第九十六話 帰る場所の灯り
遺跡を離れる頃には、雪がまた降り始めていた。
救出された人たちは、担架や仲間の肩を借りて山道を下りた。歩ける者にも付き添いがつき、救出隊は何度も足を止めて列を整える。
リシェはゼフィのそばを歩いた。
フィエルは、彼のマジックバッグから出した厚い布に包まれ腕に抱かれている。最初は自分で歩こうとしたが、しばらくすると目を閉じていた。
「先生、重くないですか?」
「大丈夫だよ。君は足元を見ていて」
言われて前を向く。
さっきまでは踏み跡が見えていたところも、新しい雪で輪郭が薄くなっていた。カイルが先で振り返り、滑りやすい場所を指した。
「ここ、右側から。真ん中に石がある」
リシェは指された方へ足を置いた。
肩のロギが、首元へ身を寄せる。
『手冷えてない?』
『少し。でもまだ動くよ』
答えてから、指を握って確かめた。
*
下の待機場所へ着くと、馬車のそばに火が用意されていた。
救出された人を迎える声が重なり、担架が順に運ばれていく。リシェも手伝おうとしたが、包みを持ち上げる前に、そばの冒険者に止められた。
「それはこっちでやるよ。少し座っておいで」
ゼフィも頷き、火から少し離れた場所へ荷物を下ろした。
フィエルを布ごと膝へ受け取ると、思っていたより重かった。リシェは両腕で抱え直し、毛の隙間から見える胸の動きを確かめる。
穏やかに上下していた。
「眠っているだけ、ですよね」
「今のところ呼吸も体の様子も落ち着いている。街へ戻ったらエルネストにも見てもらおう」
リシェは布の端を直した。
怪我人のそばで伏せていた時間は、それほど長くなかった。それでも、いつもの昼寝とは違う気がしていた。
何かをしていたのだろうか。
眠った顔を見ていると、今は尋ねずにおこうと思った。
*
カイルが器を二つ持って戻ってきた。
「ほら。飲めそう?」
「ありがとうございます」
ゼフィに一つ渡し、もう一つをリシェの手元へ置く。膝のフィエルを片腕で支え、温かい器を受け取った。
湯気が頬に触れた。一口飲むと、体の内側へ温かさが落ちていく。
カイルは隣へ座り、手袋を外した。指の節に細かな擦り傷があった。
「手、怪我しています」
「石を触ったからな。あとで洗う」
言ってから、自分の手を眺める。
「中、冷えてたよ。動ける人もあのまま夜になってたら厳しかったと思う」
「みんな出られてよかったです」
「うん」
カイルはそれ以上、何も言わなかった。
火の向こうで、救出された一人が仲間の手を握っていた。何か話そうとして声にならず、ただ何度も頷いている。
リシェは少し目を伏せ、もう一口飲んだ。
*
街へ戻ったときには、すっかり暗くなっていた。
馬車が止まると、待っていた人たちが近づいてくる。担架を運ぶ手が増え、道が空けられた。
リシェはフィエルを抱いて下りようとして、立ち止まった。足が、思うように動かなかった。
「先にフィエルを」
ゼフィへ渡し、差し出された手を借りて地面へ降りる。歩き始めると膝が少し震えた。寒さなのか、疲れなのか、自分でも分からない。
ギルドで必要な報告を済ませる間、椅子に座って待った。ロギも肩から降りず、長い尾を静かに垂らしていた。
アリサが名前と人数を確かめ、最後にこちらへ来る。
「詳しい記録は後日でいいわ。今日は帰って休んでね」
「はい」
返された登録証をしまう。
バルドはほかの冒険者と話していたが、リシェが立つと一度こちらを見た。
「助かった。よく戻ったな」
短い言葉に頭を下げ、ゼフィと外へ出た。
*
施設の門には、明かりがついていた。
イネスとトーマが待っている。リシェの姿を見つけると、二人とも門の外へ出てきた。
「おかえり」
その声を聞いた途端、喉の奥が詰まった。
「……ただいま戻りました」
