第百九話 見えてしまったもの
東の丘陵での調査は、予定より早く終わった。
探していた薬草は二か所で見つかり、採集した株も無事に箱へ収まった。リシェのノートには、育っていた場所の図と、イネスに教わった特徴が数頁にわたって並んでいる。
「帰ったら先に根を見たいな。乾く前に」
「昼ご飯も忘れるなよ」
荷物を背負い直したカイルに言われ、イネスは空を見た。
「まだそんな時間じゃないでしょ」
「帰ったら、の話」
リシェも筆記板を鞄へしまい、フィエルを呼んだ。岩陰の匂いを嗅いでいた銀白の体が、すぐ隣へ戻ってくる。ロギはその背から飛び立ち、リシェの肩へ移った。
『もう帰るの?』
『うん。今日は日帰りだから』
『あっちの上まで行ってみたかったな』
長い尾が指した先には、さらに高い岩場があった。
『また今度ね』
先頭のゼフィに続き、皆で斜面を下り始めた。
*
帰り道の途中に、斜面を横切る細い道があった。
右側は岩壁で、左側は低い茂みの向こうへ落ち込んでいる。朝も通った場所だが、帰りは荷物が増えていた。ゼフィが先に渡り、足元を確かめてから皆を呼ぶ。
「間を空けて一人ずつ。荷物を岩に引っかけないようにね」
イネスと研究員が渡り、フィエルも向こうへ着いた。
リシェは鞄を右側へ寄せ、後ろにいるカイルへ一度目を向けた。
「そのまま真ん中を歩け。急がなくていい」
頷いて、次の一歩を踏み出す。
靴の下で、ぱきりと音がした。
止まるより早く、地面が沈んだ。
「リシェ!」
左足が落ち、体が傾く。岩壁へ伸ばした指が滑り、鞄の重みに引かれた。
腕を掴まれたのは、その直後だった。
「こっち!」
カイルが道へ片膝をつき、リシェの腕を引いた。右足の先が土を削り、下から折れた枝が跳ね上がる。
その時、肩が急に熱くなった。
赤い翼が視界を横切った。
リシェの脇へ突き出していた太い枝が、白く眩しい火に包まれる。顔を背ける間に枝は途中から崩れ、黒い欠片となって斜面へ落ちた。
草には燃え移らなかった。
「足、上げろ!」
カイルの声で、リシェは残っていた右足を踏ん張った。胸元まで引き上げられ、道へ倒れ込む。
さらに肩を抱えられ、岩壁の方へ押し寄せられた。すぐ後ろで土が崩れ、石の落ちる音が続いた。
「カイル、そこから動かないで」
ゼフィが戻ってきた。道の縁から離れた場所へ足を置き、リシェの反対側へ屈む。
何を聞かれたのか、最初はうまく分からなかった。
掴まれた腕が痛い。膝も擦れている。でも、それより息が苦しくて、何度吸っても足りない気がした。
「リシェ、僕を見て。ゆっくりでいい」
ゼフィの顔を見つけ、ようやく頷く。
「足は動かせる?」
「……はい」
「痛むところは?」
「膝と、腕が」
カイルの手が緩んだ。
「悪い。強く掴んだ」
「違います。助けて、もらって……」
最後まで言えず、咳き込んだ。
足元へ来ようとするフィエルを、向こう側でイネスが抱き留めている。ロギは岩の上に止まっていた。いつもより小さく翼を畳み、こちらを見ていた。
『リシェ』
声が聞こえた途端、喉が詰まった。
『怪我した?』
首を振りかけて、止めた。
カイルが、ロギを見ていた。
*
崩れた場所を避けて広い草地へ移ると、イネスが膝の傷を洗ってくれた。
傷は浅かった。足首も腫れていない。少し歩いて確かめたあと、岩へ腰を下ろすと、フィエルがぴたりと足に体を寄せた。
『こわい』
届いた感情には、リシェ自身のものではない震えがあった。
「大丈夫。ここにいるよ」
毛の間へ指を入れると、フィエルは膝の傷を避けるように顎を乗せた。
少し離れた場所では、ゼフィと研究員が帰り道を相談していた。遠回りになるが、尾根の反対側へ下りられるという。
「荷物持つぞ」
カイルが鞄へ手を伸ばした。
「自分で持てます」
「今は足元に集中しろ。帰ったら返すから」
渡すと、肩紐を短くして自分の荷物へ括りつける。
その手の甲に、細い血の線があった。
「カイルさんも怪我を」
「これ?擦っただけ」
