第九十一話 帰ってきたら夜の声
夏の終わり、リシェは二冊目の調査記録をイネスへ渡した。
葉を採る位置と、株の育ち具合を分けて記録するようになってから、薬師へ届く品のばらつきは少し減っていた。採集者からは、見分けやすい株もあれば迷うものもあると報告が来る。
そのたびにイネスと現地へ行き、説明へ絵を足した。
まだ、どの土地でも同じだと言えるところまでは進んでいない。それでも薬師の店では新しい条件で集めた葉が使われ始め、施設には問い合わせが届くようになった。
「これ、君に聞きたいそうだよ」
イネスが手紙を一通差し出した。
リシェが開くと、葉が出る間隔についての質問が書かれていた。
「私だけでは答えられません」
「では調べたところと、分からないところを一緒に返そう」
机へ紙を置く。
以前はイネスの質問へ答えていた席で、今は自分宛ての問いを読んでいる。
返事を書き終えた頃、戸口へゼフィが来た。
「明日の朝、フィエルを連れて出かけてもいいかな」
足元で眠っていた銀白色の耳が立った。
*
その秋、フィエルは走る姿だけでなく、立っているときの印象も変わってきた。
脚が長くなり、胸や肩がしっかりしている。毛に隠れていた体の形が分かるようになり、ゼフィと並んで歩く背中を、リシェは時々目で追った。
小さな狐のようだった頃の面影は残っている。
だが、もう鞄へ入れて連れ歩くことはなかった。
朝、門で送り出すとき、フィエルは一度リシェの手へ鼻を寄せた。
「いってらっしゃい」
尾が揺れ、ゼフィの隣へつく。
ロギは今日はリシェの肩に残った。
『張り切ってるね』
『最近、先生が道具を用意しているだけで行こうとするの』
『今日はどこまで行くのかな』
リシェは門の向こうを見た。
詳しい場所は聞いている。帰る時刻も、遅れた場合にどう連絡するかも確かめていた。
それでも、二人が角を曲がるまではいつも見送った。
*
フィエルが戻ったのは日が傾き始めた頃だった。
作業室の扉が開くと、リシェは手にしていた札を箱へ置いた。
フィエルが入ってくる。
毛に土がつき、鼻の横には拭かれた跡がある。歩き方は普段どおりだったが、まっすぐリシェへ向かわず、ゼフィの足元で一度止まった。
「おかえり」
リシェがしゃがむと、近づいてくる。
胸へ届いたのは疲れと大きな満足だった。
見てほしい。
今日のことを知ってほしい。
その思いに、リシェは背へ手を置いた。
「何ができたの?」
「今日はDランクの魔獣を仕留めたよ」
ゼフィの言葉に、手が止まった。
「フィエルが、一人でですか?」
「うん。私は近くで見ていた。手を出す場面はなかった」
リシェはフィエルの顔へ目を向けた。
以前、先生と話した目標だった。
もっと先のことだと思っていたが、その間もフィエルは何度も出かけ、少しずつ動きを変えていた。
「怪我は?」
「鼻の横に浅い傷がある。洗って確認したけど、気にして擦るようなら教えてね」
リシェは触れずに傷を見る。
フィエルはその手へ顔を寄せようとしたので、胸の方を撫でた。
「そこは今日は触らないでおこうね」
ゼフィが椅子を引き、今日の相手について話した。
土を掘り返して暮らす魔獣で、硬い背と強い前脚を持っていた。正面から飛びかかると危ない相手だったという。
「最初は近づく方向を探していた。相手が向きを変えるたびに離れて、すぐには入らなかったよ」
「前みたいに追いかけなかったんですね」
「うん。待って、動いたところを狙えた」
フィエルの耳が動いた。
自分のことを話していると分かるらしく、リシェとゼフィを交互に見ている。
「ただ、Dの魔獣なら何でも倒せるというわけではない。今日の相手にも、途中で一度退いている」
リシェは頷いた。
勝ったことだけではなく、離れたことも先生は話してくれる。
フィエルの背を撫でながら、その二つを同じように覚えておこうと思った。
*
イネスが、記録を持って机から来た。
「明日の観察は私がやるよ」