イネスはリシェの顔を見てから、ゼフィの腕の中へ目を移した。
「フィエルは?」
「救出のあと眠り込んだんだ。エルネストに相談したい」
イネスは布からのぞく顔を確かめ、すぐにトーマへ向き直った。
「連絡を頼める?できればこちらへ来てほしいと。戻ったばかりで、また動かすのは避けたい」
「分かりました」
トーマは扉を開けてリシェたちを通し、そのまま連絡に向かった。
温かい建物へ入ると、上着についた雪が水滴になった。リシェは手袋を外そうとしたが、指に引っかかってうまく抜けない。
「ゆっくりでいい」
イネスに手伝ってもらい、濡れたものを外す。ゼフィは隣の部屋から椅子を寄せ、フィエルを寝かせる場所を作っていた。
布ごと下ろされても、フィエルは目を開けなかった。
*
エルネストが着くまでの間に、リシェは着替えを済ませた。
戻ると、ゼフィがイネスへ現地の様子を話していた。怪我人のそばへ伏せたこと、そのあと眠たそうになったこと。リシェも、自分が感じたことを補った。
やがてトーマに案内され、エルネストが入ってきた。
「帰還したと聞いた。リシェ、君は怪我をしていない?」
「はい。フィエルも怪我はないと思います。でも……」
「まず見せてもらおう」
持ってきた鞄を置き、フィエルのそばへ腰を下ろす。呼吸を見て、体へ手を触れ、名前を呼んだ。
銀白色の耳が動いた。
瞼が少し開き、すぐに閉じる。体を確かめる手を嫌がる様子はなかった。
「今日はどのくらい歩いた?」
ゼフィが往復の道と、抱いて運んだ区間を説明する。エルネストは食事や水を取った時刻も聞き、手元へ書き留めた。
「怪我人のそばにいたのはどのくらい?」
リシェは思い返した。
「最後の人を出す前から、帰る準備をするまでです。正確な時間は分かりません」
「それでいい。途中でフィエルの様子は変わった?」
「起きていました。呼ぶとこっちも見ました。離れてから、眠いって伝わってきて」
エルネストは筆を止め、フィエルへ目を戻した。
イネスが別の紙を机へ置く。
「植物の方ではそばにいる株の回復が続いている。ただ、そのときにこの子が目立って疲れたことはない」
鉢の配置と変化を記した紙が、現地での経過の隣へ並んだ。
「人にも同じように働く可能性を考えたんだね」
「はい。でもよくなったのがフィエルのおかげかは、分かりません」
リシェが答えると、エルネストは頷いた。
「手当てと保温も受けている。それだけで治癒とは判断できない。浄化についても、今回は確かめる材料がないね」
もう一度、フィエルの呼吸を確かめる。
「今は移動と慣れない場所での疲れも含めて考えよう。何らかの力を使って消耗した可能性は残るが、結論を急ぐ必要はない」
*
フィエルは、診てもらっている途中で顔を起こした。
鼻先が動き、リシェを探すように目が向く。
「ここにいるよ」
そばへ座ると、手に鼻を寄せた。
『かえった』
「うん。帰ったよ」
エルネストへ、今伝わった言葉を話した。
「その短い言葉は、最近も届いている?」
「はい。毎回ではないですけど。今日は行く前にも」
「分かった。受け答えの様子が、普段と大きく違うわけではなさそうだね」
フィエルはリシェの手へ顎を載せ、また目を閉じた。
「今夜は休ませよう。起きたときに水や食事を取れるか、歩き方に変化がないかを見てほしい。反応が鈍くなるなど、今と違う様子があればすぐ知らせて」
「はい」
「明日、私も来る。植物の記録はそのとき改めて見せてもらえるかな」
イネスは紙を重ねた。
「もちろん。現地のことも分かる範囲で残しておく」
リシェは眠るフィエルへ目を落とした。何が起きたのか、今夜中に答えを出さなくてもいい。
見てくれる人がいると分かり、ようやく背中の力が抜けた。
*