イネスに呼ばれて手を差し出したカイルの横顔を、リシェは見つめた。
見たはずだった。
ロギが飛んだところも、枝だけが燃えたところも。あの距離なら見間違いでは済まない。
それなのに、何も聞かれなかった。
*
遠回りの道では、カイルがリシェの前を歩いた。
段差の大きいところでは先に下り、危なそうなら手を貸してくれる。いつもなら軽く飛び越える溝も、今日は足を置ける場所を確かめていた。
リシェは何度も、その背中へ声をかけようとした。
ロギは肩に戻っている。羽が頬へ触れるたび、さっきの炎を思い出した。
『ごめんね』
小さな声が届いた。
『カイルがいたのに使っちゃった』
リシェは歩く速さを落とさず、胸の中で返した。
『あの枝を燃やしてくれたんだよね』
『君に当たりそうだったから』
落ちる先までは見えていなかった。あの時は、掴まれた腕と滑っていく足のことしか分からなかった。
『ありがとう、ロギ』
肩へ指を寄せると、嘴がそっと触れた。
前を行くカイルが振り返る。
「疲れた?」
「いえ。あの、カイルさん」
「ん?」
何を言えばいいのか、決めていなかった。
「さっき……ロギのこと」
カイルの視線が、赤い鳥へ一度だけ向いた。
「ああ。あれ、ロギがやったんだな」
誤魔化す言葉は出なかった。
「はい」
カイルは少しの間黙っていたが、やがて足元の石を道の脇へ退けた。
「事情があるんだろ。先生も知ってるみたいだし」
「聞かないんですか?」
「今ここで?」
少し先を歩くイネスたちの背中が見えた。研究員の一人が振り返り、遅れていないか確かめている。
リシェが口を閉じると、カイルは声を落とした。
「言いにくいなら、急いで話さなくていいよ。ただ俺が知っておいた方がいいことは教えて。危ない時に困るから」
いつもの気楽な調子だったが、その言葉にはすぐ頷けなかった。
秘密だから言えない。
そうしている間にも、カイルは何も知らずに手を伸ばしてくれた。これまでも、依頼に誘い、一緒に歩いてくれた。
「考えます」
「うん」
返事をして、カイルはまた前を向いた。
少し歩いてから、リシェはもう一度呼び止めた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
今度は最後まで言えた。
「どういたしまして。次からも、足元はちゃんと見ろよ」
「はい」
*
街へ戻った頃には、日が傾いていた。
採集した株はイネスたちが研究室へ運び、リシェはゼフィと一緒に傷を確かめてもらった。膝に新しい布を当ててもらい、部屋へ戻る。
カイルから返してもらった鞄には、筆記板もノートも揃っていた。割れた物はなく、採集袋の口に少し土が入り込んだだけだった。
椅子へ座ると、ようやく足の力が抜けた。
ロギが机へ降り、フィエルは椅子の横から離れない。
「先生」
帰ろうとしていたゼフィを呼び止めた。
「カイルさんに、ロギの力を見られました」
「うん。あの近さだったからね」
「ロギは私を助けようとしてくれたんです」
「分かっているよ。責めるつもりはない」
ゼフィは椅子を引き、向かいへ座った。
「カイルとは何か話した?」
「急いで話さなくてもいいって。でも、危ない時に知っておいた方がいいことは、教えてほしいって言われました」
口にしてみると、帰り道から考えていたことが、少しはっきりした。
知られたから仕方なく話すのは嫌だった。
でも、何も言わないまま、今までどおり隣を歩いてもらうのも違う気がした。
「私、カイルさんに話したいです」
机の上で、ロギが顔を上げた。
「ロギのことだけ?」
「それも、私のことも。全部を一度にはうまく話せないかもしれません。でも、ちゃんと話したいです」
ゼフィはリシェの顔を見てから、頷いた。
「それなら、話す場所と時間を決めよう。僕にも一緒にいてほしい?」
「はい。お願いします」
鞄から筆記板を取り出した。
角に、今日ついたばかりの傷があった。指で一度なぞり、紙を挟む。
カイルに伝えたいこと。
そう書いて、最初の一つを考えた。




