第九十三話 雪の前に届いた知らせ
庭の水桶に薄い氷が張るようになった。
朝の観察を終えたリシェは、作業室へ戻って手袋を外した。去年カイルにもらった革は、使ううちに指へ馴染んできている。
イネスは机に届いた手紙を読んでいた。
「春の調査、一緒に来てほしいそうだよ」
「どこへですか?」
「東の丘陵地。あちらでも葉を分けて採る方法を試したいらしい」
リシェは差し出された手紙を受け取った。研究施設宛てだったが、本文には自分の名前もある。
まだ先の予定だった。それでも、行ったことのない土地へ、自分の仕事を求められて向かうのだと思うと何度も同じ行を読んでしまった。
「春になったら日程を相談しよう」
「はい。場所を調べておいてもいいですか?」
「もちろん。ただ今日は先にあっちの鉢をお願い」
イネスが窓際を指した。
冬を越すために移した株のうち、一つだけ葉が垂れていた。
*
鉢へ近づくと、小さな光が葉の裏へ隠れた。
リシェは足を止めた。
淡い緑色の精霊だった。この株の近くで、何度か見かけている。水をやるときには鉢の縁へ移り、葉を裏返すと手のそばを漂う。
今日はすぐには出てこなかった。
「どうしたの?」
声を落として尋ねる。
返事はない。ただ落ち着かない気持ちが、かすかに触れた。
リシェはしゃがみ、葉と鉢を見た。虫の跡は見つからず、土の表面もひどく乾いてはいない。
『ロギ。あの子、何か嫌なのかな』
肩の赤い鳥が首を伸ばした。
『そう見えるね』
『何が嫌なのか分かる?』
『さあ。あの子に聞いてみようか』
リシェはもう一度、葉の下へ目を向けた。
「ここにいたくないの?」
光が動いた。
鉢の縁を越え、窓の方へ行く。だが、すぐに戻りまた葉の裏へ隠れた。
何かを伝えようとしている気はする。
リシェは鉢へ手を伸ばしかけ、止めた。勝手に場所を変えると、観察の条件まで変わってしまう。
「イネスさん。この鉢、窓から少し離してもいいですか?」
机から来たイネスは、葉の状態を確かめてから窓枠へ手を当てた。
「冷気が入ってるね。ここは昨日隙間を直してもらうつもりだった」
窓の下から、細く風が流れていた。
鉢を一つ隣の台へ移すと、小さな光もついてきた。しばらく葉の周りを巡り、今度は上側へ留まる。
さっきの落ち着かなさが、薄れた気がした。
「気づいてくれて助かった。移した時間も残しておこう」
「はい」
リシェは札の横へ書き添えた。
葉が元に戻るかは、まだ分からない。精霊が嫌がったものも、本当に冷気だったのかは確かめられなかった。
それでも、鉢の前を離れるとき、小さな光は指先までついてきた。
*
その日の午後は、ゼフィの家で地図を見る約束だった。
リシェは東の丘陵地へ行く話と、朝の精霊のことを話した。
「何か伝えたそうなのに、まだ分からないんです」
「前より具体的に感じることは増えた?」
「少し。今日はただ嫌な気持ちというより、そこから離れたいのかなと思いました」
ゼフィは机へ地図を広げた。
「相手の様子と実際に起きていることを、一緒に見ていこう。分からなかったところも覚えておくといいね」
リシェは頷いた。
足元では、フィエルが布へ伏せていた。ロギがその背へ降りると、銀白色の耳が後ろへ動く。
『おもい』
リシェは思わず顔を下げた。
『ロギ重いって。下りてほしいみたい』
『今日はいつもより小さくしてるよ』
ロギはフィエルを見てから、机へ飛び移った。
フィエルは満足したように顎を下ろす。
リシェは笑い、ゼフィへ向き直った。
「今のは分かりました」
「それはよかった」
ゼフィも笑ってから、地図の一点を指した。
「丘陵地はこの辺りだね」
リシェがノートを寄せたとき、玄関が強く叩かれた。
*
扉の向こうにいたのは、ギルドの職員だった。
息が白く、上着の肩には小さな雪が残っている。
「ゼフィリスさん。ギルドマスターがすぐに来てほしいと」
ゼフィは外へ出ず、その場で話を聞いた。
「何があった?」