食堂で少し食べ、部屋へ戻った頃には、リシェも眠気をこらえられなくなっていた。
フィエルはゼフィに運んでもらい、いつもの布へ寝かせた。イネスがあとで様子を見に来ると約束してくれた。
皆を見送ってから寝台の端へ座ると、ロギが机へ降りた。
「今日はよく待てたね」
「待っている間、何かしないとって思った」
「それであの子たちに聞いたんだね」
小さな光が石の上で揺れていた。
こちらだと届いた短い言葉。その先にあった、雪に隠れた隙間。
「私もっと聞けるようになりたい」
「何を聞いてみたい?」
「まだ分からない。でも、今まで気づいていなかったことがたくさんあると思う」
窓際で弱っていた鉢のことも浮かんだ。あの精霊も、何かを伝えようとしていたのかもしれない。
「今度は助けてほしいときだけじゃなくて、普段から話しかけてみたい」
「うん。相手が何を気にしているか、聞いてみたらいいよ」
リシェは机のノートへ目を向けたが、今日は開かなかった。
ロギがそれを見て、翼を少し広げる。
「続きは明日?」
「うん。明日」
*
翌朝、フィエルは自分で水を飲んだ。
まだよく眠ったが、食事を用意すると起き上がり、残さず食べた。部屋の中を歩く足取りにも、目立つ変化はない。
エルネストが来ると、扉の前まで近づいて鼻を動かした。
「おはよう。少し元気が戻ったかな」
リシェは朝の様子を伝えた。食べた量と、起きていた時間も話すと、エルネストは前夜の紙へ書き足した。
「今日は訓練も、外の仕事も休みにしよう。このまま普段の様子へ戻るか見たい」
「はい」
「今回のことが植物への影響とつながるかは、イネスと調べていく。君は、いつものフィエルと違うところがないか教えてくれると助かる」
その後、エルネストはイネスの作業室へ向かった。
リシェはフィエルと部屋に残り、しばらく一緒に過ごした。背を撫でていると、横から鼻先を手へ押しつけてくる。
眠たさだけではない、いつもの甘える気持ちだった。
*
昼過ぎには、ゼフィも訪ねてきた。
フィエルはその足元へ寄り、撫でられると尾をゆっくり揺らした。
「今日は出かけないよ」
そう言われ、リシェを振り返る。
「私も今日は休み」
フィエルは部屋へ戻り、布の上へ座った。
ゼフィは椅子へ腰を下ろし、救出された人たちのことを教えてくれた。全員が街で手当てを受けており、フィエルが寄り添っていた人も、朝には話ができたという。
「よかった」
声にすると、昨日から残っていたものが少しほどけた。
「君が精霊に尋ねてくれなければ、あの場所を見つけるまでもっと時間がかかっていたと思う」
「私だけでは分かりませんでした」
「うん。だから教えてくれたことを皆で確かめられてよかった」
リシェは足元を見た。フィエルが伏せ、ロギはその少し離れたところで羽を整えている。
「またあそこへ行けるでしょうか」
「遺跡へ?」
「はい。道を教えてくれた精霊に、お礼を言いたいです。みんな出られたって」
ゼフィは少し考えた。
「雪と崩れた場所が落ち着いたらね。今すぐは行けないけど、覚えておこう」
*
窓の外では、庭の雪が日に照らされていた。
ゼフィを見送ったあと、リシェは作業室へ顔を出した。今日は仕事をしなくていいと言われていたので、入口から声をかける。
「イネスさん。窓際の鉢、どうなりましたか?」
「少し葉が持ち直したよ。見ていく?」
隣の台へ移した株は、前より葉が起きていた。そのそばに、小さな緑の光がある。
リシェは少し離れた椅子へ座った。昨日までのことを話そうとして、まず相手がどこにいるか、ゆっくり目で追う。
光が葉から離れ、こちらへ近づいてきた。
「こんにちは」
静かに声をかける。
今度は、急いで尋ねたいことはなかった。
指先へ寄ってくるのを待ってから、リシェはそっと手を開いた。




