会があればぜひ」


 返事を聞いて、ようやく帰ってきた時から抱えていた報告が一つ済んだ気がした。


 イネスは残りの手紙を手早く分け、薄い冊子をリシェへ渡す。


「それと、こっちもいい知らせ。前に出した報告の見本が届いてる」


 薬草の葉を採る時期と、薬としての働きの違いをまとめたものだった。二人で何度も読み直した文章が、均一な文字で紙に並んでいる。


 表紙にはイネスの名と、その下にリシェの名があった。


「これ、持っていていいんですか?」

「君の分だよ」


 指先で紙の端を押さえた。書き損じも、訂正の線もない。それなのに、どの部分を調べた時に困ったのかは覚えていた。


「帰って早々、忙しくなりそうだね」


 ゼフィの言葉に、リシェは冊子から顔を上げた。


「はい。でもやりたいです」


     *


 養子の手続きは、その週のうちに進んだ。


 イネスと一緒に説明を聞き、書かれた内容を確かめる。読み慣れない言葉は尋ね、昨日までに確認したことと違いがないか、一つずつ追った。


 最後に、自分の名前を書く欄が残った。


「ここは、リシェでいいんですか?」

「ええ。今のお名前を書いてください」


 ペン先を紙へ置いた。


 何度も書いてきた短い名前を、今日は少しゆっくり書く。文字を確かめてペンを置くと、隣のイネスが書類を覗き込んだ。


「うん。きれいに書けた」


 その声が普段どおりだったので、張っていた息が抜けた。


 説明を終えて外へ出ると、昼の通りは人と荷車で混み合っていた。焼きたてのパンを運ぶ店員が二人の横を通り、角では野菜の値段を巡って声が上がっている。


「これで、私もヴァレールなんですね」

「そうだね。リシェ・ヴァレール」


 自分のものになった名前を、小さく繰り返した。


 長くて、まだ少しくすぐったい。


「急に慣れなくても大丈夫。私だって、研究室じゃほとんど呼ばれないし」


 イネスは通りの先を指した。


「お昼、食べて帰ろうか。今日は何がいい?」

「研究室に戻らなくてもいいんですか?」

「お祝いするくらいの時間はあるよ。何より私がお腹すいた」


 それならと、リシェは気になっていたパン屋を選んだ。


 温かい具を挟んだパンを買い、広場の端で包みを開く。膝の横ではフィエルがこちらを見上げていた。持ってきた食べ物を器へ出すと、ロギも肩から降りて縁を覗き込んだ。


『妹になったお祝いはこれ?』

『これはお昼だよ』

『じゃあ、お祝いは別にあるんだね』


 楽しみにしている声へ返す前に、イネスがパンを持ったままこちらを向いた。


「そうだ。母さんたちへの手紙、今日中に出そう」

「私も書きます」

「うん。二人で書こう」


     *


「じゃあ、イネスさんがお姉ちゃんになったの?」


 その日の夕方、ポルテへ報告に行くと、リリは真っ先にそこを確かめた。


「そうだよ」

「お姉ちゃんって呼ぶの?」

「それは、まだ……」


 隣を見上げると、イネスが楽しそうに待っていた。


「私はいつでもいいよ」

「待たないでください」


 ニルスが堪えきれずに笑い、ハンナは卓に置こうとしていた皿を持ったまま、二人を見比べた。


「よかったわね、リシェ」


 それだけ言って、いつもの席へ皿を置いてくれる。ブルーノは奥へ引っ込み、戻ってきた時には切り分けた菓子が増えていた。


「ちょうど焼けたところだ。食べていけ」


「私もいいの?」

「姉になったんだろう。座ってくれ」


 イネスが椅子へ腰を下ろすと、リリはさっそく家のことを聞き始めた。


 花がたくさんあったこと、大きな池があったこと、ラルフという犬に会ったこと。フィエルが撫でてもらう間に割り込んできた話では、ニルスが卓の下を覗いた。


「お前、犬に張り合ってたのか」


 フィエルはリシェの足元から動かなかった。


「仲良く遊んでもいたんだよ」

「それはそれ、これはこれってことか」


 足首に寄りかかる温かさを感じながら、菓子を一口食べる。


 名前が増えたことを、皆は喜んでくれた。そのあとはいつものように、留守中の広場の話や、近所で始まった工事の話になった。


 帰り際、ハンナに包みを持たされた。


「明日のおやつ。イネスさんと半分ずつね」

「ありがとうございます」

「研究しているうちに、お昼ご飯まで忘れないように」


「それ、私に言ってる?」

「もちろん」


 包みを抱えたリシェの隣で、イネスが苦笑した。


     *


 数日後、冒険者ギルドの受付で登録情報の変更を申し出ると、アリサは書類と登録証を交互に確かめた。


「お名前が増えるんですね」

「はい。リシェ・ヴァレールになります」


 今度はつかえずに言えた。


 手続きが終わるのを待っていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。


「ちびっこ、帰ってたのか」


 カイルの上着には旅の埃が残っていた。肩から荷物を下ろすなり、受付の紙を覗き込もうとしてアリサに押し戻される。


「他の方の手続き中です」

「はいはい。終わるまで待つって」


 隣へ退いたカイルに、リシェから事情を話した。


「へえ。イネスさんの妹に」

「はい」

「そっか。よかったな」


 あまりにあっさり言われて、用意していた続きが止まる。


「それだけですか?」

「何か言ってほしかった?」

「いえ、そうじゃなくて」

「じゃあ、妹になった記念に姉ちゃんへ何か頼んでみるとか」

「もう、いろいろ教えてもらっています」


 カイルは面白そうに耳を動かしたが、それ以上からかわなかった。


 更新を終えた登録証を受け取り、首の紐へ戻す。アリサは続けて、奥から一枚の書類を出した。


「リシェさん。イネスさんにも連絡が届いていると思いますが、東の丘陵の調査日が決まりました。同行者の確認をお願いします」


 待っていた調査だった。


 街の周辺とは土の違う場所へ入り、薬草がどこに育ち、同じ種類でもどんな差があるのかを調べる。施設の鉢や届いた標本だけでは分からないことを、自分で見に行ける。


 日付を確かめた横から、カイルが紙を見た。


「そこ、俺も行くよ」

「カイルさんも?」

「護衛の依頼が出てたからな。先生も一緒だろ?」


「はい。イネスさんと、ほかの研究員の方も」


 同行者の欄へ名前を書き、集合場所を聞く。出発は三日後だった。


 ギルドを出たところで、肩のロギが首を傾けた。


『今度はどんなところ?』

『まだ行ったことのないところだよ』


 隣ではカイルが、丘陵までの道にぬかるみが残っているかもしれないと話していた。


 靴を確かめて、採集袋と筆記具を揃えよう。あの筆記板も持っていける。


 リシェは調査の日付をもう一度見て、書類を鞄へしまった。

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