「北の遺跡へ向かった調査隊が戻っていません。先ほど、護衛の一人が帰り着きました。崩落があったそうです」
リシェの手が、開いたノートの上で止まった。
ゼフィは必要なことをいくつか尋ねた。戻った人の状態、調査隊の人数、出発した日。職員は分かっている範囲を答え、先にギルドへ戻っていった。
扉が閉まると、部屋が静かになった。
「リシェ。今日はここまでにしよう」
ゼフィは地図を畳まず、棚から別の筒を取り出した。
「私もギルドへ行っていいですか?」
聞いてから、自分が何をできるのか考えた。北の遺跡へは行ったことがない。雪の中での救出も知らない。
「まずは話を聞きに行く。君も一緒に来ていいけど、参加できるかは別だよ」
「はい」
リシェはノートをしまった。
フィエルはもう立ち上がっていた。ゼフィの動きが普段と違うことを感じているのか、扉の前へ行かず、その顔を見ている。
ロギがリシェの肩へ戻った。
*
ギルドでは、受付の前に人が集まっていた。
アリサが職員へ指示を出し、奥の机では地図が広げられている。いつもの依頼の相談とは、空気が違った。
カイルがこちらに気づき、近づいてきた。
「あれ、先生も呼ばれた?」
リシェがゼフィを先生と呼ぶから、気づけばカイルもゼフィのことを先生と呼ぶようになっていた。
「うん。君も?」
「今話を聞いたところ。戻ってきた護衛は治療を受けてる」
カイルはリシェへ目を向けたが、今日は「ちびっこ」と笑わなかった。
バルドが奥から二人を呼ぶ。
「こちらへ」
リシェも机へ近づいた。
地図には、街から北へ延びる道と、山裾の森が描かれていた。その先にある印をバルドが指で押さえる。
「ここだ。古い遺跡の調査に研究者と護衛が入っていた。雪が降り始めてから引き揚げようとしたところで、通路が崩れたらしい」
戻った護衛は崩落の外側にいて、別の者と脱出口を探した。だが、奥に残った人たちを出せず、知らせに戻ってきたという。
「何人残っている?」
ゼフィが尋ねた。
バルドが答え、地図の上へ小さな木片を置いた。
「呼びかけへの返事はあった。だがその時点から時間が経っている。救出隊を編成する」
カイルは地図へ身を寄せた。
「入口を掘るだけで済む?」
「分からん。崩れた石を動かして、奥まで落ちれば危険だ。ほかの通路も調べる必要がある」
リシェは印を見つめた。
地図の上では小さな点だった。
そこに寒さの中で待っている人がいる。
ゼフィは道を指でたどり、積雪と到着までの時間を確認し始めた。
*
話を聞く間、リシェは黙っていた。
行きたいと言えば連れていってもらえる依頼ではない。
今までの仕事では何を任されるか先に分かっていた。今回は、現地へ着くまで分からないことが多い。
それでも机から離れられなかった。
バルドが救出に使う道具を挙げると、職員が紙へ書きつけた。ロープ、明かり、防寒具。戻れない場合に備えた食料もいる。
ゼフィが顔を上げた。
「リシェは少しこちらで待っていて」
カイルとバルドを伴い、机の端へ移る。
自分のことを相談しているのだと分かった。
フィエルが膝へ鼻を寄せる。撫でると、そばにいるという気持ちが伝わってきた。
『リシェ』
ロギの声が届く。
『行きたい?』
すぐには答えられなかった。
怖くないわけではない。だが行きたいかどうかだけでは決められないことも分かっていた。
『私にできることがあるなら』
ロギはしばらく黙り、それから短く返した。
『うん』
奥の扉が開き、毛布を肩へ掛けた男が職員に支えられて出てきた。
歩くたび、濡れた靴が床へ跡を残す。
「まだ中にいるんだ」
掠れた声にリシェは顔を上げた。
男は地図の机へ近づき、震える指で遺跡の印を示した。
「奥から声はした。だから……」
バルドが椅子を引いた。
「分かっている。座って、詳しく聞かせてくれ」
リシェは椅子の場所を空け、足元のフィエルを自分の方へ寄せた。
机の上に新しい紙が広げられる。
戻った護衛は崩れた通路の形をゆっくり描き始めた。