リシェが顔を上げる。
「でも、約束の分が……」
「今日のうちにここまでは終わったでしょう。明日の朝は、その子をよく見ていてあげて」
机の上には、確認を済ませた札が並んでいた。
リシェはフィエルへ目を戻し、礼を言った。
ゼフィが立ち上がる。
「私も朝もう一度寄るね」
「はい。ありがとうございました」
見送ってから、フィエルを部屋へ連れていった。
抱かずに歩いてもらい、脚の動きを見る。少しゆっくりだったが、片方をかばう様子はない。
ロギも黙って後をついてきた。
*
食事を済ませると、フィエルは布へ横になった。
リシェが寝台の端へ座り、手を伸ばす。毛の奥はまだ温かかった。
「頑張ったね」
尾が一度動いた。
ロギは棚へ留まり、フィエルの鼻の傷を見ていた。
『今日も乗るの?』
リシェが尋ねると、赤い鳥は首を振った。
『今夜はこっちにしておくよ』
リシェは布の端を広げ、フィエルの脚が収まるようにした。
いつの間にか、寝床も狭くなっている。
「新しい布、用意しようね」
声をかけても今度は耳が動くだけだった。
疲れているのだろう。リシェも灯りを落とし、もらった返事の手紙を机へしまった。
*
夜中に目が覚めたとき、フィエルは寝床を出ていた。
寝台の脇へ座り、こちらを見ている。
リシェは上体を起こした。
「どうしたの。痛い?」
手を伸ばすと、鼻先が触れた。
痛みではない。
そばにいたい気持ちと、今日の満足がまだ残っていた。
それから短いものが胸へ届いた。
『できた』
リシェは動きを止めた。
フィエルを見つめる。
今のは、声だったのだろうか。
耳で聞いた音ではなかった。いつもの気持ちを、自分が言葉にしたのとも少し違う。
「……フィエル?」
呼ぶと、耳が前を向いた。
リシェは寝台を下り、床へ座った。
「今できたって言った?」
フィエルが近づき、膝へ顎を載せる。
うれしい。
見ていてほしい。
今度は、いつもと同じように気持ちが伝わった。
リシェは返事を待った。
銀白色の目が、こちらを見ている。
何度も尋ねたくなったが、やめた。眠そうに瞬く顔を、両手でそっと撫でる。
「うん。できたね」
フィエルの尾が床を掃いた。
*
『聞こえた?』
棚から、ロギの声がした。
リシェは顔を上げた。
『今の、私が考えただけじゃない?』
『どう聞こえたの?』
『できた、って。短く。でもいつもより、はっきり』
ロギが寝台へ降りた。
『伝わるものが増えているんだね』
リシェはフィエルへ目を戻した。
いつか話せるようになると、ロギは言っていた。
その日を何度か想像したことはある。ちゃんとした会話が、ある朝突然始まるのかもしれないと思っていた。
実際には、短い一言だった。
もう一度聞こうとしても、同じようには届かない。
それでもリシェは笑っていた。
「おかえりフィエル」
今夜何度目かの言葉を口にする。
フィエルは目を細め、膝へ体を寄せた。
*
翌朝、ゼフィが訪ねてくると、リシェは扉を開けるなり昨日の夜のことを話した。
うまく説明できず、同じところを言い直す。
「今は普通に気持ちが伝わるだけなんです。でも夜は……言葉みたいで」
ゼフィは最後まで聞いてから、足元のフィエルへ目を向けた。
「昨日のことを君にも伝えたかったんだね」
リシェは頷いた。
それでよかった。
今すぐ、もう一度話してもらう必要はない。
ゼフィが傷と歩き方を確かめている間、フィエルは大人しくしていた。終わると、リシェのそばへ戻ってくる。
「今日は休もう。次の練習も様子を見てからにするよ」
「はい」
リシェはフィエルと一緒に扉まで見送った。
廊下へ戻ると、ロギが赤い翼を広げて待っていた。
フィエルはその姿を見て、背を少し低くする。
「今日はいいの?」
ロギが降りると、銀白色の尾が揺れた。
リシェは二人の隣を歩いた。
食堂へ続く廊下は、いつもと同じだった。
ただ、フィエルへ話しかけるたび、返事を少しだけ長く待つようになっていた。




